・鉱山札の研究
( Study of Mine Note )
これらを見ると、「鉄山札」や「銀山札」は、播磨国や但馬国(いずれも現在の兵庫県)
「炭坑札」は北九州に集中して多いようだ。
そんな折、「本川鉱山札」なるものを入手した。入手してみたものの、本川鉱山がどこ
にあって、何を採掘していたのかすら判らなかった。高知県いの町に問い合わせしたり
古書店で「土佐白瀧鉱山史の研究」を入手し、高知県にあった含銅硫化鉄鉱を採掘し
た白滝鉱山の前身が本川鉱山だと知った。
「本川鉱山札」は、具定鉱山内の部署間の金銭授受の受取証の形をとっているが、
鉱山から鉱夫に賃金の代わりに支給され、これで鉱夫とその家族がお米などの生活必
需品を購入していたと考えられる。
つまり、鉱山内で紙幣の代わりをしていたと思われるので、「鉱山札」としてまとめてみ
た。
このページをまとめるに当り、資料の提供をいただいた、高知県いの町役場の皆様に
厚く御礼申し上げる。
( 2009年8月調査 )
2. 「本川鉱山札」の概要
入手した「本川鉱山札」は、縦97mm、横63mmで、上辺の角が約14mm
切り落とされている。
厚さ約0.4mmの和紙に黒色で印刷され、24mm角印「鑛山□證」、20mm×8mm
小判印「鉱山證」そして16mm×9mm小判印「□□」の3つの印が押してある。
札には、次のように
印刷してある。
證
一金五銭
右正ニ請取候也
本川 鉱山
具定出張
金穀係中
これは、本川にあった鉱山が金穀係(お金や穀物:米等を扱う部署)に対して5銭受け
取った、という受取り証書である。
一見、賃銀(金)の支払いの代わりに鉱山から鉱夫に渡されたいわゆる「鉱山札」とは
性格が異なるもののようだ。しかし、詳しく調べてみると、鉱山がこれを賃金として鉱夫に
渡し、鉱夫がこの札と引き換えに「金穀係」からお米などの生活必需品を買っていた、と
考えられ、立派な「鉱山札」だ。
鉱山内の部署間のやり取りであれば、このような複雑なことはしないだろうし、札が手
垢(?)で汚れ、皺(しわ)がよっているのを見ると賃金の代わりに鉱夫に支給された可
能性が高い。
3. 本川鉱山とは
入手してみたものの、本川鉱山がどこにあって、何を採掘していたのかすら判らなかっ
た。
「土佐白瀧鉱山史の研究」の目次に、『本川銅山』云々、とあったので土佐(現高知県)
にあった銅山(鉱山)だろうと見当がついた。
しかし、「四国鉱山誌」や「日本鉱産誌」などをみても『本川鉱山(銅山)』の名前はない。
「土佐白瀧鉱山史の研究」を購入するとともに、高知県土佐郡に本川郷があり、「本川」
という地名が今も残っている高知県いの町役場にメールで問い合わせした。すると、「本
川村史」の中の『本川郷の鉱山開発』の章のコピーを恵送していただいた。
これらの情報を総合して、「本川鉱山(銅山)」の姿が、おぼろげながら明らかになった。
3.1 幕政期の本川銅山
「土佐白瀧鉱山史の研究」によれば、土佐藩が幕府の許可を得て、土佐郡本川郷
で「本川銅山」と称して採掘事業を行ったのは幕政期に3回あった。
鉱山名 | 開坑 | 閉山 | 所 在 地 | 備 考 |
大北川銅山 | 元禄12年 (1699年)2月 | 同16年11月 |
大北川村 | 現土佐郡大川村
元禄13年3月
松平長兵衛米視察報告書
「坑道6ケ所
須(荒)吹釜3、真吹釜2
坑夫小屋51軒、役宅・番所9軒
稼行人526人(男471、女55)」 |
黒瀧銅山 | 正徳2年 (1712年)10月 | ? 何時とはなしに閉山 |
桑瀬村 | 現いの町 |
朝谷銅山 (麻谷銅山) | 文化12年 (1815年)2月 | 文政元年 (1818年)5月 |
朝谷村 | 現土佐郡大川村
鉱毒水による公害問題で
阿波藩(現徳島県)との
協議行き詰まり閉山 |
これらを見ると、いずれも短期間で閉山を余儀なくされてる。その理由の1つは、
鉱脈が当初の見込みと違い尻切れになり、出銅量が漸次減少しことによる。
2つ目は、銅価格の暴落だった。文化14年(1817年)、銅100斤(約60kg)の買い上
げ価格を銅山側は銀220匁前後と予想していたのに、大阪・銅座が銀50匁を引き下
げ、銀171匁1分、と20%以上も安くなっていた。
さらに大きな問題は、今で言う『公害問題』だ。朝谷川や大北川は、「坂東太郎(利
根川)」と「筑紫次郎(筑後川)」並び称される「四国三郎(吉野川)」の上流域にある。
現在でも、吉野川は、豊かな水量と清流を誇り、売りにしている。
土佐藩(現高知県)領内の鉱山から流れ出た鉱毒水が、下流の阿波藩(現徳島県)
領内の農業や漁業に被害を与えることが懸念され、あるいは実際に被害が発生し、
開坑の同意が得られなかったり、短期間で閉山に追い込まれた。
公害問題は、後々も両藩の間に横たわり、文政6年(1823年)7月、本川郷の安屋
源六が試掘・開坑を試みたが、阿波藩に拒否され開坑できなかった。
文久3年(1863年)3月の「本川銅山」の開坑に先立って、土佐藩の隠居・山内容堂は、
沿岸防備用の大砲鋳造並びに通貨不足を補うため硬貨の私鋳を計画し、必要な銅を
入手するため銅山開発について、自ら京都において阿波藩主・蜂須賀茂韶と面談し
直接交渉の末、ついに阿波藩の同意を得るに至った。
こときの様子を谷守部(後に、西南の役熊本城籠城戦で名をあげた谷干城)は次の
ように書き残している。
『 吉野川川上(にある)銅山開掘の儀につき、阿州より献上の鮎に害ありとて(領
内の漁民から)苦情あり。今度(このたび)、老公御上京につき幸ひ阿公も上京な
れば、老公より銅山のこと直に阿公へ相談になる。
銅汁は穴を穿ちそれへ流しこみ、吉野川へ流さず、・・・・・ 』
3.2 明治初年の本川銅山
こうして開坑した、「本川銅山」は、所有者を次々と変えながら発展し、「白瀧鉱山」
として昭和47年(1972年)3月閉山するまで続く。
閉山までの足跡を追ってみると、「本川鉱山札」につながる情報も見えてくる。
和暦年月 (西暦) | イ ベ ン ト | 備 考 |
明治4年11月 (1871年) | 樅之木銅山開坑 |
朝谷村
現土佐郡大川村
事業請負人・深屋康臣
(土佐藩筆頭家老・深尾重先【号:鼎】) |
明治5年11月 (1872年) |
樅之木鉱山から住友家に資金援助要請
4,000両(円)融資の条件として
毎月荒銅2,000貫(約7.5トン)を大阪に出荷
|
このとき本川鉱山は
門山実平、武市翁壽、深尾鼎らが
経営
出荷実績 2,245貫(約8.4トン/月)
|
明治8年7月 (1875年) | 大北川村中久保山7ケ所開坑 |
土佐郡・門田実平
|
明治8年9月 (1875年) | 中ノ川村上瀬戸2ケ所開坑 |
土佐郡・島田直治
|
明治8年9月 (1875年) | 朝谷村樅ノ木、朝谷山4ケ所
そして大北川村中久保山4ケ所開坑 |
大阪・田辺儀三郎
|
明治9年2月〜8月 (1876年) | 大北川村中久保山7ケ所
大北川村中ケ市2ケ所、大北川村水谷山開坑 |
朝谷村・門田慶次郎 |
明治9年10月 (1876年) | 中ノ川村上瀬戸2ケ所開坑 |
土佐郡・国沢寅五郎 |
これらから、わかるのは、明治8年(1975年)には、本川鉱山は深尾 鼎の手を離れ
細分化され、小は3、400坪からせいぜい1万数千坪の小鉱山に分割され、鉱区も隣
り合っている場合もあった。
これは、本川鉱山だけの問題ではなく全国的な傾向らしく、明治8年(1875年)10月
工部省は、@鉱区の中間に距離(バッファ帯)をおくこと、A中間地で採鉱する場合
双方示談の上、連名で増借区願いを出す事、などを通達するほどだった。
3.3 本川銅山の統合と住友への譲渡
このような小鉱山の経営基盤が強固ではありえず、次第に統合され、ついに住友
という大資本の経営になる。
和暦年月 (西暦) | イ ベ ン ト | 備 考 |
明治9年10月 (1876年) | 中久保山、朝谷山、樅之木を 窪田顕一郎に譲渡 |
伊予川之江村
(現愛媛県川之江市) |
明治11年9月 (1878年) | 中久保山を窪田顕一郎に譲渡 |
|
明治14年 (1881年) | 窪田顕一郎と川之江村・三好旦三共同経営 |
|
明治20年6月 (18871年) | 窪田・三好が朝谷山 中久保山を住友に譲渡 |
|
3.4 住友の樅之木鉱山経営
本川鉱山を手にした住友は、樅之木に坑業場を置き、鉱山経営を開始する。しかし
その経営は苦渋に満ちたものだった。
和暦年月 (西暦) | イ ベ ン ト | 備 考 |
明治20年9月 (1887年) | 樅之木に坑業場 開設 |
住友鉱山重任分局の下にある
開坑課が坑業場を所轄
明治20年下半期(7月〜12月)
探鉱経費 1,443円4厘5毛
出鉱 ゼロ |
明治24年2月 (1891年) | 小池鶴三開坑課長 「収支不償ニ付廃業」を上申 |
明治23年の損益計算書
単年度支出 4,191円
出来銅 20,448斤
100斤当り 20.50円
17.67円【坑道開掘費を起業費扱い】
6.93円【別子銅山】
|
明治24年3月 (1891年) | 借区税怠納で営業禁止処分 |
7月、鉱業禁止処分取消 |
明治24年7月 (1891年) | 原価引下げのため
採鉱〜製錬作業の請負化するなど
合理化 |
明治25年以降
出鉱量は増加 |
明治27年11月 (1894年) |
伊庭貞剛名で中久保鉱山休業届けを
大阪鉱山監督署に提出 |
12月認可 |
明治29年1月 (1896年) |
樅之木鉱業所を永野・大橋・高野3氏に
3,000円で売却 |
住友による経営の終焉 |
同じ住友が持っていた別子銅山の経営が順調だったのに較べ、樅ノ木鉱業所の
経営が破綻したのは、鉱石品位が劣っていたのが最大の理由だろう。
明治22年(1889年)〜26年(1893年)の両鉱山の「型銅歩留」を比較してみると
樅之木鉱山の品位は別子鉱山の約1/2、つまり同じ量の精銅を得るためには、2倍
の鉱石を掘り出し、選鉱する必要があったのだ。
区分 | 明治22年 | 明治23年 | 明治24年 | 明治25年 | 明治26年 |
樅之木鉱山歩留(%)A | 5.99 | 5.84 | 4.48 | 4.43 | 3.94 |
別子鉱山歩留(%)B | 7.94 | 7.77 | 7.57 | 7.45 | 7.24 |
A/B(%) | 75 | 75 | 59 | 59 | 54 |
これだけでは、明治24年の損益計算書にあるように、出来銅100斤あたりの原価が
別子銅山の2.5倍していた説明がつかない。(2倍だったら判る)
明治27年末時点の樅之木鉱山の人員は、役員を含めても27名しかおらず、小鉱山
の非効率さが根底にあったようだ。
3.5 その後の本川鉱山 −白瀧鉱山の誕生−
本川鉱山の諸鉱山は、幾多の稼業人の手を経て、愛媛県川之江村の宇都宮壮十
郎が経営するところとなった。
宇都宮は、収益を改善するため、各種の改善策を打ち出していった。
和暦年月 (西暦) | イ ベ ン ト | 備 考 |
大正2年 (1913年) |
宇都宮が経営する「宇宝合名会社」の
傘下に本川鉱山の諸鉱山をおき
積極経営と経営効率改善を図る |
|
大正4年 (1915年) |
大北川鉱山を渡辺祐常から買収
土佐郡大川村の鉱山は全て
宇都宮が経営する処となる。 |
|
大正4年1月 (1915年) |
(1) 大北川藤ノ谷に、最大出力120kWの
水力発電所を竣工
(2) 樅之木に新式精錬所建設 |
|
大正5年 (1916年) |
統一名称「白瀧鉱山」使用開始
・ 大北川 ・ 朝谷 ・ 樅之木
・ 大川 ・ 白瀧 ・ 中蔵
・ 喜多賀和
の7鉱山をあわせて総合経営 |
大正5年の産銅量は
大正3年に比べ4倍弱にアップ
大正3年 133トン (100)
大正4年 539トン (404)
大正5年 495トン (371)
大正6年 401トン (301)
『煙害問題』発生
|
大正6年11月 (1917年) |
伊予国宇摩郡中之庄村具定
(現四国中央市)まで延長21kmの
山越索道を竣工開通
|
煙害問題の根本解決のため
樅之木の精錬所を廃止して
山元から三島港へ鉱石を索道で
輸送を目論んだ。 |
宇宝合名会社では、この索道開通を機に、事業を「山元製錬方式」から「鉱石売却
方式」に変更した。
これに伴い、従業員の索道運転技量習熟を図り、樅之木製錬所の稼動を縮小しな
がら、鉱山活動に必要な鉱山機器、諸物資のほか、鉱山従業員の生活必需物資
の輸送量増大を図った。
この索道を利用することにより、さらに事業を発展を図ったのは、宇宝合名会社から
経営を引き継いだ久原鉱業株式会社、後に日本鉱業株式会社(現新日鉱ホールディ
ングス)だった。
3.6 久原鉱業(日本鉱業)経営時代 −白瀧鉱山の終焉−
久原鉱業は、樅之木製錬所を廃止し、採掘した鉱石は全て三島港に運び、大正5年
(1916年)完成したばかりの大分県佐賀関ほかまで船で運びで製錬する体制を根幹
として、採鉱・選鉱・運搬等の設備投資をすすめ、一層効率を改善し、白瀧鉱山は
新発展期を迎えた。
当時、掘れば掘るほど出鉱し、その埋蔵量は尽きることはないと言われた含銅硫化
鉄鉱床だったが、いつしか地底深く掘り進み、経済的限界に達し、昭和47年(1972年)
3月、休山(閉山)した。
「白瀧鉱山」は、元禄時代以来、土佐国(高知県)随一の出銅量を誇り、四国でも
別子、佐々連鉱山に次いで第3位の産銅量を示した大鉱山だった。
昭和62年(1997年)の白瀧鉱山第一選鉱場の様子が「土佐白瀧鉱山史の研究」に
掲載されているので引用させていただく。
昭和62年(1997年)の白瀧鉱山第一選鉱場跡
【土佐白瀧鉱山史から引用】
4. 「本川鉱山札」の研究
4.1 「本川鉱山札」の背景
以上、知り得た情報をもとに、「本川鉱山札」がどのような背景で生まれ、どのように
使われたのかを推理してみた。
この鉱山札は、「本川鉱山」が「具定出張・金穀係」に対して発行した受け取り証、つまり、
領収証の形になっている。したがって、発行したのは、本川鉱山である。
このページでも「本川鉱山」あるいは「本川銅山」と書いたが、それは、『本川郷にあ
った銅鉱山』の代名詞であるケースがほとんどである。
「四国鉱山誌」や「日本鉱産誌」などにも「本川鉱山(銅山)」の文字はない。したがっ
て、いつごろ、どこで誰が発行・使用ものかは推測するしかない。
いろいろな文献、インターネット情報を調べてみても、「本川鉱山」の名称は、「白瀧
鉱山史の研究」に2回現れるに過ぎない。それは、明治5年(1872年)11月、門田等
当時の経営陣が住友家に4,000両(円)の資金援助要請したときに双方が交わした
「定約書」の中にでてくる。
鉱山側が住友に提出したものは、次の通りである。
『 定約書
1. 壹ケ月荒銅弐千貫巳上回着之筈、・・・・・・
1.・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・定約ニ相背ニおゐてハ山元堀場所并諸仕揃諸道具
建屋ヲ初山店有米諸品共一切無残御渡可申、依而後日
異論無之為證書如件
高知縣本川鉱山社中
商 門田 実平
士 武市 翁壽
同 深尾 鼎
住友吉左衛門殿
広瀬 宰平殿
』
これに対して、住友側が提出したのは、次の通りである。
『 定約書
1. 壹ケ月荒銅弐千貫目より以上回着之筈、・・・・・・
1.・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・自然御違約之廉御座候時者、定約書之通御銅山元
諸悉皆請取可申為後日如件
大坂住友吉左衛門代
広瀬 宰平
高知縣鉱山御頭取
高橋七右衛門殿
竹村虎彌太殿
同本川鉱山御社中
門田 実平殿
武市 翁壽
深尾 鼎
』
ここで、注目したいのは、次の5点である。
@ 「社中」の使用
現在、「社中」は、「花柳社中」など、「芸能・詩歌の仲間」を表わすのに使わ
れているのをまれに目にすることがある程度で、「半死半生語」に近いのでは
ないだろうか。
一方、歴史を多少なりとも知っている人は、「亀山社中」を連想するかも知れ
ない。「亀山社中」は、本川鉱山があった土佐が生んだ英傑・坂本龍馬が慶応
元年(1865)閏五月に組織した私設の、海軍・商社的性格を持った浪士結社
だった。
現在なら、さしずめ「合名会社」あるいは「合資会社」的な存在だったのだろう。
鉱山側が提出した「定約書」に、「本川鉱山社中」、とあるのは、「亀山社中」
を意識していたのかも知れない。意味するところは、「本川鉱山会社の中の人」
だったのだろう。
「中」は、「中の(そこで働く)人」の意味もあるのだろう。
A 敬語「御」の使用
住友側が提出した「定約書」には、「本川鉱山御社中」と、敬語の「御」が入っ
ている。
住友側としては、契約相手に対する儀礼であったろう。
B 『山店有米諸品共一切無残御渡可申』
「定約書」は、「契約書」であり、契約に違反(違約)した場合の補償について
も取り決めている。
鉱山側は、『山元堀場所并諸仕揃諸道具建屋』、は当然として、『山店有米
諸品共一切無残御渡可申・・・・』、これらを一切残らず渡すと申し出ている。
鉱山には、『山店』と呼ぶ「物品販売所」があり、『有米諸品』とあるように、
お米を初めとする穀物や生活に必要な「諸々の品物」を在庫し販売していた
のだろう。
C 『荒銅弐千貫目・・以上回着之筈』
「定約書」では、毎月荒銅2,000貫目(約7.5トン)を大阪に送る約束だった。
その輸送ルートはどうなっていたのだろうか。「定約書」に、『回着』とある。
「回着」は、国語辞典には「回送」の意味があるとし、「回送米」は「陸送米」と
ある。しかし、「定約書」の「回着」は、「回船による輸送」の意味ではないだろ
うか。
四国から海を隔てた大阪に荒銅を送るのには、船を使わざるを得ない。船で
送るのであれば、出来るだけ鉱山の近くから船に積み込み、船につきものの
海難の恐れが少ない安全なルートを選ぶだろう。
そうすると「瀬戸内海ルート」が妥当だ。港まで、牛馬の背に載せ山越えで
港があった中之庄村具定に運ぶだろう。大正6年11月、宇宝合名会社が鉱山
から伊予国宇摩郡中之庄村具定(現四国中央市)まで延長21kmの山越索道
を竣工開通させたのは、牛馬の代わりをする索道を建設したに他ならない。
寛保3年(1743年)の「土佐国御国七郡郷村帳」に、『朝谷村は、・・・・・人煙
まれな山里で・・・野地峯(1,278m)を越えて伊予国寒川村(現四国中央市)へ
の通路をなす所在・・』、とあり。朝谷村にあった「本川銅山」の荒銅は、野地を
越え、中之庄村具定にあった「船積み倉庫」=『金穀係』に運ばれたのだろう。
『金穀係』は、鉱山の一部署で、鉱山と同格なので、『金穀係中』と呼び、住友
の「定約書」にあったように「御中」なる”敬語”は使わなかったのだろう。
これらの牛馬は、帰りには鉱山で必要とする鉱山機器、諸物資のほか、鉱山
従業員の生活必需物資(特に米などの食料品)を背にしていた、と誰でも考える
だろう。
具定にあった、『金穀係』は、単に荒銅を船積みするだけでなく、会計(経理)
や購買・販売の機能も持っていたのだろう。
1) 会計的機能
鉱山から運んだ荒銅の代金を鉱山に支払った。その際、実際には
現金は動かさず、鉱山機器などと”相殺”にしていたのだろう。
鉱山では、坑夫への給与の支払いに「紙幣」に相当するものが必
要で、荒銅の売り上げの一部を『鉱山札』で鉱山に支払ったのだろ
う。
2) 購買・販売的機能
鉱山で必要な機器、食料などを具定周辺で購入し、鉱山にあった
『山店』=『具定出張金穀係(具定の出張販売所)』で販売したのだ
ろう。
坑夫や家族が「金穀係」で買い物をするのに、「鉱山札」を使った
のだろう。
D 『明治五壬申』
「本川鉱山」の名を目にしたのは、明治5年((1872年)、鉱山と住友が締結
した「定約書」の中だけである。
したがって、「本川鉱山札」は、明治5年ごろ使われた、と考えられる。
傍証として、
1) 額面単位が「銭」であり、明治以降
2) 「請取候也」、と『候文(そうろうぶん)』で書かれており、大正以降では
ない。
3) 用紙が厚手の和紙で、版木で印刷され「藩札」と全く同じ。この様式は
明治初期までしか見られない。
「具定出張」とあり、具定との間に、索道が開通した大正8年以降かとも
考えたが、その時期であれば、「炭坑札」に見られるように、「洋紙」に
「活字印刷」だろう。
4.2 「本川鉱山札」の循環
「本川鉱山札」が具体的にどのように発行され、使われたのかを具体例で示そう。
ある月の鉱山から「具定」への荒銅売り上げ高が100円だった。鉱山は、機器80円分
購入し、10円分を「鉱山札」で受け取った。差額の10円は、鉱山にとって預け入れ金
になる。(マイナスのとき、借入金)
鉱山は、「鉱山札」を坑夫に「給与」として、牛馬の御者に「駄賃」として支払った。
坑夫やその家族は、「具定出張・金穀係」でお米などの生活必需品を購入し、「鉱山札」
で支払った。こうして、「鉱山札」は、お金(お足)と同じように、「具定出張・金穀係(
=具定)」→「鉱山」→「坑夫」→「具定出張・金穀係(=具定)」の間をグルグル循環して
いた。
こうすることで、鉱山内では「現金」が全く必要なかったことになり、「本川鉱山札」は
「鉱山札」と考えて差し支えないだろう。
5. おわりに
(1) 「夏休みの自由研究」
石川県の石友・Yさんなどに「△△鉱山について教えて欲しい」、と聞かれると、鉱
山関係蔵書を調べれば、所在地、地質、採掘時期、鉱物種などが判るケースがほと
んどだった。
しかし、「本川鉱山」だけは、違った。「四国鉱山誌」や「日本鉱産誌」などをみても
『本川鉱山(銅山)』の名前はない。
「土佐白瀧鉱山史の研究」を購入するとともに、高知県土佐郡に本川郷があり、「本
川」という地名が今も残っている高知県いの町役場にメールで問い合わせした。する
と、「本川村史」の中の『本川郷の鉱山開発』の章のコピーを恵送していただくなど
お世話になった、いのちょう町役場の皆さんには改めて御礼申し上げる。
そんなこともあり、「本川鉱山札」を入手してから、このページをまとめる(完成では
ない)のに、1ケ月ほどかかってしまった。
間もなく甲府市の子ども達の夏休みは終わる。「夏休みの自由研究」を片付けた
小学生の”ホッ”とした気持ちがわかる。
今日は、長野県川上村の湯沼鉱泉に「残暑見舞い」に行き、その足で、近場のフ
ィールドでミネラル・ウオッチングを楽しむつもりだ。
6. 参考文献
1) 高知県土佐郡本川村編:本川村史,同村,昭和55年
2) 進藤 正信:土佐白滝鉱山史の研究 −住友家の経営を主体に−
河北印刷,昭和63年