保科五無斎と渡辺国武

            保科五無斎と渡辺国武

1. 初めに

   2005年の冬は例年になく寒く、フィールドでのミネラルウオッチングは難しいと悟り
  古書店や骨董市を覗いて、「鉱物」「鉱山」関係の資料を探したり、それらに関わった
  人々について調べている。
   五無斎こと保科百助を支援した人として、長野高等女学校校長・渡辺敏と並んで
  渡辺国武の名が頻々とでてくるので、どのような人物なのか知りたいと思っていた。
   その矢先、古書店に「信州の大臣たち」という本があり、ページをめくると信州初の
  大臣・渡辺国武がまっ先に取上げられていたので、早速購入した。
   五無斎は上京の度、邸を訪れ、○の無心や揮毫を依頼していた。この時々の
  様子は、三石勝五郎の「詩伝・保科五無斎」にも残されている。これらの無心に
  渡辺国武は、厭な顔一つ見せず、物心両面から支えてくれ、五無斎が亡くなった
  あと、彼の記念碑のため筆をとっている。
   渡辺国武は五無斎より20歳以上も年長で、親交があったのは、単に信州人という
  だけでなく、ともに生涯独身であったことにもあるとされている。
   渡辺国武は、松本藩・多賀幸右衛門の娘・春子を見初め、元首相・鳩山一郎の父
  和夫と争奪戦を演じ、敗れ、失恋の情やるかたなく、強情にも終生独身を通し、妹の
  世話になっていたという。
   五無斎を支えた大勢の人々の一人として、渡辺国武について調べ、まとめてみた。
  ( 2006年1月調査 )

2. 五無斎と渡辺国武

 2.1 渡辺国武の生涯

    

    渡辺国武は、弘化3年(1846年)、長野県諏訪郡長池村(現岡谷市)の小池家で
   3月3日に生れたが、「男の児が桃の節句に生れたのでは具合が悪い」と5月5日に
   生れたことにして届け出た。高島藩3万石の家臣・渡辺家の養子となり、15歳のとき
   藩学・長善館に入校とともに悪童変じて読書、武芸に励むようになった。松代藩の
   佐久間象山に兵学を学ぼうとした矢先、象山が殺され、江戸藩邸につとめフランス語
   などを学んだ。
    明治元年(1868年)、高島藩主・諏訪忠礼は京都御所警備を命ぜられ、国武も藩主に
   従って京に上った。国武が警備についていた時、鑑札(通行証)を持たない大久保
   利通の入門を拒否したことから、この後大久保に引き立てられることになる。

    廃藩置県とともに、高島藩は消滅、国武は伊那県に出仕した。県令は薩摩の永山
   盛輝で、大久保は永山に連絡し、国武と兄・千秋を民部省に抜擢した。
    明治7年(1874年)大蔵省租税寮、翌年、大久保が総裁をつとめる地租改正局兼務
   となった。地租改正の主眼は @旧幕時代の石高でなく、土地の価格(地価)に対して
   一定の割合で賦課A税率は地価の3%B従来の物納を金納とする、であり、大久保の
   国武にかける期待の大きさがうかがえる。
    しかし、征韓論が湧き上がり、大久保と対立した西郷や板垣、江藤などは続々と野に
   下り、各地に反政府的な自由民権運動が盛り上がった。この運動の総本山は、板垣の
   いる土佐(現高知県)であった。
    明治9年(1876年)、内務卿・大久保は土佐派鎮圧の切り札・国武を高知県権県令
   (副知事)として送り込む。明治10年(1877年)西郷が鹿児島に挙兵し、西南戦争が
   勃発、火の手は土佐にも広がるかと思われたが、国武の事前工作もあって挙兵は
   実現しなかった。
    国武はこの功によって明治11年(1878年)高知県令(県知事)に昇進した。翌明治12年
   (1889年)、国武は地方行政改革のため郡の合併を断行したところ、「内務卿の許可を
   踏んでいない」と中央から横槍が入った。このときすでに、内務卿であった大久保は
   暗殺されて亡く、国武は役人生活から足を洗い、京都郊外に引きこもり晴耕雨読の
   生活に入った。

    しかし、明治14年(1881年)、国武は福岡県令に登用され、翌明治15年(1882年)
   古巣の大蔵省に戻り、調査局長、主計局長、明治21年(1888年)には大蔵次官と
   スピード出世。この蔭には、大久保に代わった大蔵卿・松方正義の抜擢があった。

    話は少し戻るが、明治18年(1885年)、内閣制度が発足、初代総理大臣を伊藤博文
   大蔵大臣は松方で、以後4代の内閣の大蔵大臣は松方であった。明治22年(1889年)
   大日本帝国憲法発布、翌23年(1890年)帝国議会召集、第1回、第2回議会とも予算の
   削減を巡り荒れに荒れた。明治24年、衆議院解散、総選挙の結果、与党が敗北、松方
   内閣は明治25年(1892年)総辞職、代わって伊藤が組閣に動き出した。伊藤は難局を
   打開するため、明治の元勲を引っ張り出し、超大物内閣を組閣した。首相経験者が
   ズラリと並び、首相経験者の松方も当然大蔵大臣として入閣するものと予想されたが
   蓋を開けてみると大蔵大臣は、渡辺国武であった。

    その年、国武が大蔵大臣として初めて臨んだ第4回議会に提出した予算案は前年比
   800万円増、新艦建造費も計上した。予算委員会は、総予算の11%削減、新艦建造費の
   全額削減を要求、国武は「1銭1厘たりとも応じ難し」と突っぱねた。これに野党が多数を
   握る議会は猛反発、「政費を節約し民力を休養することの急務」を天皇に上奏することを
   決議した。こうなると、政府は内閣総辞職か衆議院解散かの選択を迫られたが、突如
   次のような詔勅(天皇のおことば)が下った。

    「 ・・・国家国防の事に至りては苟(いやし)くも一日緩くするときは百年の悔いを遺さん。
     朕ここに内廷の費を省き6年の間、毎年30万円を下付し、又文武の官僚に命じ同年月
     俸給十分の一を納れ、以て製艦費の補足に充てしむ・・・・・・・・」

    これには、野党も予算案を認めざるを得なくなり、国武は明治天皇の詔勅で危機を
   脱した。

    明治33年(1900年)第四次伊藤内閣が成立、松方が大蔵大臣の有力候補だったが
   兄の千秋が宮内大臣をしていたのを利用して、宮廷工作を展開した。
    「(日清戦争後の不況時に) 渡辺出ずんば帝国の財政を確立することあたわず」との
   明治天皇の意向を盾に、再び大蔵大臣の椅子に座った。
    だが、官業中止、事業の繰り延べ、酒・砂糖・タバコの増税など緊縮財政案を提出すると
   世論の轟々たる非難の浴びた。衆議院は何とか通ったものの、貴族院はこれに反対
    伊藤首相は休会を命じ、山県、松方両元老の調整を頼んだが不調に終わり、最後は
   御聖断を仰ぐしかないと、勅旨で増税案による2億5000万円の歳出を承認させた。
    又しても、国武は天皇によって危機を脱した。

    明治34年(1901年)度の予算編成にも、国武持論の『官業中止論』を持ち出し、閣内で
   意見がまとまらなかった。伊藤首相は「官業中止」を一時棚上げにし収拾を図ったが
   翌明治35年(1902年)度の予算編成で再燃した。
    度々おこる閣内の不統一に伊藤首相は、内閣投げ出しを決意し、辞表を提出、国武を
   除く閣僚もこれにならった。内閣が”総辞職”となったのに、国武は一人閣内に踏み
   とどまる。
    西園寺公望が臨時首相に任命され、国武は諭旨免職となり、大蔵省を去った。
   ”総辞職”後12日目のことであった。
    尾崎行雄の回想記によれば、「 伊藤公は辞表を捧呈したのに、君(国武)は一人
   残留し、次の内閣組閣を自分に命ぜられることを明治天皇に上奏したりした。・・・・・
   星君(星亨:逓信相、SF作家星新一の祖父)と衝突以来、少し調子が狂って来て
   氏の前途は暗くなった」 。こうして国武は完全に失脚し、以来大正8年(1919年)に
   亡くなるまで隠遁生活を余儀なくされた。
    生涯独身を通した国武は兄・千秋の3男・千冬を養子とした。千冬は明治41年(1908年)
   衆議院議員となり、国武の死後、子爵の爵位を継ぎ、貴族院議員となり、昭和4年
   (1929年)、浜口内閣に司法相として入閣、史上初の親子2代の大臣となった。

 2.2 五無斎と渡辺国武
     明治元年(1868年)生れと”自称”している五無斎は国武より20歳余り年下で
    五無斎が生れたころ、国武は京都御所の警備に当たっており、長野師範学校を
    卒業したときには、大蔵次官から大蔵大臣になろうとする寸前であった。
     五無斎が国武と出会ったのは、五無斎が神保博士などの知己を得て、東京
    帝国大学地質学教室に出入りするようになった明治28年(1895年)秋ごろだろう
    と推測される。

    
  

    五無斎が、渡辺邸に出入りしたころのエピソートをいくつか、三石勝五郎著の
    「詩伝・保科五無斎」から拾ってみよう。

    『   元の木阿弥
     赤ゲットの五無斎は
     花の都も何のその
     上野駅にて高いびき
     ふるさとの知人に見つかり
     ゆり起されてうそぶいた
      「 渡辺国武たずねたら
        帰りにくれた五十両(円)
        使い果して元の木阿弥」         』

      (注) 五無斎が着用していた赤ゲット(毛布)は、渡辺国武から頂戴したと
         聞くが、2人とも無妻で気があったものらしい。

    『   蓼科学校揮毫
     五無斎がたずねた麻布の子爵邸
     みればはっぴで草鞋(わらじ)ばき
      「 俺を知らぬか大馬鹿め」
     何だと書生が腕まくりゃ
     奥から出たる渡辺国武
     よく来てくれたと座に通す

     五無斎の依頼は額にする
     「蓼科学校」の揮毫である
     忙しいところむりやりに
     書かせた大書の絹本を
     国へ送って旅に立つ

     五無斎亡きあと講堂の
     新築なって額かかぐ
     祝賀の当日友人によって
     彼の遺書は読まれたが
      「 講堂のなき不自由さは
        雪隠のなき家にもひとし 」
     と聞いて一同笑い出す
            』

      (注) 明治40年(1907年)2月20日、五無斎が東京から友人・吉村源太郎氏に宛てた
         書簡中には渡辺国武子爵の揮毫について左(下)の如く記している。
          「 蓼科学校の額面これは蓼科学校の講堂用にお願候 可相成は額面に仕立
           天井裏に倒(さか)さまに御つるし置き被下講堂建築の際御用い可被下候」
          大正11年(1922年)10月16日、蓼科農学校講堂落成す。五無斎の遺言は
         吉村源太郎氏によって読まれ、大喝采を得たが、その封書は故人(五無斎)の
         希望通り落成当日まで同氏の家の床柱に逆さまに吊るされてあった。
          昭和39年(1964年)10月16日、蓼科高校全面改築落成式挙行。体育館が
         式場に当てられ、五無斎が斡旋した渡辺国武子爵揮毫の蓼科学校の大額は
         ここに掲げられたのである。

4. おわりに

 (1) 五無斎を支えた人の一人として、渡辺国武について調べてみた。古本屋で105円で
    買った本を数日間かけて楽しく読みながらこのページをまとめてみた。
     このような調査には、渡辺国武側から見た五無斎像も欲しいのだが、そのような
    記述は発見できなかった。
     今後も、新たな資料探しを心掛けておきたい。

 (2) 五無斎研究の石友・Mさんから、”素朴な疑問”というメールをいただいた。
    「 五無斎が生れたのは、明治元年でなく、慶応4年ではないか?」というものであった。
    言われてみれば、明治と改元されたのは西暦1868年9月である。五無斎は6月8日
    ”日の出”に生れたと”自称”しており、改元前であるから厳密には、慶応4年の生まれ
    ということになるのであろう。
     今まで、何の疑問も抱かなかったことも、調べてみれば、新しい発見があることを
    教えていただいた石友・Mさんに厚く御礼申し上げます。

5. 参考文献

 1)中村 勝実:信州の大臣たち,粥J(いちい),平成8年
 2)三石 勝五郎:百助生誕百年 詩伝・保科五無斎,高麗人参酒造株式会社,昭和42年
 3)佐久教育会編:五無斎 保科百助全集 全,同会,昭和39年
 4)佐久教育会編:五無斎 保科百助評伝,同会,昭和48年
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