2011年 夏休みミネラル・ウオッチングの旅







         2011年 夏休みミネラル・ウオッチングの旅

1. 初めに

    2011年8月、お盆休みに長男の孫は帰省できずその代わり7月に来て、さんざん”おねだ
   り”して帰って行った。3男の孫は、暑さの厳しい山梨で”熱中症”になっては大変と、帰省
   する気はないようで、こちらから何回か会いに行った。

    そんな訳で、2011年のお盆休みは、”爺(ジイ)”、”婆(バア)”だけで過ごすことになった。
   3日前に宿を手配し、新潟、富山、石川、福井、岐阜でのミネラル・ウオッチングを2泊3日で
   楽しんだ。

    ・ 新潟県糸魚川の「ヒスイ」と「コランダム」採集
    ・ 富山県利賀村の「コランダム」産地確認
    ・ 石川県小松市の「紫水晶」産地確認
    ・ 福井県の生んだ水晶学者 「市川 新松展」見学
    ・ 福井県赤谷鉱山の「金平糖(自然砒)」産地確認
    ・ 岐阜県苗木地方の「ブルー・サファイア(コランダム)」産地確認

    帰宅してみれば、「コランダム(鋼玉)」に 始まり、「コランダム」に終わったミネラル・ウオ
   ッチング・ツアーだった。
    奈良・Aさん、利賀村のコランダム産地は健在ですので、ご安心下さい。いつか、案内しま
   す。
    こうして、古い産地が健在なのを再確認できた一方、小松市の紫水晶産地は、数年前か
   ら着手されていた県(国?)の砂防ダム工事が大幅に進展して景色が一変し、『いつまでも
   あると思うな産地と鉱物』
、を目(ま)の当たりにした感じだった。
    それでも、『古泉に水涸れず』、の諺(ことわざ)通り、「紫水晶」と「緑鉛鉱」をシッカリと
   手にした、”Mineralhunters” だった。
     

    「市川 新松展」や産地の情報をいただいた多くの石友に厚く御礼申し上げます。
    ( 2011年8月採集・見学 )

2. 富山県利賀村の「サファイア」産地確認【第1日】

      もう1年以上前になるが、奈良の石友・Aさんから、「富山県利賀村のサファイア産
     地に行ったが、”かけら”もみつけられなかった」、とメールをもらった。相次いで
     滋賀・Oさんのブログにも「訪れたが、産地を見つけられなかった」、と書き込まれ
     ていた。

      私がここを最後に訪れたのは、今から7年前の2004年6月だった。

     ・富山県利賀村のコランダム(鋼玉)
      ( Corundum of Toga Village , Toyama Pref. )

      あの時は、どれを持ち帰るか悩むほどたくさんあった鉱物が、”カケラ”もなくなるとは
     思えないが、産地を確認しないことには迂闊(うかつ)なことも言えず、まずここを訪れ、
     現状を確認するのをこのミネラルウオッチングの旅の第1の目的にした。

 (1) 甲府市の骨董市巡り
      ここを確認するだけなら、1時間もかからないはずなので、朝、甲府市で開催される
     骨董市を訪れて、ユックリ出立することにした。
      さすがに水晶細工の地元だけあり、収集ジャンルの1つ、「水晶印材」があるのに
     妻が気づいて教えてくれた。研磨途中の半製品と「紫水晶製」と触れ込み品をそれぞ
     れ3本ずつ購入することにした。「紫水晶製」は、「ガラス製」のような気がするが、1本
     150円まで値引いてくれたので、「紫水晶」なら儲けものだし、「ガラス」でも、これを「紫
     水晶」と騙(かた)って売りまくった”甲州商人”がいた記念にもなると思った。

       水晶製(?)印材

      【後日談】
        千葉の単身赴任先に戻って、真っ先に実体顕微鏡で「紫水晶製」を観察したと
       ころ、内部にガラス特有の『気泡』が見つかった。
        「紫水晶特有の"水入り”です」、と強弁する心臓は持ち合わせていない。

 (2) 糸魚川で「コランダム」採集
      甲府から日本海に抜けるルートはいくつかある。松本から神岡町(現飛騨市)を
     通るルートは先月土砂崩れがあったばかりで不安だし、上越市を回るコースは、全部
     高速を使えるのだが、どこまでも1,000円が終わった今では財布にやさしくない。
      結局、豊科ICで降りて、大町市を通って糸魚川に抜けるコースを選んだ。

      白馬の道の駅で、妻が好きな山野草の「シラネアオイ」、「キレンゲショウマ」などの
     園芸種を購入。夏の暑さが半端でない甲府盆地に根付くか妻の腕の見せどころだ。
      ( Y農学士殿、乞うアドバイス )

      糸魚川に入ると気温は35℃で、甲府盆地と変わらない。兵庫・N夫妻と訪れたこと
     がある某海岸で、「ヒスイ探し」にチャレンジしてみた。裸足で海の中に入ると冷たくて
     気持ちが良い。ただ、場所によって砂利が痛いのと砂浜は火傷しそうなほどの熱さだ。

      今日のメインの利賀村のサファイア産地確認の時間を考え、時間を切って海岸を
     往復するが、妻が緑色の良くて「ネフライト」、下手をすると「蛇紋岩」を採集したのみだっ
     た。

       ヒスイ海岸

      採集してみたいものの1つに、糸魚川の「コランダム(鋼玉)」があるが、ヒスイよりも
     数段採集が難しいようで、未だ自力採集していないし、採集した同行者すらいない。
      海岸近くの「ヒスイ」を売っている店をのぞき、妻の採集品を鑑定してもらうと、あっさり
     「ネフライト」、とのこと。「コランダム(鋼玉)」があれば見せて欲しい、というと、30,000円
     のラベルがついた品をショーウインドーから出して見せてくれた。
      「欲しい」と言うと、店主はラベルを剥がして、ラベルの1/10の値段を提示してきた。
     「もう少し安くなりませんか」、と言うと、さらに値引きしてくれ、糸魚川の「コランダム」は
     結局”現金採集”になってしまった。

       「糸魚川産 コランダム」

 (3) 富山県利賀村の「コランダム」産地確認
      朝日ICから北陸道にのり、一路南下する。砺波ICで下り、庄川をはるか下に見て
     利賀村への道を走る。「道の駅利賀」でトイレ休憩の後、とある集落に差しかかると
     7年前よりも過疎化が進んだようで、廃屋や廃車が目立つ。
      見覚えのある道に入り、車を止め、そこからは歩いて産地を探す。夏草に覆われて
     いるので見逃さないように慎重に進む。ようやく、それらしい場所に着き、転石を見ると
     サファイアの母岩の「片麻岩」だ。
      拾い上げた転石の中に、青白いサファイアの断面が見えた。産地は健在だ!!
      サンプルを2、3個拾って、車に戻る。これで、第1の目的は達成できた。

       「利賀村産 サファイア」

      【後日談】
       2010年秋の「飯豊鉱山」での苦い経験から、サファイア産地は、地図を書き、車
      で入れるとこまでは目印までの距離をトリップメーターで測定し、徒歩の部分は歩
      数を数えて地図に記入した。「O兄弟、迷わずいつでも案内できますよ」

 (4) 小松市の夜は更けて
      再び砺波ICから北陸道にのり、今夜の宿小松市のHホテルを目指す。途中、ハイウ
     ェイオアシス・徳光で、「能登ワイン」などのみやげ物を買い込む。
      ここから小松ICまでは、20km足らずだ。日本海の夕焼けを見ながら南下して、19時
     前にホテルに無事到着した。

      ドロドロ、汗まみれの身体をシャワーでサッパリと洗い流し、ホテルの下にある「かまど
     や」で夕食を摂る。生ビールをグッと飲むと疲れが吹き飛ぶ。
      妻は、石はあっても海なし県では食べられない、海の幸を中心に注文し、その美味
     しさに満足そうだ。(シメシメ・・・)

      この店では注文〜会計まで、すべて電子化されている。メニューの2次元バーコー
     ドを読み込ませ、数量を決めて送信すれば注文が完了だ。合計金額がいつでも見られ
     会計のための”割り勘”機能までついているのには驚きだ。

         
              メニュー読み込み                 会計画面

      お腹も一杯になり、ビールの酔いで気分もよくなり、ホテルに戻り、バタンQ

3. 福井が誇る世界的な水晶学者 「市川 新松展」見学【第2日】

    2011年7月、滋賀県の石友・Oさんから、「市川新松展」が開かれている、とのメールを
   もらった。
    市川 新松の名を知っている人は、相当な”水晶(鉱物)オタク”だろう。今まで、私の
   HPにも「福井県鉱物誌」の著者として名前を挙げたことはあった。

    ・福井県美山町赤谷鉱山の”サイ形”自然砒
     (Native Arsenic called "Die" of Akatani Mine , Miyama Town , Fukui Pref.)

    市川 新松の名は、『水晶の蝕像』の研究者として外国で有名になったが、国内の鉱物
   の世界ではあまり知られていない。それどころか、むしろ無視されていたようだ。

    市川 新松は、山梨県師範学校(現山梨大学)の教諭だったことがあり、この時期から
   水晶の研究にのめり込んだらしく、山梨に住む私としては興味ある人物なので、この展示
   を見学するのが、旅の第2の目的になった。

 (1) 小松市の紫水晶産地確認
      小松市周辺には、尾小屋鉱山とその支山や遊泉寺銅山など、全国的に名の知られた
     銅鉱山があった。これらのいくつかは江戸時代には、金山として稼行した鉱山(ヤマ)
     もあったらしい。

      それらの中で、金平金山(金平坑)は、「紫水晶」や「緑鉛鉱」などの良品を採集できる
     ので、幾度か訪れ、この地でミネラル・ウオッチングを開催したことがあった。

      ここを最後に訪れたのは、2007年9月で、4年ぶりの訪問だった。その時すでに、砂
     防工事に着手しており、2003年ごろ訪れて面白い形の紫水晶を採集したポイントは埋
     め立てられたり削り取られて”絶産”状態だった。

      今回、4年ぶりに訪れて驚いた。砂防工事が産地の入口まで伸び、景色が一変して
     いた。まさに、『いつまでもあると思うな産地と鉱物』、を目(ま)の当たりにした感じ
     だった。

       様変わりした産地

      この日は、紫水晶狙いの2人の先客があったが、以前のようなわけにはいかず、苦戦
     していた。( ただ、昔を知らなければ、楽しめるだろう )
      山から土嚢袋で運んだズリ石を溜まり水でパンニングしながら、「緑鉛鉱」を採集
     していると、にわかに雲行きが怪しくなり、大粒の雨が土砂降りになり、産地を後にした。

      産地は、”絶産”寸前だが、『古泉に水涸れず』、の諺(ことわざ)通り、シッカリと
     「紫水晶」と「緑鉛鉱」の良品を手にした、”Mineralhunters” だった。
        ( 妻は、車の中で待機していたので、”単数形”か )

         
             紫水晶                  緑鉛鉱
                      銅山跡の鉱物

 (2) 「越前蕎麦」で腹ごしらえ
      8号線を南下し、加賀ICから北陸道にのり、武生ICで下りる。市街地に向かって走ると
     右手に古めかしい「越前市武生公会堂記念館」が見えてくる。ここが「市川新松展」の
     会場で、隣接する駐車場に車を止め、時計を見ると昼時だ。

       展示会場「越前市武生公会堂記念館」

      会場の手前に古い店構えの越前蕎麦屋があったので、入ると人気の店らしく、観光客
     か帰省客と思しき顔ぶれで満席だった。10分ほど待って席に案内され、「おろし蕎麦」
     を注文する。
      シッカリと歯ごたえのある蕎麦を辛味大根の入った麺汁(めんつゆ)につけて食べた
     のだが、半端な辛さではない。妻は、途中でギブアップして、半分以上蕎麦を残し、私が
     片付けたほどだ。
      ひとつ分からなかったのは、店内を見渡すと、「麺に汁をぶっ掛けて食べる人」と私の
     ように関東のザル蕎麦同様「汁につけて食べる人」の2通りの食べ方があったが、どちら
     が正統派なのだろうか。
      食後のデザートに「きび団子」が出てきたが、甘みを抑えた素朴な味だった。

      2皿目の蕎麦は100円引きと品書きにあるくらいだから、2皿目を注文する客もいるら
     しい。私も頼もうかと思ったが、古い落語(たしか、『三方一両損』)のオチを思い出して
     やめた。

      『多カア(大岡)食わネエ、たった1膳(越前)』

         
               「おろし蕎麦」                   「きび団子」

 (3) 福井が誇る世界的な水晶学者 「市川 新松展」見学
      鉱物が趣味の人でも、市川新松の名を知っている人は少ないのではないだろうか。
     市川新松は、『水晶の蝕像』の研究で、日本よりむしろ海外で有名になった在野の水晶
     (鉱物)研究者だ。私のHPで、「福井県鉱物誌」の著者として紹介したこともあった。
      しかし、日本の自然科学、特に鉱物学会では長い間無視され続けたことなど、この展
     示を見学して初めて知った。

      今回の展示は、『地域連携企画』、とうたっているように、3つの施設が連携して展示
     や行事を開催している。

      ・ 越前市武生公会堂記念館
         「市川新松展」    7月20日〜9月4日
         入場無料
      ・ 福井市自然史博物館
         「きらきらクリスタル -水晶とそのなかまたち-」    7月16日〜9月4日
         大人100円、70歳以上と中学生以下無料
      ・ 市川鉱物研究室
         「市川鉱物研究室 見学会」   7/24、8/4、8/25、9/3 10時〜14時
         入場無料

      私たちが訪れた日は、福井市自然史博物館の休館日、市川鉱物研究室の見学会の
     行われない日だったので、越前市武生公会堂記念館の「市川新松展」だけを見学した。

         
               ポスター                              パネル
                             「市川新松展」

  1) 「市川新松展」の展示
      越前市武生公会堂記念館の2階に次のような資料が要領よく展示してあった。

      @ 市川新松の足跡、研究論文、天覧蝕像標本など
      A 新松が収集した国産鉱物・化石標本、水晶や瑪瑙の加工製品
      B 新松が外国の研究者と交換した海外産標本

      「記念館」を訪れる前に電話し、越前市北新庄地区自治振興会が発行した新松の伝記
     「独学の水晶学者 市川新松 市川新松研究室」を入手できるようにお願いしておいた
     ところ、会場で係の方から手渡していただいた。(実費700円)
      会場には、市川新松先生・市川鉱物研究室顕彰会が製作・発行した「市川鉱物研究
     室」の小冊子が備え付けてあった。
      会場は、写真撮影禁止になっていたので、これらの資料をベースに展示内容を簡単
     に紹介する。

  2) 市川 新松の足跡

      ・慶応 4年(1868年) 5月7日 打方新兵衛の二男として生まれる。
      ・明治16年(1880年) 地元の小学校を卒業し、同校の代用教員になる。
      ・明治20年(1887年) 福井県師範学校の予備試験に合格するも本試験は不合格
      ・明治27年(1894年) 市川弥治兵衛の養子となる。
      ・明治32年(1899年) 高等小学校正教員の免許取得
      ・明治37年(1904年) 三重県師範学校教諭となる。
                     師範学校・中学校鉱物科教員免許取得
      ・明治37年(1904年) 三重県師範学校教諭となる。
      ・明治38年(1905年) 山梨県師範学校教諭となる。
      ・明治39年(1906年) 和歌山県師範学校教諭となる。
      ・明治40年(1907年) 和歌山県師範学校教諭を退職し福井県に戻る。
      ・明治41年(1908年) 遊泉寺銅山産水晶などの研究論文発表
      ・明治42年(1909年) 水晶玉の人工蝕像などの研究論文発表
      ・明治43年(1910年) 水晶の蝕像などの研究論文発表
      ・大正 2年(1913年) 第12回万国地質学会から招待される。
      ・大正 4年(1915年) 日本産鉱物、水晶の蝕像について "American Journal of
                    Science" に発表
      ・大正 6年(1917年) 自宅敷地に「市川鉱物研究室」完成
      ・大正 9年(1920年) 沢柳政太郎博士が新松の業績を「教育学雑誌」で紹介
      ・大正13年(1924年) 自叙伝「奮闘五十四年」出版
      ・昭和 8年(1933年) 福井県に行幸した昭和天皇に「水晶珠の人工蝕像の研究」
                    標本説明
                    「福井県鉱物誌」出版
      ・昭和16年(1941年) 4月19日死去(73歳)
      ・昭和19年(1944年) 日本鉱物趣味の会が「地殻の科学第1巻」で新松を偲び
                    たたえる記事掲載
      ・昭和48年(1973年) 新松の遺作「日本産鉱物の蝕像に関する研究」を長男・渡氏が
                    出版
      ・昭和55年(1980年) 「市川鉱物研究室の現状」を長男・渡氏が出版

  3) 市川 新松の採集標本と研究資料
      新松が採集した標本や研究した資料が展示してある。それらの内、上記の文献に記
     載されているものを引用させていただく。

         
           甲州金峰山産水晶                水晶珠の人工蝕像標本
                                         【昭和8年天覧品】
                          市川新松標本
                 【「市川新松」、「市川鉱物研究所」から引用】

  4) 市川新松展を見て

   @ 『自学自習』の人
      新松の足跡に目を通すと、小学校卒の学歴で、教師の資格を得、師範学校の教師に
     なり、英独仏語を独学で短期間にマスターし海外の科学雑誌に寄稿するなど、努力家
     だったようだ。
      また、彼の研究姿勢は、今で言う”○現主義”で、現物標本をジックリ観察して知りえ
     た事実を論文にまとめており、その正確さには自信を持っていたようだ。
      明治43年(1910年)、神保小虎が新松の論文を無断で改変した”事件”を契機に
     2人の関係は悪化した、と展示にある。
      大先生が黒と言えば雪も黒くなる、神保小虎を頂点とする当時の鉱物学界とは肌合
     いが合わなかったのかもしれない。
      ( 我らが”五無斎”こと保科百助も新松と同じ、慶応4年(明治元年)の生まれで、神
       保小虎との交流があった。後に、五無斎は「東京の学者ども・・・・・」、と書き残して
       のにも何かあったことが感じられる )

      この”事件”以来、すでに「日本地質学会」に提出してあった論文の発表も中止になり、
     日本国内の学会から”疎外”された、と展示にある。このような状況から、新松は発表の
     場を海外に求めざるを得なかった。

      新松は大正9年(1920年)に " American Journal of Science " 誌に4回目の研究
     論文を発表した後、論文と公開状(広く批判を仰ぐため、新聞や雑誌に発表する手紙)
     を国内の鉱物学者や有識者に送付した。その内容は、次のようなものだった。

      「 新松の論文は海外で評価されているが日本では受け入れられていない、ことや
       学者は朋党を作り、偽党を作ってはならない。またこれらの偽党に教唆されて、学者
       の本分を忘れてはならない。学者に敵味方はない。」

      この手紙が、日本教育会会長で文学博士の澤柳政太郎の眼にとまり、「平素から
     国内の学術研究が振るわないことに遺憾を感じており、あなたの研究熱心を知り実に
     会心(かいしん)である」、との返事があった。
      『自学自習』を教育方針としていた澤柳は、持論を実証したとも言える新松について、
     大正9年(1920年)発行の「教育学雑誌」に自筆の記事を掲載した。
      この事によって、新松のもとには自学自習を推奨している教育者の訪問や手紙が絶
     えず、新松の存在と研究成果が広く知られるようになった。

  A 恵まれた環境
      新松は、市川家の”婿養子”だ。教師を辞めて帰郷した新松に義父は、「好きな鉱物
     の研究だけやっていれば良い」、と2階建、延べ30坪の「市川鉱物研究室」の建設を許
     してくれた。
      採集した鉱物の置き場に困っている私から見れば羨ましい限りだ。

      海外への論文寄稿にタイプライターが欲しくなった。当時米50俵と同じ値段(現在の75
     万円)もするものを”ポン”と買えるなど、恵まれた環境にあった。

      新松の息子・市川 渡は、東京大学の理学部で地質学を専攻し、金沢大学の理学部
     長を勤めた。「市川鉱物研究室」は現在も孫の手によって新松がヒョッコリ現れるのでは
     ないか、と思われるほど当時のままの姿で維持・管理されている。新松が”婿養子”
     としての責務も十分果たした証(あかし)だろう。

 (4) 赤谷鉱山の「金平糖(自然砒)」産地確認
      「市川 新松」展を見た後、武生ICから北陸道を一転北上し福井ICで下りた。産地を
     訪れる前に、「下味見(しもあじみ)郵便局」の標識が目に入り、平日だったので
     記念押印すべく、局を訪れた。
      以前のページで紹介したように、大正2年(1892年)の消印を押した切手を入手した
     ことがあり、この日の消印と並べてみようという心算(つもり)だった。

      局員との話から、明治44年(1911年)5月6日開局で、今年が開局100周年だと知った。
      ( 念のため、帰宅後「逓信六十年史」を紐解いてみたがその通りだった )

         
             大正2年                  2011年
                                   【開局100年】
                   「下味見局」消印

      産地を訪れると、数日前に訪れた人がいるらしく、ズリは大きく掘り込まれていた。
     こちらは、現状を確認するだけなので、ズリの土砂のパンニングやズリ石をハンマで
     叩いて産出鉱物を確認した。

      @ 「自然砒(母岩付、分離結晶)」
      A 「メタ輝安鉱」と「輝安鉱」

      などは、大して苦労せずに採集でき、産地が健在なのを確認できた。

         
                 母岩付                   分離結晶
                          「金平糖(自然砒)」

         
                「メタ輝安鉱」                 「輝安鉱」

      輝安鉱が来ているズリ石を割ると、石英の晶洞に”真っ赤”な鉱物があった。その片割
     の晶洞には”黄色い”鉱物がある。
      以前、赤=「鶏冠石」、黄色=「雄黄」、と早とちりした苦い経験があるので、ジックリと
     鑑定するつもりだ。

         
                赤い鉱物                     黄色い鉱物
                        「赤谷鉱山」の不明鉱物

 (5) 福井の夜は更けて
      再び福井ICを通り、福井市街に向かう。今夜の宿は、福井駅前の全国チェーン・ホテ
     ルだ。このホテルは、大浴場を備えていて、ユックリ手足を伸ばせるので、愛用している。
      最上階の大浴場からは、暮れ行く福井市街と遠くに永平寺や一乗谷を包む山並み、そ
     の先には中龍鉱山や面谷鉱山などがある1000m級の山々が見える。

      一汗流して、夕食をどこで摂るか妻と相談した。蒸し暑い街中に出て行くのも大儀だ
     が、以前兵庫の石友・N夫妻と同じ系列のホテルのレストランで夕食を食べたところ、
     人手不足なのか長い時間待たされ不愉快な思いをしたことがあり、レストランをのぞい
     て決めることにした。
      お盆の中日と言うこともあってか、客は数組だけで、皆さんのテーブルの上には、
     そこそこの品数の料理が並んでいて、待ちぼうけ食わされる懼れ(おそれ)もなさそう
     なので入ることにした。

      まずはビールで乾杯!! いつもながら、この一杯でこの日の疲れが消え去る。次々
     に注文した料理が運ばれてくる。仕上げにウイスキーの水割りを注文したら、大きなコ
     ップの口切り一杯まで入っている。私がいつも飲む水割りの3杯分はありそうだ。
      おかげで、すっかり良い気持ちになり、部屋に戻るなり、バタンQ

4. 岐阜県苗木地方の「サファイア」産地確認【第3日】

    3日目は福井から高山に抜ける途中「六厩の砂金」産地に寄る積もりだった。気がつけば、
   初日に新潟県糸魚川と富山県利賀村で「コランダム」を採集し、この締めくくりは岐阜県苗
   木地方の「サファイア」だと思い直し、産地の確認が第3の目的になった。

 (1) 道の駅・九頭竜の「水入り水晶」
      福井のホテルを発って1時間走ると、道の駅・九頭竜がある。ここで、休憩を兼ねて土
     産物売り場をのぞくのが常だ。
      夏休みの子供向けに、「ヘラクレスオオカブトムシ」などという外国産の昆虫を売って
     いるのには驚いた。
      この地域にあった中龍鉱山産と思われる「水晶」や「方解石」などが展示してある裏に
     外国産の鉱物を販売しているコーナーが新しくできていた。1ケ300円の箱の中を漁る
     (あさる)と、中国産の天然触像がある水晶がおいてあった。これも、「市川 新松」展を
     見学した記念と思い購入した。

         
                鉱石展示                       鉱物販売
                           道の駅・九頭竜の鉱物

      【後日談】
        帰宅後、実体顕微鏡で観察すると、「水入り水晶」になっていることが判明し、掘り
       出しものを手に入れた気分だ。

         
                全体                 気泡と液体
                     中国産「水入り水晶」

 (2) 岐阜県苗木地方の「ブルー・サファイア」
      面谷鉱山への入り口、夢のつりばしを横目で見て走るとすぐに油坂だ。ここから、白鳥
     ICを経て岐阜方面に向かって走り、東海環状に入る。瑞浪-恵那の間が渋滞との情報
     で、高速を下り、下道で苗木を目指す。

      苗木に着いたのは昼前だった。喫茶店・Tに入り、妻は380円のモーニング、私はいつ
     ものパスタランチを注文する。

      「ブルー・サファイア」の産地に行くと、誰も訪れた形跡がない。土砂をシャベルで掬って
     パンニングするのだが、なかなか出てこない。1つ採集し、産地が健在な事を確認したら
     引き揚げる積りだったがこれでは止められない。
      「この手の採集は苦手」、と妻は日蔭で休憩。何皿目かのパンニング皿の中に、青白い
     サファイアのカケラが光った。これで元気が出て次の皿をパンニングすると、今までで
     一番に近い「ブルー・サファイア」が姿を見せてくれ、産地を後にした。

         
              単結晶                       母岩付き
                        「ブルー・サファイア」

 (3) 中津川市鉱物博物館の「コランダム」
      久しぶりに、中津川市鉱物博物館に立ち寄った。博物館前の水晶広場には、炎天下
     水晶探しに熱中する老若男女の姿があった。

       中津川市鉱物博「水晶広場」

      博物館内では、第15回企画展「恵那山 −その地質と成り立ち」を開催していたが、
     鉱物ではなく岩石の展示が中心とのことで見送った。

       ミュージアム・ショップで、過去に開催した企画展の図録、ミュージアムレクチュアの
      資料などを何点か購入。外国産鉱物のコーナーに、マダガスカル産の「サファイア」と
      「ルビー」があったので迷わず購入。

         
                「サファイア」                   「ルビー」
                         マダガスカル産コランダム

      中津川ICから中央道にのり、順調に走るが、Uターンの車で甲府の手前から渋滞が
     始まっていたので1つ手前の韮崎ICで下りて無事帰宅。
      3日間の総走行距離 1,010km。 【イロイロ楽しかった3日間】

5. おわりに

 (1) 『古泉に水涸れず』
      今回のミネラル・ウオッチングの目的の1つは、有名あるいはマル秘産地の現状確認
     だった。

      ・ 富山県利賀村の「コランダム」産地
      ・ 石川県小松市の「紫水晶」産地
      ・ 福井県赤谷鉱山の「金平糖(自然砒)」産地
      ・ 岐阜県苗木地方の「ブルー・サファイア(コランダム)」産地

      石川県小松市の銅山跡のように、産地の環境が大きく変化した場所もあったが
     いずれの産地も健在なことを確認できたのは有意義だった。

 (2) 福井県の生んだ水晶学者 「市川 新松展」見学
      市川新松が、「水晶蝕像」の研究者であることや「福井県鉱物誌」の著者であることは
     知っていたが、神保小虎との間に葛藤があったことは初めて知った。

      「地質学雑誌」の論文は、インターネットで簡単に検索できる。市川新松の論文は
     1908年5月から1910年9月までのわずか2年半足らずの期間しか掲載されていないこと
     からも神保小虎との間に確執があったことを裏付けている。
      ”事件”となったのが8)の論文だった。

      1) 加賀國能美郡十川村遊泉寺産紫水晶の天然蝕像に就て
         地質學雜誌 15(176), 235-241, 1908-05-20
      2) 本邦産水晶の天然蝕像と人工蝕像の關係
         地質學雜誌 15(181), 441-446, 1908-10-20
      3) 出雲國簸川郡鵜鷺村鵜峠産石膏の結晶
         地質學雜誌 15(183), 509-512, 1908-12-20
      4) 水晶球の人工蝕像に就て
         地質學雜誌 16(184), 1-13, 1909-01-20
      5) 越前國大郡下味見村赤谷産自然砒の結晶集合の状態に就て
         地質學雜誌 16(188), 197-200, 1909-05-20
      6) 本邦産水晶の色の種類に就て
         地質學雜誌 16(189), 234-241, 1909-06-20
      7) 水晶の光澤と脆さに就て
         地質學雜誌 16(195), 541-543, 1909-12-20
      8) 本邦産水晶の Vicinal faces と天然蝕像との關係に就て
         地質學雜誌 17(201), 239-243, 1910-06-20
      9) 水晶蝕像の補遺
         地質學雜誌 17(202), 320-323, 1910-07-20
      10) 再び水晶球の人工蝕像に就て
         地質學雜誌 17(204), 371-379, 1910-09-20

      市川新松は、水晶をめぐる出来事や養父・養母について「水晶の霊感」に書き残して
     いた。この中で、故神保小虎について次のように記している。

       「 葛藤を生じたるは、遺憾の点なきにあらざるも、この刺激により、私の水晶の研究
        はより以上に進んだので、私は博士の霊に敬意を捧げる 」

      恩讐の彼方に、の思いだったのだろうか。

6. 参考文献

 1) 沢本 健三著:逓信六十年史,逓信六十年史刊行会,昭和5年
 2) 市川 渡:科学の門,錦城出版社,昭和17年
 3) 市川 圭ほか編集:独学の水晶学者 市川新松,2006年
 4) 市川新松先生・市川鉱物研究室顕彰会編:市川鉱物研究室,同会,2011年(?)
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