五無斎 保科百助と信州の鉱物

五無斎 保科百助と信州の鉱物

1.初めに

 私が保科百助(ほしな ひゃくすけ)を知ったのは、草下英明先生の「鉱物採集フィールド
ガイド」の長野県小県郡の鉱物産地めぐりの章で、有名な武石村の「やきもち石」の
発見者として紹介してある数行の文章でした。
『武石村に、明治30年代、ここの小学校の小学校の校長をつとめた、保科百助という人物が
おられた。
信州の奇人ナンバーワンといわれた人で、鉱物学を専門に勉強したわけではなかったが
熱心な採集家で、大ハンマを肩に、当時人跡稀な長野県の山野をくまなく歩き回り
次々と新しい鉱物を発見して、中央の学会に紹介した。』
長野県の石友、S博士から、保科百助は、五無斎と号し、各種の著作をなしていたと聞き
探していたが、なかなか入手できなかった。ひょんな機会から、保科五無斎に関する
古書と新刊書を数冊入手でき、鉱物に関する部分を中心に、五無斎の人となり、言行を
調べてみた。
(2003年2月調査)

2. 保科百助略歴

明治元年   6月8日、長野県北佐久郡山部(現在の立科町)に生まれる。
明治14年   授業生(代用教員:月給50銭)として母校の山部小学校に奉職
明治19年   長野県師範学校入学
明治23年   夏休みに下水内郡で石油採集
明治24年   1年落第し卒業、下水内郡飯山小学校に奉職
明治25年   小県郡塩田小学校に転任
明治26年   収穫休みに南佐久郡大日向方面で鉱物採集
明治28年   小県郡武石小学校に転任
         「やきもち石」(緑簾石)採集
         浦里村で「玄能石」採集
         小藤文治郎、神保小虎両博士はじめ多くの来訪受ける。
明治28年   小県郡武石小学校長に就任
         長野県小県郡鉱物標本目録を日本地質雑誌に発表
明治31年   夏休みに東信地方で鉱物採集
明治32年   上水内郡大豆島小学校長に転任
明治33年   北佐久郡蓼科小学校長兼蓼科農学校長に転任
         パリ万博に13種(内発見・採集5種)の鉱物出品
明治34年   在職10年の教職を退職
         5月〜11月第1回県下漫遊・鉱物採集の旅
         300種、3万余塊採集
明治36年   信毎紙上に「通俗滑稽信州地質学のはなし」連載
明治37年   保科塾を開設
         槍ヶ岳に登山、菫青石発見
明治38年   諏訪郡産の標本を各校へ配布
         長野高等女学校に岩石標本1,400点寄贈、銀杯下賜
明治39年   狂歌集「よいかゝをほしな百首け」を刊行
明治40年   赤い車を引き、筆墨行商を始める。
         衆議院議員補欠選挙に立候補(得票23票で落選)
         読売新聞に連載された日本100奇人の第1位に当選
         上伊那郡産岩石鉱物標本を同郡各学校に頒布
明治41年   週間「信濃公論」創刊
         眼病(黒そこひ)となり治療を受ける。
明治42年   おもちゃ用標本説明売出し発表
         4月〜10月第2回県下漫遊・鉱物採集の旅
         120種、7万2千個採集
明治43年   「信州産岩石砿物標本説明書」「岩石鉱物新案教授法第1篇」発行
         「百万分の一長野県地質図」発行
         地学標本600組作製、全国的に販売図る。
明治44年   6月7日、長野日赤病院にて逝去(脳血栓)

両親に百歳まで生きるようにと命名された”百助”でしたが、その半分にも満たない
6月8日に生まれ、6月7日に亡くなる、まるまる43年の波乱に富んだ生涯でした。

3. 五無斎の由来

保科百助が五無斎と号するようになった契機として次のような逸話がある。
明治29年に採集旅行で、諏訪郡落合村(今の富士見町)を通りかかったときに、草鞋が
破れた。新しい草履を買おうとしたがお金が1厘(現在の5円くらい)足りなかった。
茶店の老婆にまけてくれるように頼んだが、聞き入れてくれない。そこで読んだ狂歌が

おあしなし 草履なしには 歩けなし
 おまけなしとは おなさけもなし

”なし”が5つあるところから名付けた号であるが、(生涯)独身を示す”御無妻”にも
通じるなど、いかようにも連想が働くように計算されていた。
また、江戸の3奇人の1人と呼ばれた「開国兵談」などの著書で有名な林子平が六無斎と
号したことも意識していたかもしれない。

4. 五無斎採集家となりたる所以

五無斎が、なぜ岩石・鉱物を採集するようになったか、「通俗滑稽信州地質学の話」の冒頭
第1章にその理由を10項目並べています。
(1)五無斎家系の事
   高遠城主保科弾正正直公の支族だが、いつしか百姓になった。養祖父は生涯独身で
  漫遊を好み、種々の奇談もあり、42歳の厄年に亡くなった。叔父も独身で、将棋と
  子どもが好きで、53歳で亡くなった。
   このような家系なので、奇人・怪物になれないはずが無い。漫遊を好み、独身を通し
  採集家になった。
(2)五無斎採集癖ある事
   師範学校時代、学友と植物を採集したことがあった。教師として赴任後、昆虫を採集
  したが良い師・友もなく標本も虫に食われたり、カビが生えて失敗。
   3度目の正直か、鉱物採集だけは何とか物になった。世界中、採集旅行をしてみたい。
(3)五無斎法螺性のある事
   明治27、8年のころ、ある席上『長野県は、あらゆる岩石・鉱物を産する。自分の名前に
  因み、百種、百箱の標本箱を作製し、各学校に配布する。』と法螺を吹き、予約を取った。
   その後、冷やかし半分に催促され、一昨年(明治34年)教職を辞し、鉱物採集旅行を挙行。
(4)五無斎復讐心に富む事
   標本箱の予約を破約した人々に対する、復讐心、面当てに400余種、4万余塊の標本を
  採集した。
(5)五無斎おだてに乗る性質ある事
   明治26年の収穫休みに南佐久郡大日向方面で2、30種の鉱物採集し、その結果を某職員会で
  披露したところ何時になく好評だった。(日頃は、長口舌で聴衆を飽き飽きさせていた。)
   明治28年武石小学校に赴任し、「やきもち石(緑簾石)」を発見。当時大学生だった
  高壮吉氏が来訪。続いて、浦里村で「玄能石」を採集。理学士・比企忠氏や脇水鉄五郎氏が
  来た。神保小虎博士は、2回も下宿にまで足を運んでくれた。
   遠くの博士、学士から標本の交換を申し込まれ、解説書付きの得がたい標本も多数集まり
  実物の鑑定だけは、誰にも負けないという自負をもつようになった。
   東京帝国博物館に緑簾石と玄能石を献納したところ、奇特であると褒められ、小藤文治郎博士
  (”小藤石”で有名)の指示で「文部省震災予防調査会調査報告書」3冊送ってもらった。
  これを種本にして、県内各地で講演(法螺説法)した。
   このような有様なので、日頃おだてに乗りやすい五無斎は有頂天になり、頼まれもしない
  事でも、あくせくと動き回った。これは、平たく言えば”世話好き”と言うこと。
(6)五無斎隠し芸を出して得意がる癖ある事
   五無斎は、「逆一」と号した時期もあったように、師範学校卒業時の成績尻から一番で
  学問では”金鎚の川流れのように、他の人に頭が上がらない”ので、何とか工夫して隠し芸的に
  何か秀でたものをと研究した。茶の湯もその一つであった。
   博物学をと思ったが、植物・動物は先鞭をつけられ、それなら鉱物岩石学はと、明治30年頃
  東京帝大地質学教室の神保教授に就いて結晶学を修めようとしたが、高等数学の素養なくしては
  結晶学はできないと聞いて失望した。結晶物を知らない鉱物学は奇石亭に等しいと冷やかされた。
   鉱物への未練断ちがたく、研究は無理なので、採集家になることにした。
(7)五無斎自己中心主義の教育法を創始せんと欲する事
   教育者が修身教育にあたって、古人の言行を引用するのは止めるべきで、経験を積むために
  4、5年漫遊させる自己中心主義の教育法が最も良い。とりわけ、鉱物採集は、採集道具も重く
  獲物も重いので、艱難辛苦に耐え、心身の鍛錬に一番良い。
(8)五無斎地学的知識の普及を図る事
   明治20年代後半まで、地学鉱物学の知識は長野県のみならず全国的に普及していなかった。
  地学、鉱物学を専門に修めた先生もいない現状なので、校長の職をなげうって、地学的知識の
  普及を図りたい。
(9)五無斎不生産的禅を廃して生産的禅を行ずる事
   釈迦、マホメット、イエスなど1宗派の開祖となった人物は、人跡稀な所で沈思黙考した事
  が分かった。しかし、面壁九年などは、不生産的である。
   世間の俗事に惑わされやすい五無斎でも、鉱物標本を採集している瞬間は、殆ど無我無心で
  世俗を忘れて悟りの境地である。心懸けるのは、
  @如何にして、結晶の善きものを得るか。
  A如何にして、形の良い標本を造るか、のみである。
  平常の自分の心が、鉱物採集の瞬間のようであれば、自分は聖人たり得る。
  岩石鉱物採集を一名五無斎禅と名付ける。1,000円の採集・整理費をかければ2,000円の価値の
  ある鉱物標本を作製でき、生産的禅である。
(10)五無斎信州博物館の設立を企てる事
   五無斎の理解者の1人である長野高等女学校長の渡辺敏先生を訪ねた際、長野公園に
  あった博物館が閉館になったことを残念がっていたのを知り、植物、動物、鉱物を展示する
  博物館の設立を思い立った。植物、動物そして石器時代の遺物の出品人の目処も立ち
  五無斎は、鉱物採集旅行に行った産地で、普通の標本のほかに、博物館展示用の大きく
  形の良い標本を2塊ずつ採集した。

5. 長野県小県郡鉱物標本目録標

鉱物の専門的な教育を受けたわけでもない五無斎が中央に知られるきっかけとなったのが
赴任先の小県郡武石村で発見した「やきもち石」(緑簾石)と同郡浦里村で採集「玄能石」で
あった。
 五無斎は、日本地質学雑誌明治29年7月号に、長野県小県郡で産する鉱物の一覧表を発表した。
それらの内、砥石などを除き、現在われわれが鉱物と呼んでいるものをピックアップしてみた。

            ×印:保科氏採集  ○印:保科氏新発見
(No) 名 称    産 地       方(言)名    備 考
(1)自然硫黄×   長村字角間
(2)同        東塩田村字平井寺
(3)赤鉄鉱○    武石村大字下本入
(4)褐鉄鉱×    武石村武石       ブセキ   村名を音読
(5)同×       西内村字高梨      ブセキ
(6)黄硫鉄鉱×   傍陽村字上洗馬
(7)黄硫鉄鉱×   神科村字山口
(8)黄硫鉄鉱×   東内村字虚空蔵
(9)黄硫鉄鉱×   武石村大字下武石    ヂャカ   チャカチャカと光輝発する
(10)黄硫鉄鉱    武石村大字余里ほか   金武石   黄金色を呈する
(11)黄硫鉄鉱    和田村字上和田     オンバガ子 黄金箔金の謂い?
(12)黄硫鉄鉱    神科村字新尾
(13)黄硫銅鉱×   神科村字山口            数十年前採掘?今廃坑
(14)同        傍陽村字軽井沢
(15)同        西内村字熊倉            採掘願中
(16)同        西内村字常滑沢ほか         常滑沢採掘許可済
(17)斑銅鉱     西内村字熊倉            量極めて微
(18)方鉛鉱○×  ?                 神川下流で採集
(19)同       大門村字落合
(20)同       武石村大字余里           微量の銀を含む、今廃坑
(21)同×      西内村字熊倉
(22)雲母鉄鉱×  和田村字下和田           村瀬氏発見
(23)?       西内村字熊倉            余は閃亜鉛鉱、某専門家銅鉱
(24)方解石×   東内村字新尾            褐色
(25)水晶×    傍陽村字上洗馬     六方石
(26)同×      東西内村諸所
(27)同×      武石村諸所
(28)普通石英×  傍陽村字上洗馬
(29)木化硅石×  東塩田村大字下ノ郷   木石
(30)同       豊里村大字長入     同
(31)同       浦里村字越戸      同
(32)角閃石○×  長窪古町字立岩
(33)石綿      依田村字尾ノ山
(34)同       浦里村字越戸
(35)柘榴石×   和田村和田峠絶頂    菱石    斜方12面体なる故?
                       緒〆石   緒〆の玉に似る?
(36)黒曜石×   同           星糞
(37)蝋石      傍陽村字上洗馬           数年前採掘、今廃坑
(38)同       武石村大字上武石
(39)苦土雲母×  武石村大字下本入          ある人蛭石、予加里雲母
                             一高生徒、両者同じ
(40)苦土雲母    浦里村字仁古田
(41)光線状泡石   西塩田村字前山     蛇骨    箱根産とその質異にす
(42)同       中塩田村字産川
(43)十字石×   西塩田村字前山     チガヒイシ 十字形をなす故?

6. パリ万博鉱物標本出品

1900年にフランスのパリで開催された万国博覧会に日本は、長い歴史をもつ文化国家であり
さらに、西欧諸国に劣らぬ科学国家であることをアピールするため、国の威信をかけて各種の展示物を
出品した。それらの中には、鉱物標本も含まれていた。
 鉱物標本は、和田維四郎氏の蔵品のうち国産鉱物320種を展示した。
これらのうち、信濃産の標本は13種あり、その内五無斎が発見・採集したものは次の5種で
あった。
(1)電気石
   南佐久郡川上村五所平産。菱面のみ大に発達し、柱面の殆ど見えぬ結晶をなし
   最大直径2寸(6cm)で、表面雲母の如きものに分解せり。
(2)緑簾石
   小県郡武石村産。保科百助発見。(「やきもち石」)
(3)透角閃石
   南佐久郡川上村産。(これは、現在「柱石」とされている)
(4)中性長石
   小県郡西塩田村字前山産。有名な違い石で斜長石が各種の双晶をなす。
(5)曹達沸石、魚眼石等
   小県郡西塩田村手塚産。

7. 長野県地学標本

生徒に観察させる標本そのものについても、五無斎は数々の不満があった。
@10、20年前に比べ進歩していないのに、値段だけが上がっている。
A金鉱だと言いながら、金が入っていないものもある。
B標本番号にピリオドを打つのをケチったため、68だか89だか分からない。
C誤って目録を失うと、名称・産地一切不明瞭となる。
  ”名称・産地なきの標本は、コレ一文の価値なし”と断じている。

このような背景から、五無斎は自分自身で、鉱物標本を作製・売出そうと動き出し
時には自らハンマを振るってトリミングなどを行った。
標本作製中の五無斎【評伝より引用】

明治34年5月〜11月第1回県下漫遊・鉱物採集の旅の採集品を中心に明治36年に236種の岩石
鉱物・土器・石器からなる「長野県地学標本」を103組作製した。
鍵のついた欅板製の頑丈な外箱に、9段の引き出しがあり、その中に標本を収納し総重量は35kg
標本の大きさは、4.5cm(1寸5分)×6cm(2寸)であった。その内訳は次の通り。
岩石   104種
化石    22種
鉱物    83種
土器石器  8種
合計が236種にならないのは、同一名の標本が複数あるものがあるためと考えられる。

   引出し式標本     外箱
    長野県地学標本【五無斎と信州教育より引用】
これを長野県内の各学校に頒布するとともに、皇室(皇太子・同妃ほか)、東京帝国大学などへ
献納した。これによって各方面から、賞状・礼状・感謝状さらに木杯まで贈られた。
とりわけ、皇太子(後の大正天皇)ご夫妻に献納した標本は嘉納(かのう)とされ宮内省から
御下賜金が授与されたことは、五無斎の社会的地位を大きく変化させるとともに、彼を見る
周囲の眼も大きく変化した。
これ以降、長野県に於ける岩石・鉱物のみならず博物学の泰斗と目され、講演依頼などが相次いだ。

8. おもちゃ用標本

次いで手がけた「おもちゃ用標本」については、五無斎が主催する「信濃公論」に明治42年
春ごろ売出し規則(広告)と鉱物標本の説明書が掲載された。

信濃公論鉱物採集号【五無斎と信州教育より引用】

8.1 おもちゃ用標本売出し規則
第1条  1銭5厘の葉書で申し込みの事。
第2条  本標本はボール箱だが、箱代12銭だせば、木箱もある。
第3条  手付金はいらないが、五無斎窮乏しているので、できれば前金3円60銭と
     小包料を添えて申し込まれれば、妙なり。
     七重八重 腰は折れども 山吹の 黄金貸す人 無きぞ悲しき
第4条  素人に売るか売らぬかなど照会する人もあるが、商売をするに誰彼の区別なし。
     この標本で充分研究した後、これを地元の学校に寄付するのが賢明な方法だが
     深く干渉はしない。
第5条  標本は代引きで郵送するが、長野市は五無斎が直接配達する。
8.2 おもちゃ用鉱物標本説明
五無斎は、鉱物標本には名称・産地だけでは不十分で、解説書が必要だと痛感していた。
それは、身近に手をとって鉱物を教えてくれる師がいなかったことが大きく影響している
ようです。その想いを「通俗滑稽信州地質学の話」で次のように述べています。
『黄銅鉱は、通常黄鉄鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・斑銅鉱および石英などを伴う。詳細な説明が
なければ、どの部分が黄銅鉱でどの部分が黄鉄鉱か区別できず、方鉛鉱と閃亜鉛鉱の区別も
できるだろうか。紅紫緑色のものは何かとかガラス棒のような鉱物は何かと生徒に聞かれ
困惑する先生も少なくない。』
そこで、おもちゃ用鉱物標本の1点1点について説明書があった。玉髄の部分を引用してみる。

(18)玉髄   産地(下高井郡箱山峠。母岩輝石安山岩)
下高井郡中野温泉より渋田中安代角間等の温泉への近道に箱山峠というがあり。上高井一般に
輝石安山岩のみなるが、この峠の頂上より稍(やや)二丁許りも南に当り此鉱物を産す。
偖(さて)此鉱物の成因は、火山作用の今日よりも一層旺盛なりし折、安山岩の空隙中に
沈殿したるものならん。都(す)べて火山岩中には空隙多きものなり。叉此空隙中には
諸種の鉱物多きものなり。即ち或地方にては沸石類を産し叉方解石を生ず。是は水晶と
兄弟分なる玉髄が出来たるなり。水晶は六角の柱とありて産するに是は結晶の不完全なる
もの叉、不明瞭なるなり。若(も)し此玉髄と水晶とが交(たが)ひ互(ちが)ひに
沈殿するときは瑪瑙となるなり。交ひ互ひの度の薄きも細きものを縞瑪瑙といふ。
然れども通常y瑙(けいのう)の玉といふは大縞の瑪瑙と1ト縞なるにて造りたるなり。
縞瑪瑙の稍立派なるものは上水内郡安茂里村字小市の仏頭石の中バに産し、叉小県郡
西内村より別所温泉に通す(ず)る何とやらいふ峠の半腹第三紀水成岩中にも産す。
斯(か)く致る所にあれど採掘に堪えず。採掘に堪えんも装飾品とはならず従って
売物とはならぬことゝ知るべし。新日本の先駆者佐久間象山翁之を上水内郡日里村
臥雲院の山頂に掘りたるの伝説あり、たづね行きたれども一物もなし。

この後に、次のような鉱物の解説が続きます。
(19)方鉛鉱
(20)蛭石
(21)鱗石英(鱗珪石)
(22)自然胆礬
(23)明礬
(24)沸石
(25)曹達沸石
(26)菫青石
(27)石灰華
(・)
(・)
(36)代赭石
(37)玄能石

8.3 おもちゃ用標本の販売
この標本箱が実際に販売されたのか、ハッキリしませんが、計画だけに終わったようです。
しかし、この考え方は、五無斎のライフワークとなった「信州産岩石鉱物標本」へと引継がれて
行きます。

9. 信州産岩石鉱物標本

明治42年4月〜10月の第2回県下漫遊・鉱物採集旅行の採集品をもとに、明治43年に120種の
岩石・鉱物・石器からなる「信州産岩石鉱物標本」を600組作製し、全国に頒布した。
明治36年に作製した標本との違いは、五無斎によれば次の通りである。
@前回は、同一種で産地が違う標本があったが、今回は1種1標本とした。
A標本の大きさを9cm(3寸)×7.5cm(2寸5分)とし、前回のものより面積で2倍強になり
 教授用に便利なようにした。
B江戸村(東京)の標本屋が造る標本への不満から、標本は新鮮、結晶が完全、母岩付きを
そろえ、その構成は次の通り。
岩石    83種
鉱物    36種
石器     1種
合計    120種

信州地学鉱物標本【五無斎と信州教育より引用したが、明治41年とあり疑問】
またこの標本には、下記の資料3点を添付した。
(1)信州産 岩石鉱物標本説明書
   第一高等学校の和田八重造助教授が作製し、東京帝国大学の神保小虎博士の校閲を得た
   堂々たるものである。
(2)岩石鉱物 新案教授法 一名 Nigirigin式教授法
   これは五無斎が、一名Nigirigin式教授法と称したもので、漢字では”握睾丸”と書く
   彼の造語で、当時の西洋崇拝を皮肉ってローマ字でつけた名称であろう。
   地学の授業に於いては、従来のように、教師が一方的に説明するのでなく、生徒に標本を
   渡して、充分観察させ、教師は自分の一物を握って泰然自若とし、生徒の自発的な研究心を
   待つべきだとする直感教育、実物教育を重視したものであった。
(3)百万分の一 長野県地質図
これは、中央幼年学校の瀧本鐙三教授に委託して作製されたもので、水成岩を青、火成岩を赤
   変成岩を紫の3色で印刷し、標本箱のボール箱の色に一致させるなど、五無斎の”こだわり”が
   感じられる。(鉱物は、金に因み、黄色のボール箱だった。)
長野県地質図【評伝より引用】

10. 標本採集

略歴にも示したように、五無斎は生涯に何回かの採集旅行を行っている。
それらのうち、規模が大きかったのは、次の2回であった。
@明治34年   5月〜11月第1回県下漫遊・鉱物採集の旅
A明治42年   4月〜10月第2回県下漫遊・鉱物採集の旅
鉱物採集姿【評伝より引用】

10.1 採集旅行の携行品
「信州産岩石鉱物 新案教授法」の中で、五無斎は採集旅行に必要な携行品を10項目掲げている。
 それぞれに、私のコメント(蛇足)を付け加えました。
@五無斎の如き稍実地に明るき案内人。
 産地が分からず苦労するのは今も昔も変らないようです。
A健全な体格と脚。
 五無斎は、身長5尺6寸余(170cm)、体重20貫(75kg)とほとんど私と同じで、当時としては
 体格の良いグループだった筈です。それでも当時は、車など利用することはできず、鉱物採集では、
 『採集道具も重ければ獲物も亦軽からず、時々10貫目(38kg)の荷物を負ひて10里(40km)余の
  道を歩み・・・・。獲物のなき時にても23貫目(2、3貫目の間違い?7〜10kg)位はある。』
  とだいぶ堪えたようです。
B鉄槌大小二梃。
 五無斎の使った鉄槌(ハンマ)は、某鉄工所に拵えさせたものでしたが、『地球をブッ欠く商売』の
 仕様にはなっておらず苦労させられたようです。
 『長野市の某鉄工所で百目(0.4kg弱)35銭宛てを投じたが、その用を為さない。
  ことに大鉄槌は長さ寸(3cm)余の割口3つを生ず。』
  旅先から皮肉を込めて、この鉄槌にクレームをつけています。
(これが本当の鉄槌を下す?)
 『鉄槌3梃ともナマクラに御座候。今更返却するのも如何・・・・・・各地到るところ
  学校長・教員諸君やら・・・・お手伝いありたる節、おもちゃ用としてあてがひ置き候。
  ご安心下されたく候。』
  困った挙句、旅先で鉄槌を2梃新調する。
  『此地(中山)のものは、百目(0.4kg弱)16銭宛なれど、歯のマクレ若しくはカイル
  (カエリ)事なし。』と満足気であった。
  この後も長野市の某鉄工所製の鉄槌を使ったと思われ
  『四ツ谷の鍛冶に托して鉄槌の修繕を為す。殊に火(鋼を硬くするための焼入?)を強く
   入れて貰いたり。然れども・・・・・・・硅岩などを打つかく時は直ちに角がスクンで
   マクレて仕舞うなり。』
C走向及び傾斜を計る器械。
 クリノメータであるが、五無斎がこれを実際に持ち歩き、使ったと思われる場面は日記などを
 読む限り見当たりません。
D木綿若しくは麻でつくりたる嚢1個。
 採集した標本や採集道具を入れたようで、五無斎の採集時の写真を見ると、2つ繋げて前後ろに
 ”振り分け”荷物にしていたこともあるようです。
E長径3寸、短径2寸5分、深さ1寸の箱1個。コは標本採集の尺度なり。
 鉱物標本箱で今でもよく使われる大きさは、7.5cm(2寸5分)×6cm(2寸)と9cm(3寸)
 ×4.5cm(1寸5分)の2種類だと思います。
 前者が五無斎の第1回鉱物採集、後者が第2回鉱物採集旅行での標本の大きさで、今から100年も
 前に既に標準化(?)の考え方があったのには驚きです。
F信州並びに群馬、埼玉2県の簡単なる地質図数葉。
 何故、山梨県が無いのだ!!
G自分の頭蓋骨大に等しき握り飯3個宛。
 総ての栄養を握り飯で摂るとこうなるのか。
H氷砂糖1斤程。コは非常にお腹の空たる時用ふ。
 今時は、チョコレートが非常食ですが、とうじの非常食は氷砂糖だったのですね。
I○○○好きなる人は○○1個
 五無斎は、造語の天才(おだて過ぎか)で、暗号のような手紙を送ったり、日記にも丸”○”が
 散見されます。
 ”○”を使った手紙で、代表的なのは下記の文章(?)で、「五無斎先生探偵帳」にも引用されて
 います。

『。。○○○○○○○○○○。。』

皆さん、どう解読しますか?

最初の”。”は、小さな丸で”こまる”→→”困る”。それが繰り返しで”困る、困る”
”○○○○○○○○○○”は、10個の”○”で、”十丸”→→”とおまる”→→”泊まる”
最後の”。。”は、2個の”。”で、”2個まる”→→”に困る”
つまり、全部つなげると、『困る、困る、泊まるに困る』となり、五無斎先生宿泊先探しに
苦労していたようです。
さて、本題に戻り、Iに書かれた”○○○”の意味は何でしょうか?
五無斎の日記の中で”○○○”は、『○○○1樽』、『○○○頂戴す』などの用例からも分かる様に
彼がこよなく愛した”御神酒”すなわち”お酒”だと思います。
次の”○○”は、単位が助数詞の”1個”とあるところから、お酒に関係する容器だろうと想像でき
ます。
”斗酒なお辞せず”と評された五無斎が”猪口”で飲むのは似合わず、”湯呑”だろうと想像します。

10.2 採集品へのこだわり
既に述べたように、標本の大きさ、完全な結晶、母岩付など標本に対する注文の厳しかった五無斎は
篤志の人々に鉱物標本の寄贈を呼びかけた際、次のような細かい注意を与えています。
@数は必ず100個以上なるべきこと。
A鉱物の標本は尤(もっと)も結晶に注意すべきこと。
 且目方は450匁(約1700g)なるべきこと。
B岩石標本はマッチの大きさ(9cm×6cm?)なるべきこと
 且表面に金鎚の痕跡なきよう注意されたし。
C荷物はミカン箱に納めワラにて摩擦を防ぐべきこと。

10.3 五無斎の野帳(フィールド・ノート)
五無斎の遺品の中に3冊の野帳(フィールド・ノート)が遺されています。

野帳(フィールド・ノート)【評伝より引用】
野帳第3冊の裏とびらには、次のような遺言がしたためてあった。

我死なバ佐久の山部へ送るべし
焼てなりとも生マでなりとも
但し運賃向払にて苦しからず候

5.おわりに

(1)五無斎 保科百助の評価は、毀誉褒貶甚だしいものがあるようです。
   それは、彼が常人のスケールで図り得ない(時として、常軌を逸したと受け止められる)
   エネルギーをもっていたことの証ではないだろうか。
(2)五無斎と交流があり、良き理解者でもあった長野県教育界の重鎮・渡辺敏は次のように
   五無斎を評している。これが、適切な評価ではないだろうか。
   『五無斎の如きもの信州に一無かるべからず。以って二ある可からず。』
    (1人はいなくてはならないが、2人といてはならない(また、あり得ない))
(3)長野県各地に五無斎 保科百助の遺跡、遺品そして足跡が残されているので、これらを辿る
   旅も考えています。

6.参考文献

1)佐久教育会編;五無斎 保科百助全集 全,信濃教育会出版部,昭和39年
2)佐久教育会編;五無斎 保科百助評伝,同会,昭和44年
3)平沢信康:五無斎と信州教育 野人教育家・保科百助の生涯,学文社,2001年
4)横田順彌:五無斎先生探偵帳,インターメディア出版,2000年
5)草下英明:鉱物採集フィールドガイド,草思社,1988年
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