甲斐の金山遺跡(その1)放光寺

           甲斐の金山遺跡(その1)
                - 高橋山放光寺 -

1. 初めに

  山梨県には、武田信玄の隠し金山と呼ばれる金山が、いくつもあったと伝えられています。
それらの中で、塩山市北方の「黒川金山」と身延町(旧下部町)の「湯之奥金山」が有名です。
 特に、「黒川金山」は、俗に「黒川千軒」と呼ばれるほど家々が立ち並び、「遊女屋」や
お寺などもあったとされるほどの賑わいだった、と伝えられています。
 どちらも既に学術調査がなされ、なぞの多い「隠し金山」のベールが少し剥がされつつあります。
 塩山市にある「花のお寺」として有名な、「放光寺」を妻と花見に訪れ、境内に黒川金山に縁
があった人々の霊を慰める為に建立されたという「鶏冠観世音菩薩像」があることに気付いた。
 このように、山梨県の各所に、金山に因む遺跡が眠っていると思われ、それらを随時
紹介してみたいと思います。
(2005年4月調査)

2. 場所

 山梨県塩山市の西北、国道140号線が笛吹川を渡る橋の近くに、「高橋山放光寺」があります。
武田信玄の菩提寺として有名な「恵林寺」の北にあたります。

3. 黒川金山と放光寺

 (1)黒川金山の歴史
    黒川金山は、大菩薩嶺の北に聳える鶏冠山・別名黒川山(1716m)の東側山腹
   標高1200〜1400m付近にある。鉱山町は、通称黒川谷と呼ばれる谷の両側に広がっていた。
    出土した遺物から、黒川金山は、15世紀末から16世紀初頭にかけて採掘がはじまり
   16世紀前半の武田信虎(信玄の父)の代に、最大規模に達し、その後しばらくは安定した
   産金量を維持していたが、勝頼の代に入る頃から急速に衰退し、天正5年(1577年)には
   『於金山黄金無出来』という状況であった。
    その後、産金量が回復したという史料は全くなく、16世紀後半には事実上その命脈は
   尽きてしまった。
    ただ、出土遺物から、鉱山町(集落?)は、17世紀中葉まで存続していたことが裏付けられ
   金山衰退後も一部の金掘はそのまま黒川山中にとどまっていたと考えられる。
    彼らは、近隣の丹波山金山(北都留郡丹波山村)へ出稼ぎ生活を送っていたことが知られ
   寛永17年〔1640年)には、黒川住民が発見・採掘していた秩父股の沢金山(埼玉県大滝村)
   もしくは、出羽延沢銀山(山形県尾花沢市)の採掘願いを提出している。
    このように、周辺や遠方の金銀山に出稼ぎで生計を立てていたが、金の出ない黒川に
   魅力を失った人々は、出稼ぎから移住の途を選択した。信濃の梓山・川端下金山(長野県
   川上村)に移住した風間家をはじめ、他所の金銀山に移住したり、金掘(=土木)技術を携え
   遠く常陸・水戸藩(茨城県水戸市)に仕えた永田家のように、17世紀中葉に黒川を去った
   人たちも多かった。
    遠方への移住に踏み切れなかった人々が新たな生活の場として選んだのは、黒川金山から
   北西約4kmにある、一之瀬高橋であった。ここが黒川に比べ特に開けているという理由では
   なく、秩父方面への交通の便から、この場所が選ばれたと推測される。
     一之瀬高橋に移住した金掘は、その後採金に携わることもなく、主に畑作と林業で生活を
   営んでいたが、その生活は厳しく、何度も飢饉に見舞われた。また、一之瀬高橋は、江戸時代を
   通じて独立した村として認められず、親郷10ケ村の枝郷として、親郷の支配下に置かれた。
    文久3年(1863年)、一之瀬高橋が親郷に無断で黒川金山に接する「東木」で金掘を雇い
   試掘を行ったことを発端に両者が対立し、結局一之瀬高橋側が詫び状を提出して決着した。
   黒川金山の金掘の子孫を自認する一之瀬高橋の住民にとって、この一件が彼等の心に残した
   傷痕は決して小さくなかっただろう。

 (2)放光寺の歴史
    放光寺の山門脇に、次のような「放光寺略縁起」が掲げられている。

   『平安時代の末期、元暦元年(1184年)、甲斐源氏新羅三郎義光の孫、安田遠江守義定の
    創立。開山は賀賢上人である。
    初めは、大菩薩峠の山麓一ノ瀬高橋に建立されたが、義定がこの地に移し安田一門の
    菩提寺とした。安田一門の悲劇を産んで以来武田氏の護持をうけ、とくに武田信玄は祈願所に
    定め寺領を寄進した。天正10年(1582年)、織田勢の兵火をこうむって一山ことごとく無に
    帰したが、徳川氏の保護をうけ、寛文年間義定の直子孫保田若狭守宗雪が中興開基となり
    現在の基礎をなした。・・・・・・・・・・・・・・・』

4. 鶏冠観世音菩薩
    放光寺境内にある鶏冠観世音菩薩像は、西村西望氏の作で、台座正面に「黒川金山慰霊碑」
   側面に「鶏冠観世音菩薩縁起」のプレートがはめ込まれています。

                  
                   鶏冠観世音菩薩

           
        「黒川金山慰霊碑」      「鶏冠観世音菩薩縁起」

   「鶏冠観世音菩薩縁起」によれば、この像建立の経緯は、次の通りです。

   『 黒川金山は鶏冠山とも言、塩山市上萩原にある。・・・・・・・・・・・・・
     当初はこの地を統治していた三枝、清原、安田氏の各豪族の手によって砂金
    採集が営まれ武田時代に至って本格的な金鉱採掘がおこなわれた。
     とくに信玄時代が全盛期で・・・・・当時黒川千軒と称し、多くの金掘師が集まり、・・・・・・・
    その中にあって、金掘人足達は過酷な労働を強いられ、まさに生き地獄であり
    黒川金山の犠牲になった人々は想像を絶するものがあった。ところが数百年来
    黒川金山にまつわる無縁の精霊に香華を手向ける人もなく、放置されていたところ
    おいらん渕付近で変死者が多く、不可解な事故が続発して人々は大変に困惑した。
     昭和53年7月宮原氏はそのことを深く憂い、悲運の最期を遂げた金掘師
    遊女たちの精霊を現地において3年間懇ろに供養をおこない、また茲に同氏の
    発願によって黒川金山にまつわる慰霊を因縁の深い当山境内に勧請し
    鶏冠観世音菩薩として永代供養をするものである。』

5. おわりに

(1)黒川金山で働いていた大勢の人々が一ノ瀬高橋の集落に移住したのは明暦年間(1655〜58年)と
  伝えられている。高橋山放光寺がその名のように一ノ瀬高橋の地に建立され、その後間もなく
  現在の位置に移されたのは、共に安田義定の時代で、人々が移住する100年以上前のことであり
  黒川金山と放光寺の関係が良く解りません。
   @安田義定時代に既に黒川金山で採掘が行われており、そこで働く大勢の人々の要請があり
     金山の安全と隆盛を祈願して放光寺を建立した。
   A移築された後も末寺のようなものが一ノ瀬高橋の集落に残されていたが、その後廃寺になった。

  などが考えられます。移築の理由も含め、いつか、調べてみたいと思います。

(2)「佐渡金山の水替え人足」に代表されるように、金山(鉱山)での労働には暗いイメージが付き
  まといますが、果たしてそうであったのか、疑問も残ります。
   坑内における作業は肉体を酷使し、困難ではあったが、それに見合う高賃銀が得られ、酒食
  衣服は言うに及ばず、生活全般が華美であった。金銀銅山の山内では、衣食住はもちろん
  芝居、神楽、相撲などの娯楽に至るまで一般農村の在方とは異なって自由であった、とも
  言われています。
   一ノ瀬高橋の集落に今も受け継がれている伝統行事・男春駒は、黒川金山の華やかなりし
  面影を残しているものと思われます。

    男春駒【本草の世界と鉱山町より引用】

(3)黒川金山を訪れたのは、もう10年ほど前のことで、また訪れたくなりました。

6. 参考文献

1)黒川金山遺跡研究会・塩山市文化財審議会編:黒川金山史料,塩山市教育委員会,平成3年
2)朝日新聞社:本草の世界と鉱山町,同社,昭和62年
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