『 武石村に、明治30年代、ここの小学校の校長をつとめた、保科百助という
人物がおられた。
信州の奇人ナンバーワンといわれた人で、鉱物学を専門に勉強したわけで
はなかったが熱心な採集家で、大ハンマを肩に、当時人跡稀な長野県の山野
をくまなく歩き回り次々と新しい鉱物を発見して、中央の学会に紹介した。』
2011年の新春早々、私のHPの「掲示板」に、佐久のTTさんから次のような書
き込みがあり、今年が五無斎没後100年の記念すべき年であると知った。
『 1911年(明治44年)6月7日)は保科五無斎がなくなった日です。つまり今年
は五無斎没100年忌
埋もれさせては惜しい人なので、Mineralhuntersさん・・・・・ 』
2010年の年末から風邪をこじらせ、予定していた採集納めもできず、採集初め
も未だの状態で、少し良くなった1月の3連休に古書店をのぞくと、明治30年代の
「信濃毎日新聞」の束が置いてあった。
何枚かめくると、五無斎保科百助述 『通俗 滑稽 信州地質学の話』という記
事が目に飛び込んできた。五無斎がこの記事をを連載したことは、「保科百助全
集」などで知ってはいたが、連載した新聞そのものを手にするとは思ってもいなか
っただけに、心臓が飛び出るほど驚くと同時に、いつもながら”縁(えにし)”
を感じた。
この古新聞の束には、五無斎の筆になる「信州地質學の話」だけでなく、五無
斎の足跡を示す記事を掲載したものもあったので、それらを抜き取って購入した。
『五無斎100年忌』を記念した出版や展示会などが計画されているようだ。私も
できるだけ多くのページで紹介するとともに、五無斎の足跡をたどるミネラル・ウ
オッチングを開催したいと考えている。
( 2011年1月入手 )
両親に百歳まで生きるようにと命名された”百助”だが、1868年6月8日に生まれ
1911年6月7日に亡くなる、まるまる43年の波乱に富んだ生涯だった。
2011年は、五無斎が亡くなってちょうど100年の『100年忌』の記念の年となる。
3.1 五無斎保科百助述 『通俗 滑稽 信州地質学の話』
信濃毎日新聞に連載した「信州地質学のはなし」は、「五無斎 保科百助全集」
に全文が掲載されている。しかし、オリジナルの信濃毎日新聞紙上で読んでみる
と、いくつか新しい事が発見できる。
(1) 五無斎保科百助述
「信州地質学の話」は、五無斎が書いたものをそのまま記事にしたものだろ
うと思っていたが、新聞を読むと保科百助述となっている。
つまり、五無斎が話した内容を記者がまとめて記事にした、ということになる。
口角泡を飛ばし、「岩石」、「鉱物」について熱っぽく語る五無斎の姿が目に
浮かぶようだ。
(2) 「はなし」と「話」
「五無斎全集」には、「はなし」とひらがなで書いてあったような気がする。
それを私のHPでもそのまま引用した。新聞の記事は「話」と漢字になってい
る。
まだ、全部の記事を比較照合していないが、『原文』つまり新聞とそれを後
世に引用して、印刷物となる段階で違いがでてくるのはあり得る話で、『原典』
に当たることの大切さを教えてくれる。
(3) 「信州地質学の話」
今回入手した古新聞に連載された「信州地質の話」のタイトル、掲載日、概
要などを一覧表に示す。
「△△岩」など、岩石・鉱物そのものだけでなく、「復讐心に富む事」など五
無斎の自己分析から「動物学」や「植物学」との関連を述べるなど、五無斎の
関心の幅広さを表している。
発刊日 | タ イ ト ル | 備 考 | 1月11日 | (四)五無斎復讐心に富む事 | 1月18日 | (四)植物学との関係 | 1月19日 | (五)動物学との関係 | 2月5日 | (五)爾餘(じよ)の諸科学との関係 | 2月12日 | (四)印度に伝わり天地創成説 | 3月3日 | (九)水成岩の特性(其三) | 3月17日 | (三)火成岩の特性(其一) | 3月22日 | (二五)深造岩(其二) | 3月27日 | (二八)噴出岩(其二) | 4月9日 | (三二)脉(みゃく)岩(其二) |
3.2 ”五無斎の足跡”を読む
明治36年7月の新聞に、『露香』氏による『浅間山』と題する連載記事がある。
この中に『五無斎』が登場するので、彼の足跡を知る一助として、関連する部
分を抜き書きして紹介する。
露香とは、明治-大正時代の俳人で、本名は束松伊織。出羽(山形県)村山
郡出身。慶応3年生まれなので、五無斎よりも1歳年上。
評伝「俳諧寺一茶」で一茶研究に先鞭(せんべん)をつけた。明治41年一茶の
郷里長野県柏原に中村六郎らと一茶同好会を組織し、「七番日記」「一茶遺墨
鑑」などを刊行した。大正7年1月8日死去。
当時、信濃毎日新聞の記者だった。
『 浅間山(二) 明治36年7月24日
明くれば18日、窓押開き見るに、雲足甚だ面白からず。額に先ず天気
予報の曇の字程の皺(しわ)を寄せて、五無斎氏に電報にて登山の有無
を問合はさむかと思案中、小降りながらも、はらはら雨となりたるに、内助
子、これでは駄目でせうといふ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
此日、蒸し暑きこと限りなけれど、青田を渡りて車窓に吹入る風心地よし。
遠近(おちこち)に、田草取り見ゆ。小諸にて下車、先ず、小諸尋常高等
小学校を訪ふ。保科五無斎君あり。校長佐藤虎太郎氏に紹介をもとめ、
明日出発の時間、人数など聞くに、出発は午前2時、同行申込者は、只今
の處(ところ)70名前後なりといふ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
余と、宮脇氏と、田中氏とは停車場近き松屋に投ず。おもいおもい、明日
の支度をなすめり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 』
『 浅間山(三) 明治36年7月25日
登山の支度は既に可(よ)し。夕餉には未だ早きが如し。同宿の宮脇、
田中の両氏も亦た未だ帰らざるに、一人ぼツちの淋しきまま何とはなしに
再び学校に行けば、五無斎君、既に地質研究の諸氏を引率して千曲河原
へ出で、浅間火山の基底をなせる地質を研究し、且つ川邊村に通ずる戻
橋附近に於て南佐久より流れ来れる鉱物を採集せりとて其石を教員室に
広げて一々(いちいち)其種類を分ち学名を附せる處(ところ)なり。
其中(そのうち)、第3紀植物化石則(すなわ)ち、木の葉、松笠等、次に
第3紀凝灰岩、同凝灰蠻(ばん)岩、古生代粘板岩、粘板岩、ラチオラリア
硅岩、古生代蠻(ばん)岩、中生代砂岩、花崗岩、輝緑岩、閃緑岩、輝閃
富士岩、輝石富士岩、硅石、角石、石英斑岩、流紋岩、蛇紋岩等23種、
百余点なるが僅々(きんきん)1、2時間にして此有益なる標本を得たる
(五無斎)氏の得意想ふべき也。
されど、門外漢の我們(われら)が目より見れば、犬の河端歩き同様、
何の得る處(ところ)なけれど、只だ、其中、緑石に紫黒の斑点ありて蛙の
形したるが盆石にしてもをかしかるべしと思う位なるも耻(はずか)し。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 』
明治36年は、五無斎が亡くなるまで8年。明治34年に校長の職を辞して、
5月〜11月第1回県下漫遊・鉱物採集の旅を挙行、300種、3万余塊を採集し
た。これによって、五無斎の名が県下に轟いた。
明治36年の信毎紙上に「通俗滑稽 信州地質学の話」を連載することで、
鉱物学そして教育者の泰斗としての地位を不動のものにした感があり、彼の
人生の絶頂期の幕開きだったろう。
これに関する、出版界や博物館の展示などの動きを知りうる範囲でまとめてみた。
区分 | イ ベ ン ト | 出版社、博物館 | 出版界 | 佐久教育会編 「五無斎 保科百助全集」 復刻 | 新日本書籍 | 佐久教育会編 「五無斎 保科百助評伝」 復刻 | 新日本書籍 | 博物館 | 秋の企画展展 没後100周年記念 「保科五無斎」(仮) | 戸隠地質化石博物館 |
五無斎と縁の深い、信濃教育会や長野県立図書館そして五無斎の地元蓼科町
などが何か企画してくれるだろと期待して待っている。
『 信州の「稀人」の『100年忌』を知らせていただきありがとうございます。
2003/2/27 ・五無斎 保科百助と信州の鉱物
”まれ人”とは彼の事。私も信奉者の一人です、管理人さんはホームページ
で過去に幾度かその足跡を記されています。
2003/2/28 ・五無斎 保科百助 長野県地学標本採集旅行記(その1)
<4月5日〜7月30日>
2003/3/2 ・五無斎 保科百助 長野県地学標本採集旅行記(その2)
<8月6日〜9月18日>
2004/8/14 ・五無斎 保科百助の残した「九曜星」紋の跡を訪ねて
2004/8/16 ・長野県上田市越戸の「玄能石」
2004/12/17 ・五無斎ゆかりの鉱物 - 長野県上田市の「違い石」-
2005/9/25 ・五無斎と長野県川上村川端下の柱石
2005/3/28 ・黒頭巾に告ぐ(保科五無斎遺稿)
2005/2/25 ・奇人百種 第一等 保科五無斎
2006/2/1 ・保科五無斎と渡辺国武
2006/1/26 ・三石勝五郎著 『百助生誕百年 詩伝・保科五無斎』-3-
2006/1/26 ・三石勝五郎著 『百助生誕百年 詩伝・保科五無斎』-2-
2006/1/26 ・三石勝五郎著 『百助生誕百年 詩伝・保科五無斎』-1-
2006/1/23 ・保科五無斎と川端下産 『鎌形水晶』
2007/2/28 ・五無斎の蔵書の行方 』
HPの掲示板を通じて、佐久のTTさんやzeoliteさんはじめ、五無斎を愛す
る人々が、長野県のみならず全国にいることを知った。
私もその一人だが、五無斎の遺した著作物や標本そして彼を知る人々が
書き残したものを通じてしか五無斎の息吹を感じることができないのが、
悔しい。
これからも、「五無斎」の足跡をできるだけ紹介できるように、古書店
巡りを続けるつもりだ。
(2) さしあたって、五無斎の足跡をたどるミネラル・ウオッチングを開催したいと考え
ている。