五無斎と長野県川上村川端下の柱石

       五無斎と長野県川上村川端下の柱石

1. 初めに

  長野県佐久郡川上村で採集した「柱石」(その当時は、透角閃石あるいはそれが変質した
 滑石かと思われていた) とこれを最初に発見した五無斎こと保科 百助の関わりをHPに
 掲載した。
   この中で、『明治31年(1898年)に神保 小虎が地質学雑誌に「信濃南佐久郡川上村に
 於ける保科氏の採集」と題して発表した中に”透(角)閃石”があることは確かであるが、その
 詳細は把握していない』、と書いた。
  これを読まれた五無斎研究の石友・Mさんが神保博士の雑報の全文をHPの掲示板に書き
 込んでくれ、「地質学雑誌」のコピーを恵送してくれた。
  これを読み、五無斎が残した野帳(フィールド・ノート)と付き合わせる事によって、川端下で
 鉱物採集を行ったのは、明治31年(1898年)6月23日であることが判った。

  (1)日本で柱石を最初に発見したのが五無斎である。
  (2)この採集行で、五無斎は柱石以外にも、『川端下の水晶場にて、爰(ここ)には稀なる
     P2 の水晶雙晶と・・・・・・・』とあり、その当時その呼び名はなかったが「日本式双晶」を
     最初に発見した。
    ( 発見したのは、水晶場で働いていた坑夫で、五無斎は中央の学者が知る契機を作った
     というのが正確かも知れません )

   これらのことを、大勢の人に知っていただきたく、このページをまとめてみました。

   貴重な資料を恵送していただいた石友・Mさんに厚く御礼申し上げます。
   P2 の水晶雙晶については、研究中であり、別途報告したいと考えています。
  (2005年9月調査)

2. 『信濃南佐久郡川上村に於ける保科氏の採集』

  明治31年(1898年)、神保 小虎が「地質学雑誌」に『信濃南佐久郡川上村に於ける保科氏の
 採集』と題する雑報を寄稿した。その内容を石友・Mさんが掲示板に書き込んでくれたので
 それを引用させていただきます。

  『 本年(明治31年)夏保科百助氏が得たる品に
    (第一) 同村御所平の電氣石あり
        Rのみ大いに發育して∞P殆(ほとんど)見へぬ結晶を為し、最大の直徑凡(およそ)
        貮(2)寸(6cm)にて、表面雲母の如き者に分解せり、又 
    (第二) 同所川端下(カハハケ)の水晶塲にて爰(ここ)には稀れなるP2の雙晶(双晶)と
         未だ我等に知られざる蝕像様の者多き水晶
    (第三) 同所の石灰岩接觸に於ける「へデン石」の如き物と其微小の結晶と
    (第四) 滑石(?)の棒状集合体(各棒の幅凡(およ)そ三ミリにて、透角閃石【トレモライト】の
         假晶と思われ柱面角凡(およそ)百二拾度位あり、後(のちに)瀧本(鐙三?)氏
         新鮮なる透角閃石と結び附きたる者を採り來れり)

         實に重要なる採集と言うべし。其の後大久保九内藏氏等も同所にて大採集を
        行はれたり  (神保) 』

    本年夏とあるところから、五無斎が御所平や川端下に鉱物採集に行ったのは、明治31年
    (1898年)の夏であった。
  (1)御所平の電気石とは、われわれが赤面(顔)山(あかづらやま)と呼んでいる穴沢山の
     電気石を指している。
  (2)川端下の水晶場で採集したのは、珍しいP2の双晶と蝕像の多い水晶
     P2の双晶とは、P2面を双晶面とする双晶で、その当時、未だ名前はなかったが今でいう
     「日本式双晶」のことである。
     蝕像の多い水晶とは、現在でも容易に採集できる、川端下特有の表面に多数の凹凸が
     ある、すりガラス状になった水晶であろう。
  (3)「ヘデン石」は、和田維四郎の「日本鉱物誌(初版)」にあるヘデンベルグ石【Hedenbergite】
     のことで、灰鉄輝石である。
  (4)滑石(?)は、透角閃石【トレモライト:Tremolite】の仮晶と思われた。瀧本鐙三氏が新鮮な
     ものと共存するものを採集して持参した。
     ここから、現在「柱石」と呼んでいるものが、「透角閃石」であると誤認されたようである。

3. 五無斎の採集記録

 3.1 野帳(フィールド・ノート)
     五無斎は、”奇人”と呼ばれたこともあり、その生活はだらしがないと思われがちであるが
    自分の言動を日記に記録しておくなど、几帳面な性格だった。
     鉱物採集でも、採集鉱物・場所・年月日・個数まで克明に3冊の野帳(フィールド・ノート)に
    記録している。

    五無斎の野帳【「五無斎保科百助全集」より引用】

     明治31年の川上村への採集行はどのように記録されているのか、五無斎の野帳を開いて
    みよう。

     『 野帳第1冊
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      第14号    クロホックル及化石
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       石器   上伊那郡中野原
              明治31年6月採集
   @  水晶   信州川上村川端下  大標本   20
      第15号
       黄鉄鉱  小県郡東内村虚空蔵
              明治30年              50
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   A   電気石  信州川上村御所平
              明治31年6月24日採集      70
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   B  第18号
       柘榴石  信州川上村川端下産
              明治31年6月採集        110
       水晶   信州川上村川端下産
              明治31年6月採集        100
   C  第19号
       雲母   信州川上村川端下水晶山
              明治31年6月23日採集     110
       水晶   信州川上村川端下水晶山
              明治31年6月23日採集     大標本
     第20号
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
        △     △    △     △

      以上20号  31年度以前の採集にて郷里あり。
      (ここから、以下第1回県下鉱物採集旅行の野帳)   』

 3.2 川上村川端下(かわはけ)での柱石採集
     五無斎が川端下で柱石を採集したのは、彼の野帳から、明治31年(1898年)6月23日
    と考えるのが妥当であろう。
     野帳の C のところにある ”雲母”が「柱石」であろう。
     なぜなら
    (1)柱石の表面は白雲母に覆われているので、雲母と鑑定するのは無理からぬこと。
    (2)川端下では、”雲母”は、柱石の表面にしか観察できない。

4. 産出鉱物

   明治31年(1898年)6月13日に五無斎が川端下で採集したと思われる鉱物は4種類あり
  それらが、どのようなものであったか、現在でも採集できる標本で再現して見たいと思います。

  鉱  物  化学式  説    明       産出標本備 考
雲母
【柱石】
Scapolite
(Na,Ca)4
[Al3(Al,Si)3Si6O24]
(Cl,CO3,SO4)
 表面が銀白色の白雲母に
覆われた細柱状結晶が束状に
集合して、石英の中に産する。
   
柘榴石
【灰鉄ザクロ石】
Andradite
Ca3Fe2(SiO4)3  黒〜暗緑色〜褐色の
偏菱12(24)面体結晶集合や
分離単晶として産する。
   
水晶
Rock Crystal
SiO2  半透明〜白濁不透明で
2回にわたって結晶が成長した
と思われ、”松茸”状になった
ものがほとんど
 その際、最初にできた水晶の
柱面が熱水(?)で侵され
”触像”を示す
 両錐も珍しくない。
 稀に鋭錐石などを伴う。
   
水晶
Rock Crystal
SiO2  半透明〜白濁不透明で
直径が5cmを超えるものも
珍しくない。
 群晶では、幅30cmを超える
ものもある。
 しかし、ほとんど”触像”があり
標本としての見た目は今ひとつ。
大標本

5. おわりに

 (1)五無斎研究の石友・Mさんが恵送してくれた「地質学雑誌」のコピーのおかげで五無斎が
    川端下はじめ川上村で採集した鉱物を知ることができた。厚く、御礼申し上げます。
    また、五無斎が残した「野帳」から、「柱石」を採集したのは今から100年以上も前の
    明治31年(1898年)6月23日であったことも判明した。
     2005年6月に、兵庫県の石友・Nさん夫妻と川端下を訪れた。水晶坑跡に立ち、五無斎に
    想いはせると感無量です。

       
         大ズリ          水晶坑跡
        川端下【2005年6月、撮影:兵庫Nさん】

 (2)五無斎こと保科百助が逝って5年、「信濃鉱物誌」の著者、八木貞助氏が神保小虎博士の
   「精密なる保科百助君」を引用し、五無斎の地質学に対する真面目さと信州のみならず
   日本の地学への貢献を次のように語っています。

    『

      保科五無斎君と信州地学

      一代の奇人を以って目されたる五無斎 保科百助逝いて茲に5年、墓樹将に稠(しげ)
     からんとす。君が愚と罵られ、痴と擬せられ、或は磊落不羈を以って称せられ、稚気
     あるを以って愛せられ或意味に於て厄介視されたる、君が常軌を逸せる行動、転々波乱
     に富める44年の活生涯と、極めて多角的なるその性格とに就ては、論すべく将伝ふべき
     もの、枚挙に暇あらざらん。吾等は今、君が我信州地学に致したる事項を録して、君の
     真面目なる一端を窺はんとはするなり。
      君が終生の知己にして、常に誘提を垂れ給いたる理学博士神保小虎先生は、嘗て
     「精密なる保科百助君」と題し言を寄せて曰く

      「 或時は印半纏に古き帽子、或時は新調のフロックコート或は紋付羽織、其服装は
       替はれども、君の精密の性質は、少しも乱るヽ処なし。君か(が)岩石鉱物教授法は
       故らに表紙其他に好奇の文字を附したれども、所論は熱誠にして、時弊を通論せる処
       実に同情に堪へざらしむるものあり。此書の序文に、君は一身の経歴を述べ、読者を
       して涙を催さしむ。君は平穏なる平凡生活を楽しむを得ず、妻を迎へず貯蓄をなさず
       家は在れども入るを好まず、不幸にも奇人と呼ばれたり。然れども君は世に珍しからぬ
       無用の奇人に非ずして、実用の為に生れしなり。君か(が)遺業の1として我砿物界の
       為に新しき材料を供へし事は、甚だ多くして此学の人が必ず披見する地質学雑誌には
       君が名を残し、叉我理科大学鉱物学教室の列品室には、君か(が)長野県地学標本
       ありて、永く地方標本の一模範たり。君が病に臥すや、忽ちにして恍惚。世に離れて
       夢中の夢を観つヽ逝けり。悲しむべく叉羨まし  』

     と、人或は君を目して、精密と称せらるるを意外に感ずるならん。然し君の学術研究に
     対するや、極めて忠実にして、常に細心緻密なる態度を失はざりしなり。多感の君
     もし上の如き知己の言を聞かば地下に泣かん。』
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                           <以下割愛>
 (3)P2( 2は、∞同様に下付き )の水晶雙晶も採集したとある。その当時その呼び名は
   なかったが「日本式双晶」のことである。日本式双晶は、山梨県の乙女鉱山産のものが
   あまりにも有名だが、2005年GWの採集会で中学生のY君が川端下で”蝶型双晶”を
   採集するなど、川上村一帯も日本式双晶の宝庫である。

6. 参考文献

 1)藤本 治義編:南佐久郡地質誌,南佐久教育会,昭和33年
 2)松原 聰:日本の鉱物,滑w習研究社,2003年
 3)益富地学会館監修:日本の鉱物,成美堂出版,1994年
 4)神保 小虎:地質学雑誌 雑報,明治31年(1898年)
 5)佐久教育会編:五無斎 保科百助全集 全,信濃教育会出版部,昭和39年
 6)佐久教育会編:五無斎 保科百助評伝,佐久教育会,昭和44年
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