新潟県青海町橋立金山跡の自然金

        新潟県青海町橋立金山跡の自然金

1. 初めに

   秋も深まり、冬の訪れを感じさせる時期になると、荒れる日本海で「ひすい探し」を
  してみたくなる。そんな折、兵庫県の石友・Nさん夫妻が、新潟県糸魚川市周辺での
  ひすい観察を主にした「ミネラルウオッチング」を計画してくれた。
   しかし、今までご一緒したひすい探しで、私達夫婦が”これぞひすい”というものを
  探したことがないのを知っているので、初日には「橋立金山」を訪れる計画を練ってくれた。
   橋立金山の名前は古い地図などで知り、2年程前、青海町にある自然史博物館で
  「金鉱石」も見て、いつか訪れたいと思っていたが、場所がよく分からず、訪れることが
  できないまま、今日に至っていた。
   2005年に出版された松原先生の「鉱物ウオーキングガイド」を読むと「橋立金山」の章に
  地図と詳しいルート説明があり、金山跡から1km先には「ひすいの転石」もあると書いてあり
  ”ひすい”大好きのNさんの奥さんも大満足のコース設定であった。
   しかし、コースの出発点にあたる「製錬所跡」までのルートがことごとく通行止めで
  迂回に迂回を重ね、到着できたのは予定より2時間も遅い11時であった。
   金山跡までは、石川県の石友・Yさんから恵与いただいた古い地図の上では等高線に沿った
  山道で4kmほどしかなく、1時間もあれば到着するだろうとの読みだったが、途中、ぬかるみや
  雪の重みで幹の曲った木の障害物を避けながら進むので、思った以上に時間がかかり
  「金山跡」まで2時間近くかかり、帰りのことを考えると、この日はここを最終目的地にせざるを
  得なかった。
   坑道の中にはところどころ石英脈が確認でき、坑内の土砂をパンニングして見たが
  現地では目に見える”金”を拝めなかった。持ち帰ったパンニング皿に残った重鉱を実体
  顕微鏡で観察すると、小さいながら”山金”の特徴を備えた金粒があり、溜飲を下げた。
   橋立金山の古い地図を恵与いただいた石川県の石友・Yさんと、ご一緒いただいたNさん
  夫妻に厚く御礼申し上げます。
  (2005年11月採集)

2. 産地

   松原先生の「鉱物ウオーキングガイド」に詳しく書かれていますので、詳細は割愛
  します。この本には、いくつかのルートから到達できる、とありますが、橋立や親不知から
  入ると「大平峠」から先が通行止のため、行けません。富山県の境川からしか入れないので
  注意が必要です。( いつ、通行止めが解除されるか不明 )
   石友・Yさんに送っていただいた地図には、製錬所の真南約40秒、「金山谷」の崖の西
  ”採鑛”と書いた脇に鉱山の印 ”父” があります。

    橋立金山地図

   駐車場から下がり、小さな沢を渡ると、その先に平坦な「製錬所」跡があり、説明板もあり
  ます。その先、背丈より高い熊笹、葦の中の踏み分け道を行き、小さな沢を渡ると等高線
  ( 持参した、Germin社のポケ・ナビでは、標高450m、地図でもそのくらい )に沿った鉱山
  道にでるので、後は迷うことはない。
   行程の中ほどで、曹長石巨岩がある金山谷の”大きなガレ”がはるか下に遠望できます。
   このコースには、大岩が道を塞いでいたり、目のくらむような絶壁の上を通る所が何箇所か
  あり、誰にでもお奨めできる産地ではありません。観察成果に比べ、危険が大き過ぎます。

           
         製錬所跡          金山谷”ガレ”遠望【撮影:Nさん】
                   橋立金山コース

3. 産状と採集方法

   橋立金山の開鉱は、古く上杉時代(16世紀半ば)と言われ、天保年間(19世紀前半)には
  雪倉岳の蓮華銀山と共に採掘され、麻尾鉱山、長尻谷鉱山として、年間4kgの金を産出して
  いた、と伝えられる。
   明治以降だけでも鉱山主は11人も代わり、栄枯盛衰を繰り返していたが本格的に採掘
  されたのは明治20年(1887年)に高豊館橋立鉱業所となってからで、明治30年代の最盛期には
  年間200kgもの産金量があり、学校、神社、自家発電設備などもあって、この地方で最も活気の
  ある鉱山街であった。
   金山は、山仕事に来た人が、砂金で盛り上がった蟻の巣を発見したのがキッカケとされ、明治37年
  (1904年)の(開山)10年祭には、大きなアリの模型を作り、その目玉に金をはめ神殿に供えた
  とも伝えられている。このとき、その当時ふもとの町でも珍しかった電灯をつかったイルミ
  ネーションが全山に灯され、遠く直江津の人たちを驚かせたと言われます。
   採掘された鉱石は、尾根から索道で製錬所まで運ばれ、製錬された金は、坂田峠を越え
  市振を経て金沢に運ばれた。この道は、山回りの旧北陸道で、人力車も行き交う賑わいだったと
  言われる。
   鉱山の最盛期は大正初め迄で、その後戦後(1945年すぎ)まで、ズリ選鉱が行われていたが
  昭和30年(1955年)に出版された「日本鉱産誌」には”休山中”となっている。
   「日本鉱産誌」には、『古生代の角閃片岩・緑泥質石英絹雲母片岩・石墨片岩・緑泥片岩中に
  橄欖岩の貫入があり、橄欖岩は蛇紋岩に変わっているところが多い。鉱脈は幅15cm、走向に
  200m位、断層で切られていて、富鉱部は180m内外、走向はほぼ E−Wで北へ30°位
  傾斜している。緑泥質物質のため暗緑・淡緑色または白色の石英脈で、方解石と苦灰石を
  含んでいる。少量の黄銅鉱、方鉛鉱および閃亜鉛鉱を含み、金は盤肌と緑泥石質の汚染部に
  多く、2次性と思われる大粒の金を産するところがあり、純度900(90%)以上で、明治から大正の
  初年に栄えたが、方解石に富む断層に至って断絶し、その”ひ先”は未だ発見されていない』 とある。
   鉱山道の脇には、深さ100mほどの坑道が口を開け、その中には、散発的に石英脈が見られ
  その周辺の土砂を坑入口まで運び、パンニングを行った。

           
      坑口【Nさん夫妻】              坑内の石英脈
                    橋立金山産状

4. 産出鉱物

 (1)自然金・山金【Native Gold/Mountain Gold:Au】
    パンニングによって得られた自然金は、文字通り黄金色に輝き、全く摩滅した形跡がない
   ”角”をもった”山金”の特徴を備えたものである。金鉱石は、緑泥石を伴う石英で、その境目には
   表面が褐鉄鉱化した磁硫鉄鉱の結晶も見られる。

           
      山金【パンニング品】         含金石英【赤矢印:磁硫鉄鉱】
                       自然金

5. おわりに

 (1)鉱山道の脇には、「ムラサキシキブ」が青紫色の小さな実をつけていた。この木は、”金”を
   濃集する性質があるとされ、山梨県でも金鉱山の近くに良く見かけ、ここが産金地帯である
   ことを暗示しています。

    ムラサキシキブ

 (2)青海町にある「青海自然史博物館」には、橋立のヒスイなどとともに、橋立金山の金鉱石が
   展示してあります。石英脈と母岩との盤際にある茶色に褐鉄鉱化した個所に金が存在する
   らしいが、肉眼で見えるような金は確認できない。「日本鉱産誌」によれば、明治時代に鉱脈
   から金の大きな粒や塊が掘り出された鉱山として、鹿折、薬丸と並んで橋立の名があります。
   金山跡を訪れる前に、見学すると良いでしょう。

    橋立金鉱石【青海自然史博物館展示品】

 (3)この日は、霧雨が降ったものの、全山が赤、黄色の紅葉に覆われ、素晴らしいミネラル
   ウオッチングであった。一週間早くても、遅くてもダメ、のジャスト・タイミングでした。
    私たちが帰るときに、石川県の某氏と会った。「ひすい」の産地まで行ってきたというので
   話を聞くと、われわれの歩くペースでは片道4時間はかかるし、途中、さらに危険な個所があり
   女性では無理だろうとのこと。
    駐車場に戻り、”過去の”採集品を見せていただいた。その中には、2004年に国立科学博物館で
   開催された「ひすい展」にも出品された、緑色のヒスイがあり、その素晴らしさに、Nさんの奥さんの
   ”ひすい熱” がぶり返したようでした。

 (4)この夜は、翌日に備え、Nさんが予約してくれた姫川温泉(ここは、長野県であった)に宿泊した。
   「日観連」加盟の旅館だけに、かけ流しの豊富な湯量の温泉に浸かり冷えた身体を温め
   地元の食材をつかった料理に舌鼓を打ち、翌日への鋭気を養った。
    このミネラルウオッチングを企画してくれたNさん夫妻に厚く御礼申し上げます。

       
         露天風呂              乾杯!!
               姫川温泉の夜は更けて

6. 参考文献

 1)松原 聰:鉱物ウオーキングガイド,丸善株式会社,2005年
 2)日本鉱産誌編纂委員会編:日本鉱産誌BT−a 金・銀その他,東京地学協会,昭和30年
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