両親に百歳まで生きるようにと命名された”百助”でしたが、その半分にも満たない
6月8日に生まれ、6月7日に亡くなる、まるまる43年の波乱に富んだ生涯でした。
おあしなし 草履なしには 歩けなし
おまけなしとは おなさけもなし
”なし”が5つあるところから名付けた号であるが、(生涯)独身を示す”御無妻”にも
通じるなど、いかようにも連想が働くように計算されていた。
また、江戸の3奇人の1人と呼ばれた「開国兵談」などの著書で有名な林子平が六無斎と
号したことも意識していたかもしれない。
×印:保科氏採集 ○印:保科氏新発見
(No) 名 称 産 地 方(言)名 備 考
(1)自然硫黄× 長村字角間
(2)同 東塩田村字平井寺
(3)赤鉄鉱○ 武石村大字下本入
(4)褐鉄鉱× 武石村武石 ブセキ 村名を音読
(5)同× 西内村字高梨 ブセキ
(6)黄硫鉄鉱× 傍陽村字上洗馬
(7)黄硫鉄鉱× 神科村字山口
(8)黄硫鉄鉱× 東内村字虚空蔵
(9)黄硫鉄鉱× 武石村大字下武石 ヂャカ チャカチャカと光輝発する
(10)黄硫鉄鉱 武石村大字余里ほか 金武石 黄金色を呈する
(11)黄硫鉄鉱 和田村字上和田 オンバガ子 黄金箔金の謂い?
(12)黄硫鉄鉱 神科村字新尾
(13)黄硫銅鉱× 神科村字山口 数十年前採掘?今廃坑
(14)同 傍陽村字軽井沢
(15)同 西内村字熊倉 採掘願中
(16)同 西内村字常滑沢ほか 常滑沢採掘許可済
(17)斑銅鉱 西内村字熊倉 量極めて微
(18)方鉛鉱○× ? 神川下流で採集
(19)同 大門村字落合
(20)同 武石村大字余里 微量の銀を含む、今廃坑
(21)同× 西内村字熊倉
(22)雲母鉄鉱× 和田村字下和田 村瀬氏発見
(23)? 西内村字熊倉 余は閃亜鉛鉱、某専門家銅鉱
(24)方解石× 東内村字新尾 褐色
(25)水晶× 傍陽村字上洗馬 六方石
(26)同× 東西内村諸所
(27)同× 武石村諸所
(28)普通石英× 傍陽村字上洗馬
(29)木化硅石× 東塩田村大字下ノ郷 木石
(30)同 豊里村大字長入 同
(31)同 浦里村字越戸 同
(32)角閃石○× 長窪古町字立岩
(33)石綿 依田村字尾ノ山
(34)同 浦里村字越戸
(35)柘榴石× 和田村和田峠絶頂 菱石 斜方12面体なる故?
緒〆石 緒〆の玉に似る?
(36)黒曜石× 同 星糞
(37)蝋石 傍陽村字上洗馬 数年前採掘、今廃坑
(38)同 武石村大字上武石
(39)苦土雲母× 武石村大字下本入 ある人蛭石、予加里雲母
一高生徒、両者同じ
(40)苦土雲母 浦里村字仁古田
(41)光線状泡石 西塩田村字前山 蛇骨 箱根産とその質異にす
(42)同 中塩田村字産川
(43)十字石× 西塩田村字前山 チガヒイシ 十字形をなす故?
このような背景から、五無斎は自分自身で、鉱物標本を作製・売出そうと動き出し
時には自らハンマを振るってトリミングなどを行った。
明治34年5月〜11月第1回県下漫遊・鉱物採集の旅の採集品を中心に明治36年に236種の岩石
鉱物・土器・石器からなる「長野県地学標本」を103組作製した。
鍵のついた欅板製の頑丈な外箱に、9段の引き出しがあり、その中に標本を収納し総重量は35kg
標本の大きさは、4.5cm(1寸5分)×6cm(2寸)であった。その内訳は次の通り。
岩石 104種
化石 22種
鉱物 83種
土器石器 8種
合計が236種にならないのは、同一名の標本が複数あるものがあるためと考えられる。
8.1 おもちゃ用標本売出し規則
第1条 1銭5厘の葉書で申し込みの事。
第2条 本標本はボール箱だが、箱代12銭だせば、木箱もある。
第3条 手付金はいらないが、五無斎窮乏しているので、できれば前金3円60銭と
小包料を添えて申し込まれれば、妙なり。
七重八重 腰は折れども 山吹の 黄金貸す人 無きぞ悲しき
第4条 素人に売るか売らぬかなど照会する人もあるが、商売をするに誰彼の区別なし。
この標本で充分研究した後、これを地元の学校に寄付するのが賢明な方法だが
深く干渉はしない。
第5条 標本は代引きで郵送するが、長野市は五無斎が直接配達する。
8.2 おもちゃ用鉱物標本説明
五無斎は、鉱物標本には名称・産地だけでは不十分で、解説書が必要だと痛感していた。
それは、身近に手をとって鉱物を教えてくれる師がいなかったことが大きく影響している
ようです。その想いを「通俗滑稽信州地質学の話」で次のように述べています。
『黄銅鉱は、通常黄鉄鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・斑銅鉱および石英などを伴う。詳細な説明が
なければ、どの部分が黄銅鉱でどの部分が黄鉄鉱か区別できず、方鉛鉱と閃亜鉛鉱の区別も
できるだろうか。紅紫緑色のものは何かとかガラス棒のような鉱物は何かと生徒に聞かれ
困惑する先生も少なくない。』
そこで、おもちゃ用鉱物標本の1点1点について説明書があった。玉髄の部分を引用してみる。
(18)玉髄 産地(下高井郡箱山峠。母岩輝石安山岩)
下高井郡中野温泉より渋田中安代角間等の温泉への近道に箱山峠というがあり。上高井一般に
輝石安山岩のみなるが、この峠の頂上より稍(やや)二丁許りも南に当り此鉱物を産す。
偖(さて)此鉱物の成因は、火山作用の今日よりも一層旺盛なりし折、安山岩の空隙中に
沈殿したるものならん。都(す)べて火山岩中には空隙多きものなり。叉此空隙中には
諸種の鉱物多きものなり。即ち或地方にては沸石類を産し叉方解石を生ず。是は水晶と
兄弟分なる玉髄が出来たるなり。水晶は六角の柱とありて産するに是は結晶の不完全なる
もの叉、不明瞭なるなり。若(も)し此玉髄と水晶とが交(たが)ひ互(ちが)ひに
沈殿するときは瑪瑙となるなり。交ひ互ひの度の薄きも細きものを縞瑪瑙といふ。
然れども通常y瑙(けいのう)の玉といふは大縞の瑪瑙と1ト縞なるにて造りたるなり。
縞瑪瑙の稍立派なるものは上水内郡安茂里村字小市の仏頭石の中バに産し、叉小県郡
西内村より別所温泉に通す(ず)る何とやらいふ峠の半腹第三紀水成岩中にも産す。
斯(か)く致る所にあれど採掘に堪えず。採掘に堪えんも装飾品とはならず従って
売物とはならぬことゝ知るべし。新日本の先駆者佐久間象山翁之を上水内郡日里村
臥雲院の山頂に掘りたるの伝説あり、たづね行きたれども一物もなし。
この後に、次のような鉱物の解説が続きます。
(19)方鉛鉱
(20)蛭石
(21)鱗石英(鱗珪石)
(22)自然胆礬
(23)明礬
(24)沸石
(25)曹達沸石
(26)菫青石
(27)石灰華
(・)
(・)
(36)代赭石
(37)玄能石
8.3 おもちゃ用標本の販売
この標本箱が実際に販売されたのか、ハッキリしませんが、計画だけに終わったようです。
しかし、この考え方は、五無斎のライフワークとなった「信州産岩石鉱物標本」へと引継がれて
行きます。
10.1 採集旅行の携行品
「信州産岩石鉱物 新案教授法」の中で、五無斎は採集旅行に必要な携行品を10項目掲げている。
それぞれに、私のコメント(蛇足)を付け加えました。
@五無斎の如き稍実地に明るき案内人。
産地が分からず苦労するのは今も昔も変らないようです。
A健全な体格と脚。
五無斎は、身長5尺6寸余(170cm)、体重20貫(75kg)とほとんど私と同じで、当時としては
体格の良いグループだった筈です。それでも当時は、車など利用することはできず、鉱物採集では、
『採集道具も重ければ獲物も亦軽からず、時々10貫目(38kg)の荷物を負ひて10里(40km)余の
道を歩み・・・・。獲物のなき時にても23貫目(2、3貫目の間違い?7〜10kg)位はある。』
とだいぶ堪えたようです。
B鉄槌大小二梃。
五無斎の使った鉄槌(ハンマ)は、某鉄工所に拵えさせたものでしたが、『地球をブッ欠く商売』の
仕様にはなっておらず苦労させられたようです。
『長野市の某鉄工所で百目(0.4kg弱)35銭宛てを投じたが、その用を為さない。
ことに大鉄槌は長さ寸(3cm)余の割口3つを生ず。』
旅先から皮肉を込めて、この鉄槌にクレームをつけています。
(これが本当の鉄槌を下す?)
『鉄槌3梃ともナマクラに御座候。今更返却するのも如何・・・・・・各地到るところ
学校長・教員諸君やら・・・・お手伝いありたる節、おもちゃ用としてあてがひ置き候。
ご安心下されたく候。』
困った挙句、旅先で鉄槌を2梃新調する。
『此地(中山)のものは、百目(0.4kg弱)16銭宛なれど、歯のマクレ若しくはカイル
(カエリ)事なし。』と満足気であった。
この後も長野市の某鉄工所製の鉄槌を使ったと思われ
『四ツ谷の鍛冶に托して鉄槌の修繕を為す。殊に火(鋼を硬くするための焼入?)を強く
入れて貰いたり。然れども・・・・・・・硅岩などを打つかく時は直ちに角がスクンで
マクレて仕舞うなり。』
C走向及び傾斜を計る器械。
クリノメータであるが、五無斎がこれを実際に持ち歩き、使ったと思われる場面は日記などを
読む限り見当たりません。
D木綿若しくは麻でつくりたる嚢1個。
採集した標本や採集道具を入れたようで、五無斎の採集時の写真を見ると、2つ繋げて前後ろに
”振り分け”荷物にしていたこともあるようです。
E長径3寸、短径2寸5分、深さ1寸の箱1個。コは標本採集の尺度なり。
鉱物標本箱で今でもよく使われる大きさは、7.5cm(2寸5分)×6cm(2寸)と9cm(3寸)
×4.5cm(1寸5分)の2種類だと思います。
前者が五無斎の第1回鉱物採集、後者が第2回鉱物採集旅行での標本の大きさで、今から100年も
前に既に標準化(?)の考え方があったのには驚きです。
F信州並びに群馬、埼玉2県の簡単なる地質図数葉。
何故、山梨県が無いのだ!!
G自分の頭蓋骨大に等しき握り飯3個宛。
総ての栄養を握り飯で摂るとこうなるのか。
H氷砂糖1斤程。コは非常にお腹の空たる時用ふ。
今時は、チョコレートが非常食ですが、とうじの非常食は氷砂糖だったのですね。
I○○○好きなる人は○○1個
五無斎は、造語の天才(おだて過ぎか)で、暗号のような手紙を送ったり、日記にも丸”○”が
散見されます。
”○”を使った手紙で、代表的なのは下記の文章(?)で、「五無斎先生探偵帳」にも引用されて
います。
『。。○○○○○○○○○○。。』
皆さん、どう解読しますか?
最初の”。”は、小さな丸で”こまる”→→”困る”。それが繰り返しで”困る、困る”
”○○○○○○○○○○”は、10個の”○”で、”十丸”→→”とおまる”→→”泊まる”
最後の”。。”は、2個の”。”で、”2個まる”→→”に困る”
つまり、全部つなげると、『困る、困る、泊まるに困る』となり、五無斎先生宿泊先探しに
苦労していたようです。
さて、本題に戻り、Iに書かれた”○○○”の意味は何でしょうか?
五無斎の日記の中で”○○○”は、『○○○1樽』、『○○○頂戴す』などの用例からも分かる様に
彼がこよなく愛した”御神酒”すなわち”お酒”だと思います。
次の”○○”は、単位が助数詞の”1個”とあるところから、お酒に関係する容器だろうと想像でき
ます。
”斗酒なお辞せず”と評された五無斎が”猪口”で飲むのは似合わず、”湯呑”だろうと想像します。
10.2 採集品へのこだわり
既に述べたように、標本の大きさ、完全な結晶、母岩付など標本に対する注文の厳しかった五無斎は
篤志の人々に鉱物標本の寄贈を呼びかけた際、次のような細かい注意を与えています。
@数は必ず100個以上なるべきこと。
A鉱物の標本は尤(もっと)も結晶に注意すべきこと。
且目方は450匁(約1700g)なるべきこと。
B岩石標本はマッチの大きさ(9cm×6cm?)なるべきこと
且表面に金鎚の痕跡なきよう注意されたし。
C荷物はミカン箱に納めワラにて摩擦を防ぐべきこと。
10.3 五無斎の野帳(フィールド・ノート)
五無斎の遺品の中に3冊の野帳(フィールド・ノート)が遺されています。
我死なバ佐久の山部へ送るべし
焼てなりとも生マでなりとも
但し運賃向払にて苦しからず候