新潟県糸魚川市橋立金山跡の自然金

        新潟県糸魚川市橋立金山跡の自然金

1. 初めに

    2009年9月、『北陸ミネラル・ウオッチング』の第1日目に、新潟県糸魚川市金山谷に
   ある橋立金山を通って、その奥にあるヒスイ産地を兵庫県の石共・N夫妻と訪れた。帰
   途、私だけ橋立金山跡に残ってパンニングで「自然金」を採ったたのは既報の通りであ
   る。

   ・ 2009年9月 北陸ミネラル・ウオッチング【ダイジェスト版】
    ( Digest Version of Mineral Watching Tour in Hokuriku Area , Sep. 2009
     Nagano,Niigata,Ishikawa,Fukui & Gifu Pref. )

    帰宅して数日が過ぎ、採集品の整理が終わったもので新たな発見があったフィール
   ドについては、HPに載せて報告しておきたい。

    橋立金山跡を訪れたのは、2005年11月以来、ほぼ4年振りだった。前回は、最初の
   坑口にたどり着くのがやっとで、坑内水を溜めて、坑道内の土砂をパンニングして、1粒
   の「自然金」を発見して、『金山があった』ことが確認でき、それはそれで有意義だった。

     
「山金」

 樹枝状に成長した
自然金そのもので
坑内からでただけに
軟らかい金なのに
ほとんど変形していない。
【2005年11月採集品】


    今回初めて坑口がいくつか(3つ?)あることを確認し、「金山谷」でパンニングしたと
   ころ、わずか1時間足らずで80粒以上の「自然金」を採集でき、「橋立金山」が有数の
   金山だったことが立証できた。

    同行いただいたN夫妻や情報をいただいた多くの石友に感謝している。
   ( 2009年9月採集 )

2. 産地

 2.1 橋立金山の位置
     田口峠から阿曽谷右岸側にある製錬所跡をとおり、鉱山道に沿って1時間半から
    2時間半の歩きで1つ目の坑口に到達する。鉱山道の途中には、高さ100〜200mの
    断崖などスリリングな箇所がいくつかあり、歩きに自信のある人でないと厳しいコース
    だ。

        
          製錬所跡                 鉱山道
                              【右側は断崖!!】
                 橋立金山跡へのルート

 2.2 橋立金山の地質と沿革
      橋立金山について、昭和30年代初頭に編まれた「日本鉱産誌」を調べたが、金銀
     鉱山としては載っていない。つまり、古い時代に金山としての寿命を終えた、という
     ことだ。

      製錬所跡にある青海町博物館友の会が平成11年(1999年)に建てた案内板や
     「日本鉱産誌・銅鉛亜鉛鉱床」の部から知りえたことをまとめてみる。

  (1) 地質
       青海川上流の金山谷には、4億年前の青海変成岩や蛇紋岩が分布し、熱水鉱
      床の含金石英脈が介在している。
       鉱山の坑口近くの鉱山道には、石英脈を喰んだ露頭が見られる。

      
石英脈を喰む露頭

母岩は、変成度の弱い
「雲母片岩」のようだ。
部分的に茶褐色の褐鉄鉱
に染まっている。
自然金は、これらに伴って
いたようだ。


       「日本鉱産誌」には、『古生代の角閃片岩・緑泥質石英絹雲母片岩・石墨片岩
      緑泥片岩中に橄欖岩の貫入があり、橄欖岩は蛇紋岩に変わっているところが多
      い。鉱脈は幅15cm、走向に200m位、断層で切られていて、富鉱部は180m
      内外、走向はほぼ E−Wで北へ30°位傾斜している。
       緑泥質物質のため暗緑・淡緑色または白色の石英脈で、方解石と苦灰石を
      含んでいる。少量の黄銅鉱、方鉛鉱および閃亜鉛鉱を含み、金は盤肌と緑泥石
      質の汚染部に多く、2次性と思われる大粒の金を産するところがあり、純度900
      (90%)以上で、明治から大正の初年に栄えたが、方解石に富む断層に至って
      断絶し、その”ひ先”は未だ発見されていない』 とある。

       その後、銅・鉛・亜鉛鉱床として、1952年(昭和27年)現在探鉱中、とある。粗鉱
      の品位は、銅(Cu)4%、硫黄(S)20%とあるが、本格的な採掘には、至らなかったら
      しい。

  (2) 沿革
       橋立金山の開鉱は、古く上杉時代(16世紀半ば)と言われ、江戸時代末期の
      天保年間(1830年代)、雪倉岳の「蓮華銀山」と共に採掘され、麻尾鉱山、長尻谷
      鉱山として、年間4kgの金を産出していた、と伝えられる。

       明治以降だけでも鉱山主は11人も代わり、栄枯盛衰を繰り返していたが本格的
      に採掘されたのは明治20年(1887年)に高豊館橋立鉱業所となってからで、明治
      30年代の最盛期には年間200kgもの産金量があり、学校、神社、自家発電設備
      などもあって、この地方で最も活気のある鉱山街だった。
       金山は、山仕事に来た人が、砂金で盛り上がった蟻の巣を発見したのがキッカ
      ケとされ、明治37年(1904年)の(開山)10年祭には、大きなアリの模型を作り、
      その目玉に金をはめ神殿に供えたとも伝えられている。このとき、その当時ふもと
      の町でも珍しかった電灯をつかったイルミネーションが全山に灯され、遠く直江津
      の人たちを驚かせたと言わている。
       採掘された鉱石は、尾根から索道で製錬所まで運ばれ、製錬された金は、坂田
      峠を越えて市振を経て金沢に運ばれた。この道は、山回りの旧北陸道で、人力車
      も行き交う賑わいだったと言われる。

       鉱山の最盛期は大正初め迄で、その後戦後(1945年すぎ)まで、ズリ選鉱が行
      われていたが昭和30年(1955年)に出版された「日本鉱産誌」には”休山中”とな
      っている。

3. 産状と採集方法

    鉱山道の脇には、いつの頃のものかハッキリしないが深さ100mほどの坑道がいくつ
   か口を開け、その中には、散発的に石英脈が見られる。

         
            第1坑               第2坑               第3坑
                           橋立金山坑口

3. 産状と採集方法

    糸魚川市(旧青海町)にある「青海自然史博物館」には、橋立のヒスイなどとともに、
   橋立金山の金鉱石が展示してありる。
    石英脈と母岩との盤際にある茶色に褐鉄鉱化した個所に金が存在するらしいが、肉
   眼で見えるような金は確認できない。

      
      金鉱石
【青海自然史博物館展示品】

茶褐色の褐鉄鉱
に染まって部分に
自然金があるようだが
肉眼では確認できない。


    「日本鉱産誌」によれば、明治時代に鉱脈から金の大きな粒や塊が掘り出された鉱
   山として、「鹿折」、「薬丸」と並んで「橋立」の名がある。

    Mineral Hunters としては、何としても”母岩付き”を採集したいところだが、限られた
   時間では難しい。前回(2005年11月)は、坑道内の土砂を坑入口まで運び、坑内水を
   溜めてパンニングを行った。
    しかし、これでは採集できる量は限られる。今回は、金山谷の岸に生えているシダや
   雑草を引き抜いてその根をパンニング皿の中で洗う、いわゆる”草引き”をトライした。

      

岸辺の草を根っこごと
引き抜く。

網目状の根っこに
引っかかっている砂金粒を
パンニング皿に洗い出す。

      

沢水の中でパンニング

      

パンニング皿の底に
砂金や砂鉄などの
重鉱物が残る。


    この段階で大き目のタッパーに流し込むと”手返し”が早いのだが、この日は、フイル
   ムケースしか持参せず、回収に手間取ってしまった。
    ( ”手返し” とは、「土砂をパンニング皿に入れる」→「パンニング」→「容器に回収」
      の一連の作業 を指す )

4. 産出鉱物

    パンニングで得られるのは、砂金を初めとする比重が大きな、いわゆる『重鉱物』で
   ある。

 (1) 砂金/自然金【Placer Gold/GOLD:Au】
      パンニングによって得られた自然金は、文字通り黄金色に輝き、ほとんど摩滅した
     形跡がなくこの近くで生成したことをうかがわせる。

     
砂金/自然金

【金山谷産】

1時間足らずの採集品

総数80粒強
最大 2mm


      標本として得られたものの特徴は次のようで、以前、約5km下流の金山谷出合で
     採集した自然金との共通性が見られる。

     @ 「樹枝状」結晶
        古い鉱物図鑑を見ると、自然金の結晶の1形態として、「樹枝状」結晶が掲載
       されている。
        橋立金山の砂金の中に「樹枝状」のものがある。
     A 石英を噛む
         採集した標本の中に、白色〜半透明の石英の微粒を噛み(内包し)、生成し
        た場所から余り下流に流されていないことをうかがわせ、「橋立金山」と同じ鉱
        床が起源と推定される。

           
               樹枝状              石英を喰む
                      採集した砂金

 (2) 武石【Buseki:】
      パンニングしていると、皿の底に、”升石(ますいし)”とでも呼べそうな真四角の
     「黄鉄鉱」起源の「武石」がいくつか残った。
      橋立金山の自然金は、「青海自然史博物館」に展示してある金鉱石標本にある
     ように「黄鉄鉱」や「磁硫鉄鉱」など『鉄系鉱物』と共生しているようだ。

      

武石

真四角の結晶形から
「黄鉄鉱」が起源と
考えられる。


 (3) 重鉱物【Heavy Minerals:-】
      パンニングすると、比重2.7の石英よりも重い(比重が大きい)鉱物が皿の底に残
     る。これらを総称して『重鉱物(じゅうこうぶつ)』、と呼ぶ。
      その特徴は、
      @ 硬い。モース硬度が6以上と硬くて摩滅せずに残った。砂金は例外
      A カラフル(色とりどり)で美しく、@の特徴とあわせて『宝石』もある。
        (ただし、小さすぎるのが難 )
      B 同じ鉱物でも何種類かの結晶形が見られることがある。
      C 量的に一番多い鉱物は産地によって異なるが普通は「磁鉄鉱(砂鉄)」
         ( 中津川市苗木地方では「錫石」 )

      

重鉱物

透明・・・・「ジルコン」
ピンク・・・「ジルコン」
      「スピネル」
緑・・・・・・「橄欖石」
黒・・・・・・「チタン鉄鉱」
      (磁鉄鉱は磁石で
       取り除き済)


5. おわりに

 (1) 「金山(かなやま)谷」考
      草下さんの「鉱物採集フィールド・ガイドの」でストロンチオ斜方ジョアキン石など
     を産する「金山谷」を知ったのは、ミネラル・ウオッチングを始めて間もない、20年
     以上も前だった。
      その時は、何故この谷を”金山谷”と呼ぶのか深く考えたこともなかった。金山谷
     出合とその上流にある「橋立金山跡」を訪ね自然金が採集でき、その由来が納得
     できた。

 (2) 「旧北陸街道・坂田峠」
      駐車場から林道「金山線」を100mも登ると旧上路村から橋立村へ通じる坂田峠道
     の「坂田峠」がある。この峠道は、越中と越後を結ぶ山回りの北陸街道で、「親不
     知」の難所がある海沿いの道路が不通のときは迂回路として重要な役割を果たし
     ていた。

      「坂田峠」の名は、上路の山姥の子が「金太郎こと坂田の金時」伝説に由来する、
     とされているが・・・・・・。
      明治30年代、この山中に景気の良い鉱山街があって賑わっていたころ、泊(とまり)
     の芸子達が人力車で峠を通ったことから「芸者街道」とも言われている。
      現在、坂田峠には、古びた地蔵一体のそばに「熊注意」の看板があるだけだ。

        
           坂田峠               地蔵さん
          【泊方面】

6. 参考文献

 1) 日本鉱産誌編纂委員会編:日本鉱産誌 T-b 主として金属原料となる鉱石
                     東京地学協会,昭和31年
 2) フォッサマグナミュージアム編:よくわかるフォッサマグナとひすい
                       同ミュージアム,2003年(?)
 3) 松原 聰:鉱物ウオーキングガイド,丸善株式会社,2005年
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