考えてみれば、2015年になって4ケ月も経つのに『2015年採集初め』をしていないのだ。この春北陸新幹線が
開業したこともあり、両者の中間地点の北陸でのミネラル・ウオッチングに『2014年採集納め』をご一緒した兵庫
県の石友・N夫妻をお誘いした。
初日は「宝達山の蛍石」、2日目は「小松市周辺の鉱山跡」という古典的産地を巡る2日間のミネラル・ウオッチ
ングを計画した。宿の手配は、N夫妻にお願いしたところ、北陸新幹線が開業したこともあって金沢への旅行客
が80%増えたとテレビで報じていたとおりで、小松駅周辺でも宿が取れず、初めて聞く名前の温泉宿を予約し
ていただいた。
初日に訪れた宝達山の蛍石鉱山跡は、ホームページには載せていないが、10年以上前の2004年12月に地
元の”○三郎さん”に案内していただいたことがあった。
当時の日記には、この日の模様が次のように記されている。
『 2004年12月25日(土曜日) 晴れ
N夫妻、”○三郎さん”と合流。宝達山へ行く。
雪をかき分けて、露天掘跡へ行き採集。結晶の見えるものはなし。
恋路海岸へ行く。ピンクのアラレ石多数採集する。・・・・・・・・・・・・ 』
この時は、「恋路海岸でピンクの霰石」や「子ぶり石」産地も巡るため、1時間ほどの採集時間しかなく、結晶面
がついた蛍石を採集できていなかったし、坑道にも入らなかったので産状も確認できず、心残りになっていた産
地だった。
ナビがついていない二世代前の車で、雪景色の中を走ったので産地入り口の記憶がアヤフヤで、”○三郎さ
ん”に地図を描いて送っていただくありさまだった。そのお蔭で、たいして迷うことなく見覚えのある場所に到着
できた。
まずは坑道入り口のズリを掘り返し、結晶面のある蛍石やきれいな水晶を採集して大満足。その後、坑道に入
り、「蛍石」脈を追いかけて、私は脈を叩き、女性陣は坑道内のズリで「母岩付き」を採集した。気がつけば13時
近くで、昼食を食べて、思い残すことなく産地を後にした。
妻は、「エンレイソウ」などの山野草や「タラの芽」などの山菜を採集し、これまた大満足だ。
戻り道、道路の拡幅工事でできた崖と転石を確認すると目聡いN夫人が母岩付き「緑色の蛍石」発見し、そ
の周辺で私が母岩付き「無色透明な蛍石」を採集し、この辺り一帯に蛍石脈があることを確認できたのも、大き
な収穫だった。
北陸道美川ICでおり、今夜の宿「赤穂谷温泉」についたのはまだ日も高い17時だった。この辺りは、銅山跡の
紫水晶を求めて10回以上来ているはずだが初めて知る”隠れ家”的な宿だ。このような本格的な和風旅館に
泊まるのは何年ぶりだろう。しかも、この日の客はわれわれだけで、貸切だ。お湯の入れ替えが済むのを待って
Nさんと風呂に入る。熱めの源泉かけ流しで、今日の疲れを洗い流す。外の露天風呂で記念に”パチリ”。
風呂の後、18時からお待ちかねの夕食だ。まずは、乾杯!!。宝達山から下山する(実際は急な斜面を登り
切った)とき、Nさんの携帯が鳴り、「シシ鍋と鴨鍋、どちらにします」と宿から問い合わせがあり、「ひとつずつ」を
注文しておいた。地元産の食材を生かした料理が次々と出てくる。「鮒(ふな)の洗い」など初めて口にする品は、
川魚特有の臭みもなくコリコリして美味だった。
〆は、朝採りタケノコの釜飯と白味噌仕立てのアラ汁をいただき、満腹だ。
私たちの部屋にN夫妻に来ていただき、持参してくれたワインを飲みながら、パソコンや写真を使った「南極探
検報告会」だ。こうして、楽しい時間を過ごしていたが、久しぶりのミネラル・ウオッチングの疲れもあり、お開きだ。
気になっていた産地の情報をいただいた”○三郎さん”と、同行いただいたN夫妻に感謝している。
( 2015年4月 採集 )
文 献 名 | 著 者 | 出版年 (西暦) | 記 述 内 容 | 備 考 | 日本鉱物誌(初版) | 和田 維四郎 | 明治37年 (1904年) |
能登産は淡緑色にして内部は 殆ど透明なるも外面粗鬆なる為め 玲瓏(れいろう:)なり。 その多くは岩代(大沼郡小松川)産の 如く結晶群生、 O (111)を主體として ∞O∞ (100)の為めに其角を缺(欠)か れたるものなり。 然れとも稀に該石の空隙に於て單獨なる 小晶にして透明なるものを産し ∞O2(210) ∞O∞ (100)の聚形を現はすものあり。 | 本邦鉱物標本 | 和田 維四郎 | 明治40年 (1907年) |
第825号及第826号 第825号は大なる結晶の数個集合せる者 にして、 O の結晶をなし、稜の長さ凡40「ミリ」 に達す。 O の隅角は ∞O∞ に由て缺けり。色は 淡緑なり。
第826号は岩石の上に附着せるものにして、 | 日本鉱物誌(第2版) | 福地 信世 | 大正5年 (1916年) |
能登國宝達山の蛍石は花崗岩中に脈を なして産す。石英、黄鉄鉱を伴ふ。 色は淡緑なり。 普通集合體なれども?(しばしば)良好なる 結晶を産す。其大なるものは径5センチに 達す。 結晶面は、a 、o、 d 、n、 e にして、2つの 晶相あり。 第一の晶相は、 o を主面とするもの [第二図、第三図]にして、其形大なり。 o面は普通小個體の集合より成る。 第二の晶相は、 a を主面とするものにして [第五図]、形小なり。
| 地質学雑誌 | 佐藤 伝蔵 | 明治42年 (1909年) |
「能登國宝達山産蛍石」
・ 産出の状態
以下、次のような項目について
・ 母岩 |
宝達山の蛍石について 総合的に調査・研究した 文献 |
明治37年(1904年)の「日本鉱物誌(初版)」に記述があるところから、これ以前に産出が知られていたことは
確かだ。
「日本鉱産誌 U」には、『明治年間僅かに稼行 其後放置』、とあるように、産地を見ても、大規模に開発さ
れた形跡はみられない。
昭和12年(1937年)、支那事変が勃発し、鉄やアルミニュームの精錬に不可欠な蛍石の需要が急増し、朝鮮
や中華民国からの輸入だけでは足りず、国内各地の探鉱開発が急速に行われるようになったが、宝達山は、
対象外だったようだ。
N夫妻と「免田(めんでん)交差点の北にあるトイレなどもついた駐車場で待ち合わせた。東のほうに、頂上
付近にアンテナが林立する宝達山(標高637m)が見える。宝達山は能登地方の最高峰で、宝達郵便局の風景
印のデザインにも取り入れられている。
10年前に訪れたときには、羽咋郡押水町(おしみずまち)だったはずだが、その3ケ月後の平成17年(2005年)
3月1日、平成の大合併で志雄町(しおまち)と合併し、宝達志水町(ほうだつしみずちょう)が誕生した。
ここから、”○三郎さん”に書いてもらった地図にしたがって進む。しかし、一向に見覚えのある場所が見つから
ない。やがて、「ここまではこなかった」とN夫人が言うように、私も記憶のない場所まで行ってしまった。しかたな
く、少し戻っては車を降りて確認することを数回繰り返していると、『ここだ!!』、という場所があった。
10年の月日の経過は恐ろしい。あったはずの目印がなくなり、逆にまわりの木々は大きくなり、雑草にも覆わ
れ、すっかり見間違ってしまう。
採集支度をして進むと、何となく見覚えのある場所だ。やがて、『目印』が見えて一安心だ。先行する私の目に
試掘穴と思われる小さな坑道が見えると産地はもうすぐだ。産地には入ることができる坑道とその前にズリが
確認できる。
『 母岩は、中粒の角閃石花崗岩で、角閃石、黒雲母、石英、正長石及び斜長石よりなり、副成分として
燐灰石及び磁鉄鉱を含む。角閃石と黒雲母は分解して緑泥質物となり、長石は多少高陵土(カオリナイト)
化している。肉紅色の長石を有する「ペグマタイト」脈が縦横に花崗岩を貫通する。』
肉紅色の長石を含む「ペグマタイト」塊は、道路脇の転石でも容易に観察でき、南極でしか見られないものと
思い込んでいた私には、意外だった。
また、佐藤は、『・・・・其(石英)の成生の時期は、常に蛍石に先立つものと言わざるべからず。裂罅は不規則
にして、その走向・傾斜一定せざるのみならず、其幅5mmより10cmの間に変ず』、とも記している。
坑道の中の壁には、ヒビ割れを充填する形で、無色〜淡い緑色で、最大幅10cmの蛍石脈が縦に走っている
のが観察できる。ただ、その母岩には「花崗岩」だけでなく、細かい砂が堆積した「砂岩」もあるのだ。
そうなると、宝達山の蛍石の成因は、次のように考えるべきではないだろうか。古い時代(第三紀?)の堆積
岩に宝達山火山の花崗岩が貫入した。貫入時の圧力や性質の違う2種類の岩石は温度変化による伸び・縮み
の量が違い、その境界付近にヒビ割れ(裂罅)が生まれた。
その割れ目に珪素塩(SiO2)イオンを含む鉱液が浸入し、石英脈や水晶を作った。この後も新たにできる割れ
目もあった。その後に、フッ素(F)イオンを含む鉱液が上昇し蛍石が生まれた。
これらを示す標本として、左の写真の蛍石脈は石英脈を介さず直接母岩に接しているし、石英脈は蛍石を伴っ
ていない。右の写真の蛍石は水晶の上に成長していて、石英(水晶)の後に蛍石が生まれたことを示している。
ここでの採集は、まず坑道前での『ズリ採集』でスタートだ。熊手を使ってズリ石を掘り出して、四周をチェックし、
結晶のついているものを取りあえずキープしておく。
2時間近くかけて、ズリ石が少なくなったら、坑道内に入って採集だ。私は、ハンマーとタガネで蛍石脈を
叩き、母岩付きを狙う。蛍石脈が走っている下には、母岩つきや分離した蛍石が落ちているので、女性陣は
これを掘り出して採集する。
気がつけばとうにお昼の時間を過ぎている。外に出て暖かな陽射しの中で、昼食をいただく。周りには山野草
が色とりどりの花をつけ、近くの茂みからは鶯の鳴き声も聞こえてくる長閑(のどか)さだ。
昼食が終わると撤収の準備だ。持ち帰る標本と置いていくものを選別するが、どうしても持って行きたい標本
が増える。車に戻り、下山する前に、道路の拡幅工事でできた崖と転石を確認すると、目聡いN夫人が母岩付き
「緑色の蛍石」発見し、その周辺で私も母岩付き「無色透明な蛍石」を採集し、この辺り一帯に蛍石脈があるこ
とを確認できた。
佐藤の「能登國宝達山産蛍石」に、『・・・・・宝達山に於て現に露出する蛍石脈は其深さ幾何に達するや知る
べからざると共に其付近に尚蛍石脈の存在を探求すべき価値あり。然(しか)れども、其母岩は堅硬なる角閃花
崗岩にして之を採掘するに困難なるべく随(したが)って、多くの収益を望むべからざるがごとし。』、とある。
蛍石脈はアチコチにある可能性が高いが、採掘の困難さや、資源量が多くないことなどが、『明治年間僅かに
稼行 其後放置』された理由だろう。
『 成因は、弗化錫のガスの噴気作用(Pneumatolysisi)に由りて生じた蛍石は、錫鉱床の特有鉱物として
電気石、「レピドライト」(鱗雲母のこと)、黄玉、燐灰石などのフッ素(F)を含有する鉱物と共に産出するを
常とす。
宝達山産蛍石は、少量の石英、黄鉄鉱、及び極めて少量の錫石のほか、ほとんど他の鉱物を随伴せず。
この事実より、宝達山産蛍石の多数は、弗化石灰を溶解した鉱泉の沈殿により生じたものと知ることが
できる。 』
宝達山では、蛍石以外には「黄鉄鉱」と稀に「錫石」が採集できるとあるが、今回、次のような鉱物の産出を
確認できた。
(1) 蛍石【FLUORITE:CaF2】
白色(透明)と淡い緑色の蛍石が裂罅を充填する形で産出する。脈の太い部分の晶洞や小さい水晶と共
生する箇所には自形結晶が見られる。
右の写真の晶洞中央は、 ”a面(100)” が発達した”サイコロ状”、上は 錐面 ”o面(111)” を示す自形結
晶だ。
蛍石の特性で興味があるのは、『紫外線での蛍光』ではないだろうか。蛍石には、紫色や黄色などに美し
く蛍光するものが珍しくないのだが、残念ながら、宝達山の蛍石はミネラ・ライトを照射しても、蛍光しない。
【訂正】
「蛍光しない」、としたのは、「短波長の紫外線では」と書くべきだった。このページをアップしてから2週間ほ
どして、念のため長波長の紫外線で確かめてみると、ピンク色に蛍光することが判明した。
「蛍」という字をもつ「蛍石」が「蛍光」するのは、当然でしょう、と言われればそれまでだ。
今まで、「蛍光」の確認には、短波長のミネラ・ライトだけを使っていたが、今後はLED方式の長波長ミネラ・
ライトも併用すべきと深く悔悟している。
(2) 石英/水晶【QUARTZ:SiO2】
産地では、長さ数mmの”米水晶”が集合した標本はあるのだが、”水晶”と呼べるものはなかなかお目に
かかれなかった。ズリで拾い上げた長さ9cmほどの菱形をした石英の塊をみると、最大幅1cmほどの頭付き
水晶が20本以上一面に成長している標本があった。5cmほどの狭い隙間を充填した石英脈の隙間に
水晶が成長したもののようだ。この産地としては、満足すべき逸品だろう。
益富先生が御覧になったら、『共生している水晶のr面、m面がすべて同一の向きなのに疑問をもちたい』
とおっしゃるだろう。
(3) 黄鉄鉱/武石【PYRITE:FeS2】
引き上げる寸前にN夫人が「MH、この鉱物は何でしょう」、と1つの標本を差し出した。ルーペでみて、真っ
黒で頭の角度と縦に条線があるところから、「電気石」でしょうと鑑定した。ただ、共生しているサイコロ状の
鉱物は、「黄鉄鉱」が錆びた「武石」だ。念のため、写真を撮らせてもらった。。
このページをまとめるにあたり、写真をもう一度良く見直してみたら、頭の所にサイコロ状の「武石」が見え
これは「武石」だと鑑定し直した。
黄鉄鉱は、新鮮なもので、花崗岩の中に”金の砂”をまいた様な産状のものを採集した。
(4) 白雲母【MUSCOVITE:KAl2(AlSi3)O10(OH)2】
肉紅色長石を伴うペグマタイト部分や粗粒の花崗岩に産出する。面が平坦でなく、湾曲しているのがいわ
ゆる「ペグマタイト」産地のものとの違いだ。
金曜日の夕方、甲府を経ち、松本→安房トンネル→神岡(現飛騨市)→富山 に抜けて、22時ごろ北陸道
にのり、「矢部川SA」に入る。SAの売店には、「北陸新幹線開業」のコーナーが設けられ、ご当地の名産や
お土産が並んでいる。
翌朝、SAのレストランが7時に開くと同時に入ると、ここでも「北陸新幹線開業」を祝った特別メニューが並
んでいる。
山はあっても海なし県から来たことだから、おすすめメニューの「富山の恵(めぐみ)定食」を妻が、私は「の
ど黒の海鮮丼セット」をいただくことにした。
のど黒(アカムツ)が高級魚だ、とは知っていたが食べるのは初めてだった。白身でありながら、脂がのっ
た一切れを噛むと濃厚な旨(うま)みが口中に広がる。”白身のトロ”とはよく言ったものだ。これだったら、
ご飯を大盛り(無料)にしてもらえば良かった、と後悔するMHだった。
こうして、シッカリ朝食を食べて、N夫妻との集合場所へと向った。
さて、宝達山でのミネラル・ウオッチングに満足して、森本ICから北陸道に入り、今夜の宿を目指した。いつ
も利用する小松IC近くか小松駅周辺のホテルをN夫妻が探してくれたのだが、「北陸新幹線開業」の影響で
どこも一杯で、「ハニベ」近くの温泉旅館を予約してくれていた。
北陸道を走るとき、休憩したり、ときには食事をして、お土産を買うのが恒例になっている「徳光ハイウェー・
オアシス」に寄った。土曜日だが、以前に比べて客が特に増えた印象はない。お店の人に、「新幹線が通っ
てお客は増えましたか」、と聞いてから、場違いな質問をしたことを恥しく思った。お店の方から、「それほど」、
という答えが返ってきた。
北陸も日本の縮図のようなもので、良いのは一部で、その恩恵が遍(あまね)く行き渡っていないようだ。
北陸道を「美川IC」でおり、今夜の宿「赤穂谷温泉」についた。この辺りは、遊泉寺銅山跡の紫水晶を求め
て10回以上来ているはずだが初めて知る”隠れ家”的な宿だった。ナビに出てくるのだが、その案内どおりに
行くと行き着けない、という不思議な宿でもあった。
長屋門をくぐって車を入れ、玄関に入ると敷地、建物共に広い。創業100余年というから、明治末、遊泉寺
銅山の最盛期からの老舗旅館だ。
「昔、このあたりに銅山がありましたね」、と仲居さんに尋ねると、「谷一つ向こうです」、という。温泉は源泉
かけ流しの「単純泉」だがPHは8.2とアルカリ性だから、いわゆる”美人の湯”だ。
” 人よし、お湯よし、味もよし ” の一軒宿で、豊富なお湯で疲れを癒し、美味しい料理に舌鼓をうち、
N夫妻と楽しく談笑しているうちに、北陸の夜は更けていった。