(1)日本で柱石を最初に発見したのが五無斎である。
(2)この採集行で、五無斎は柱石以外にも、『川端下の水晶場にて、爰(ここ)には稀なる
P2 の水晶雙晶と・・・・・・・』とあり、その当時その呼び名はなかったが「日本式双晶」を
最初に発見した。
( 発見したのは、水晶場で働いていた坑夫で、五無斎は中央の学者が知る契機を作った
というのが正確かも知れません )
これらのことを、大勢の人に知っていただきたく、このページをまとめてみました。
貴重な資料を恵送していただいた石友・Mさんに厚く御礼申し上げます。
P2 の水晶雙晶については、研究中であり、別途報告したいと考えています。
(2005年9月調査)
『 本年(明治31年)夏保科百助氏が得たる品に
實に重要なる採集と言うべし。其の後大久保九内藏氏等も同所にて大採集を
(第一) 同村御所平の電氣石あり
Rのみ大いに發育して∞P殆(ほとんど)見へぬ結晶を為し、最大の直徑凡(およそ)
貮(2)寸(6cm)にて、表面雲母の如き者に分解せり、又
(第二) 同所川端下(カハハケ)の水晶塲にて爰(ここ)には稀れなるP2の雙晶(双晶)と
未だ我等に知られざる蝕像様の者多き水晶
(第三) 同所の石灰岩接觸に於ける「へデン石」の如き物と其微小の結晶と
(第四) 滑石(?)の棒状集合体(各棒の幅凡(およ)そ三ミリにて、透角閃石【トレモライト】の
假晶と思われ柱面角凡(およそ)百二拾度位あり、後(のちに)瀧本(鐙三?)氏
新鮮なる透角閃石と結び附きたる者を採り來れり)
行はれたり (神保) 』
本年夏とあるところから、五無斎が御所平や川端下に鉱物採集に行ったのは、明治31年
(1898年)の夏であった。
(1)御所平の電気石とは、われわれが赤面(顔)山(あかづらやま)と呼んでいる穴沢山の
電気石を指している。
(2)川端下の水晶場で採集したのは、珍しいP2の双晶と蝕像の多い水晶
P2の双晶とは、P2面を双晶面とする双晶で、その当時、未だ名前はなかったが今でいう
「日本式双晶」のことである。
蝕像の多い水晶とは、現在でも容易に採集できる、川端下特有の表面に多数の凹凸が
ある、すりガラス状になった水晶であろう。
(3)「ヘデン石」は、和田維四郎の「日本鉱物誌(初版)」にあるヘデンベルグ石【Hedenbergite】
のことで、灰鉄輝石である。
(4)滑石(?)は、透角閃石【トレモライト:Tremolite】の仮晶と思われた。瀧本鐙三氏が新鮮な
ものと共存するものを採集して持参した。
ここから、現在「柱石」と呼んでいるものが、「透角閃石」であると誤認されたようである。
明治31年の川上村への採集行はどのように記録されているのか、五無斎の野帳を開いて
『 野帳第1冊
以上20号 31年度以前の採集にて郷里あり。
みよう。
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第14号 クロホックル及化石
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石器 上伊那郡中野原
明治31年6月採集
@ 水晶 信州川上村川端下 大標本 20
第15号
黄鉄鉱 小県郡東内村虚空蔵
明治30年 50
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A 電気石 信州川上村御所平
明治31年6月24日採集 70
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B 第18号
柘榴石 信州川上村川端下産
明治31年6月採集 110
水晶 信州川上村川端下産
明治31年6月採集 100
C 第19号
雲母 信州川上村川端下水晶山
明治31年6月23日採集 110
水晶 信州川上村川端下水晶山
明治31年6月23日採集 大標本
第20号
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(ここから、以下第1回県下鉱物採集旅行の野帳) 』
3.2 川上村川端下(かわはけ)での柱石採集
五無斎が川端下で柱石を採集したのは、彼の野帳から、明治31年(1898年)6月23日
と考えるのが妥当であろう。
野帳の C のところにある ”雲母”が「柱石」であろう。
なぜなら
(1)柱石の表面は白雲母に覆われているので、雲母と鑑定するのは無理からぬこと。
(2)川端下では、”雲母”は、柱石の表面にしか観察できない。
鉱 物 | 化学式 | 説 明 | 産出標本 | 備 考 | 雲母 【柱石】 Scapolite | (Na,Ca)4 [Al3(Al,Si)3Si6O24] (Cl,CO3,SO4) |
表面が銀白色の白雲母に 覆われた細柱状結晶が束状に 集合して、石英の中に産する。 | 柘榴石 【灰鉄ザクロ石】 Andradite | Ca3Fe2(SiO4)3 |
黒〜暗緑色〜褐色の 偏菱12(24)面体結晶集合や 分離単晶として産する。 | 水晶 Rock Crystal | SiO2 |
半透明〜白濁不透明で 2回にわたって結晶が成長した と思われ、”松茸”状になった ものがほとんど その際、最初にできた水晶の 柱面が熱水(?)で侵され ”触像”を示す 両錐も珍しくない。 稀に鋭錐石などを伴う。 | 水晶 Rock Crystal | SiO2 | 半透明〜白濁不透明で 直径が5cmを超えるものも 珍しくない。 群晶では、幅30cmを超える ものもある。 しかし、ほとんど”触像”があり 標本としての見た目は今ひとつ。 | 大標本 |
(2)五無斎こと保科百助が逝って5年、「信濃鉱物誌」の著者、八木貞助氏が神保小虎博士の
「精密なる保科百助君」を引用し、五無斎の地質学に対する真面目さと信州のみならず
日本の地学への貢献を次のように語っています。
『
保科五無斎君と信州地学
一代の奇人を以って目されたる五無斎 保科百助逝いて茲に5年、墓樹将に稠(しげ)
からんとす。君が愚と罵られ、痴と擬せられ、或は磊落不羈を以って称せられ、稚気
あるを以って愛せられ或意味に於て厄介視されたる、君が常軌を逸せる行動、転々波乱
に富める44年の活生涯と、極めて多角的なるその性格とに就ては、論すべく将伝ふべき
もの、枚挙に暇あらざらん。吾等は今、君が我信州地学に致したる事項を録して、君の
真面目なる一端を窺はんとはするなり。
君が終生の知己にして、常に誘提を垂れ給いたる理学博士神保小虎先生は、嘗て
「精密なる保科百助君」と題し言を寄せて曰く
「 或時は印半纏に古き帽子、或時は新調のフロックコート或は紋付羽織、其服装は
替はれども、君の精密の性質は、少しも乱るヽ処なし。君か(が)岩石鉱物教授法は
故らに表紙其他に好奇の文字を附したれども、所論は熱誠にして、時弊を通論せる処
実に同情に堪へざらしむるものあり。此書の序文に、君は一身の経歴を述べ、読者を
して涙を催さしむ。君は平穏なる平凡生活を楽しむを得ず、妻を迎へず貯蓄をなさず
家は在れども入るを好まず、不幸にも奇人と呼ばれたり。然れども君は世に珍しからぬ
無用の奇人に非ずして、実用の為に生れしなり。君か(が)遺業の1として我砿物界の
為に新しき材料を供へし事は、甚だ多くして此学の人が必ず披見する地質学雑誌には
君が名を残し、叉我理科大学鉱物学教室の列品室には、君か(が)長野県地学標本
ありて、永く地方標本の一模範たり。君が病に臥すや、忽ちにして恍惚。世に離れて
夢中の夢を観つヽ逝けり。悲しむべく叉羨まし 』
と、人或は君を目して、精密と称せらるるを意外に感ずるならん。然し君の学術研究に
対するや、極めて忠実にして、常に細心緻密なる態度を失はざりしなり。多感の君
もし上の如き知己の言を聞かば地下に泣かん。』
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<以下割愛>
(3)P2( 2は、∞同様に下付き )の水晶雙晶も採集したとある。その当時その呼び名は
なかったが「日本式双晶」のことである。日本式双晶は、山梨県の乙女鉱山産のものが
あまりにも有名だが、2005年GWの採集会で中学生のY君が川端下で”蝶型双晶”を
採集するなど、川上村一帯も日本式双晶の宝庫である。