異聞・奇譚 ”五無斎” − ソネ論争 −









             異聞・奇譚 ” 五無斎 ”
              − ソネ論争 −

1. はじめに

    ♪♪ 暦の上では、ディッセンバー ♪♪ 、「あまちゃん」が終わって2ケ月が経ち、
   後続番組の「ごちそうさん」とBSで再放送中の「ちりとてちん」を毎朝見て、「あまロス症
   候群」も癒された感じだ。
    本格的な冬の訪れとともに、ミネラル・ウオッチングはストーブリーグに入った。この時
   期の楽しみの1つは、古書店、骨董市、そして博物館を巡ることだ。

    2013年11月初め、野暮用で長野県岡谷市を訪ねた。行きしな、諏訪大社上社本宮前
   を通ると、「諏訪市博物館」が目に入った。某所での用件が済み、帰りに立ち寄ってみた。
    何の予備知識もなしに入ってみて、諏訪市博物館は、”御柱祭”や”御神渡り(おみ
   わたり)”など、諏訪地方の歴史・民俗そして自然などを展示・紹介していることを初めて
   知った。

    2階の常設展示室2には、諏訪に生まれた在野の考古学者・藤森栄一を記念したコー
   ナーがあり、日記(フィールドノート)や『諏訪湖底曽根(ソネあるいはソ子)遺跡出土の
   鏃(やじり)』などの採集品が展示してある。
    これらとは別に、『増澤寅之助旧蔵 曽根(ソネ)遺跡標本』が展示してある。これが、
   五無斎ゆかりの標本だと後で知った。

     
                  『増澤寅之助旧蔵 曽根(ソネ)遺跡標本』
                    【「化石矢ノ根 スワ湖ソネ」とある】

    ソネで思い出すのは、”ソネ論争”だ。明治41年(1908年)10月24日、橋本福松が諏訪
   湖底より石鏃を採集した。明治42年5月18日、東京帝大・坪井正五郎が諏訪湖を訪れ、
   湖上よりソネを調査し、杭上住居説(水上生活説)を唱えた。
    6月2日、保科五無斎はソネを調査し、地質学的見解より坪井説に反論。
    7月6日、東京帝大・神保小虎、田中阿歌麿がソネ調査。坪井説に反論し、土地陥没説
   を唱える。
    ”ソネ論争”が始まった。
    この年、坪井や銅駝坊陳列館の野中完一、俳人・小平雪人そして人類学者・鳥井龍蔵
   などが相次いでソネ遺跡を調査した。
    明治44年(1911年)、坪井は欧米に派遣され、翌々年(1913年)、ロシア・サンクトペテ
   ルブルクにて客死する。(保科五無斎は、明治44年(1911年)6月7日に亡くなっている)
    主役が舞台から去り、”ソネ論争”に幕が下ろされた。

    戦後、藤森 栄一らによってソネ遺跡の調査が進められ、水上住居説は取りざたされ
   なくなったが、水没の原因は特定されていない。地球規模の気候変動による降水量の
   増大で水没した可能性が高いものの、ソネ遺跡の地盤変動の可能性も否定できない。
    保科五無斎が亡くなって100年余りが経った今も、”ソネ論争”の結末は見えないが
   五無斎が残したソネ遺跡の採集品は、諏訪市博物館蔵標本として展示されている。
   ( 2013年11月 見学 )

2. 「諏訪市博物館」

 2.1 場所と利用案内
      諏訪市博物館は、中央道諏訪IC近く、諏訪大社上社本宮前にある。平成2年(199
     0年)にできた比較的新しい博物館だ。
      建物の手前左には、温泉の街でもある諏訪にふさわしい”足湯”(無料)がある。

         
                    位置                              外観
                                「諏訪市博物館」

       ・開館時間   :9時〜17時
       ・休館日     :月曜日、祝日の翌日
       ・入館料     :一般      300円
                 小・中学生  150円
       ・足湯利用時間: 9時〜16時(4〜10月)
                  10時〜15時(11〜3月)

 2.2 展示内容
           諏訪市博物館は、7年ごとの社殿建替え共に行われる”御柱祭”や冬の諏訪湖に
     生じる神秘的な氷の盛り上がり”御神渡り(おみわたり)”、そして「信玄の石棺」をは
     じめとする諏訪の伝説など、諏訪地方の歴史・民俗そして自然などを展示・紹介して
     いる。

  【1階】

   (1) 特別展示室
        世界のチョウ標本2,000頭、長野県天然記念物のチョウなどを展示している。

         
                 特別展示室【世界のチョウ】

   (2) 企画展示室
        館独自の企画や市民参加の展示など、さまざまなテーマ展示のためのスペース
       がある。
        私が訪れた時は、諏訪市出身の岩波書店創立者・岩波茂雄(1881年〜1946年)
       の足跡をたどる展示が開催中だった。
        なお、諏訪IC近くにある「諏訪市立 信州風樹文庫」は岩波書店や三省堂そして
       篤志家から寄贈された本を4万冊余を収蔵する図書館で、岩波茂雄記念室を併設
       している。

  【2階】

   (1) 常設展示室1(歴史)
        自然信仰から発生し、中世に戦の神として信仰を集め、以来幅広く支持された
       諏訪信仰の歴史を、原始〜古代〜中世〜近世の時代順に紹介している。
        中央ステージでは、映像を交えて御柱祭の概要や世界の柱祭りを紹介している。

            
                   展示レイアウト                         御柱祭

        諏訪大社は上社に男神・タケミナカタノカミ、下社に女神・ヤサカトメノカミを祀る
       古い神社で、もともとは巨石や巨木信仰など、自然信仰から発している、とされる。
        御柱祭は、おそくとも平安時代頃から、寅(とら)、申(さる)年の7年目ごとに社
       殿建替えと共に行なわれてきた。山中より巨木を伐採してきて、神社の周囲に
       4本ずつ立て、諏訪信仰圏の時間と秩序を更新するための祭り、とされるが、謎も
       多いようだ。
        伊勢神宮では「式年遷宮」として、20年ごとに社殿を建て替えるのと同じ思想に
       もとずいているのだろう。

        ここで興味をひかれたのは、「鹿食免(かじきめん)、鹿食箸(かじきばし)」だ。
       鎌倉幕府以来、肉食は禁じられていたが、鹿がなくては神事ができないというこ
       とで、「鹿食免」や「鹿食箸」を持っていいれば、鹿肉を食べても良いとされた。
        諏方(すわ)は、戦前の天皇がそうであったように現人神(あらひとがみ:生き
       神様)で、神事を実際に執り仕切っていたのは五官祝(ごかんのおほうり)と呼ば
       れる5つの氏族だった。
        写真の「鹿食免」は、権祝矢島(ごんのほうりやじま)氏が発行したものだ。

          「鹿食免」

        江戸時代には、江戸幕府や諸大名に贈答として贈られようだ。一種の『免罪符』
       のようなものだったのだろう。

   (2) 常設展示室2(民俗)
        常設展示室2は、「民俗」とうたっているが、展示内容は幅広い。「御神渡り」に
       代表されるように、自然と共に暮らし、自然の中に神を実感しながら生きてきた
       諏訪の人々の暮らしを「湖」、「里」、「山」、そして「人」に分けて、諏訪の七不思
       議や伝説と、諏訪特有の民具・漁具を通じて語りかける。

         
                   常設展示室2レイアウト

        中央の「人」のコーナーには、考古学者・藤森 栄一が諏訪の風土の中でひた
       すら生きた姿を日記や諏訪湖底曽根(ソネ)遺跡出土の黒曜石の鏃(やじり)など
       の採集品とともに紹介している。

         ・ 『増澤寅之助旧蔵 曽根(ソネ)遺跡標本』
            これらとは別に、『増澤寅之助旧蔵 曽根(ソネ)遺跡標本』が展示してあ
           る。下諏訪町出身の実業家・増澤氏(1876年〜1950年)が収集・所蔵して
           いたもので、冒頭の写真のものを含めて全部で9個の標本箱だ。
            標本は、曽根(ソネ)遺跡が発見された明治末年から大正10年頃までに
           作られ、大正13年刊行の「諏訪史」第一巻の挿絵にも使われた。
            内訳は、石鏃 396点、土器 2点、その他石器類 21点、合計 419点。
           標本箱の大きさは、横21cm(7寸)×縦15cm(5寸)×高さ2cm(7分)。標本
           類は台紙に丁寧に糸で括(くく)りつけられている。

            左の列の一番上と一番下の標本箱の枠取りに括りつけられている黄褐
           色の木の根のようなものは、水辺に生える葦(あし)などの根っこが褐鉄鉱
           で置き換わった”高師小僧”だ。

         
                        『増澤寅之助旧蔵 曽根(ソネ)遺跡標本』

            明治末から昭和初期にかけて大量に採集された曽根(ソネ)遺跡の資料
           のほとんどが散逸し、行方不明になっているなか、この増澤標本は家族の
           手でそのまま、受け継がれてきた貴重なものだ。

         ・ 岩石・鉱物
            諏訪市を代表する岩石は、現在でも採掘が続いている、建築用材の「鉄
           平石」と土壌改良材原料の「黒曜石」だ。
            鉱物は、和田峠の「満ばん柘榴石」と諏訪鉄山の「褐鉄鉱」だ。

          黒曜石

                     岩石

             
                満ばん柘榴石                     褐鉄鉱

                                 鉱物

         ・ 藤森栄一コーナー
            藤森 栄一(1911年〜1973年)は、諏訪出身で、家業を継ぐ宿命にあった。
            藤森の父は、本屋を経営していた。そこには、小澤孝太郎(号を半堂)が
           ソネ遺跡で採集し、ボール紙に並べて縛り付けた石鏃などを土産物として
           売っていた。
            半堂は、ソネの不思議にはまってしまい、狂ったように遺物採集に熱中し、
           挙句(あげく)家業の印版屋どころか家族をも省みることがなくなり、酒に
           溺(おぼ)れ、あっけなくも壮絶と言うか、大正2年(1908年)悲しい最期を
           迎えた人らしい。

            藤森はソネ遺跡の石器について、「こんなに美しい色と線をもった標本は、
           なかなか見られるものではない」、と述べているように、その美しさに惹か
           れ、考古学のとりこになった。

            考古学を学びたかったが、諏訪中学を卒業すると家業を継ぐことになり、
           悶々とした日々を送っていた。
            昭和4年(1929年)、考古学を愛好する秩父宮殿下がこの地を訪れ、10日
           間にわたる考古調査が行われ、最後の日にソネ遺跡調査が予定されてい
           た。
            歳の同じ藤森少年に殿下の御供をするようにと両角守一氏が声をかけて
           くれたが、「余りに違う境遇に嫉妬の念を抱き、気乗りしたわけではない」、
           と書き残している。最後の日、船でのソネ遺跡調査は突然の嵐で、殿下が
           遭難するのではと危ぶまれるアクシデントがあり、「そういった思いを打ち
           消すとともに考古学への灯火を再び燃やすきっかけになった」、と書いてい
           る。

            終戦を迎え、戦地から身も心もボロボロになって帰ってきた藤森は、当時
           の多くの日本人がそうであったように、生きることで精いっぱいで考古学ど
           ころではなかった。
            昭和22年、地元の中学生(今の高校生)が漁師・長谷川茂美の協力で
           ソネ遺跡を調査し、「清陵考古学」で報告した内容は藤森にも大きな刺激を
           与えた。

            藤森は諏訪考古学研究所を主宰し、昭和27年から34年まで、ソネ遺跡を
           6回調査し、1,600点余りの石鏃を採集し、氷上測量で詳細なソネ遺跡の
           地形複元も行われた。
            これらの調査結果から、ソネ遺跡は縄文時代草創期に属する遺跡である
           ことも明確にされた。

            藤森は、挫折を覚えながらも、それをバネとして、生涯を”甘茶”として在野
           に生き、これだけ長くやっていれば単なる”甘茶”でない、と自信を持って
           最高レベルの研究成果を目標に実践し、それを貫き通した。

          
                       藤森栄一コーナー

         ・ 「片倉館所蔵考古資料」
            明治6年(1873年)に岡谷で製糸業を興した片倉組の二代目で後に”シル
           ク・エンペラー”と称された片倉 兼太郎は大正末期にヨーロッパ、北米を
           視察した。
            そこで地域住民のための福祉施設が充実していることに感銘を受け、
           地元の諏訪地方にもそのような施設を作りたいと考え、片倉同族の有志
           より基金80万円(現在の数十億円)を集め、温泉大浴場(千人風呂)やサ
           ウナなどを備えた文化福祉施設を建設した。
            昭和3年(1928年)10月に『片倉館』が諏訪湖畔に完成し、ほぼそのまま
           の姿で現在に至っている。

            
                              片倉館

            ここに収蔵されていた考古学資料が、現在は諏訪市博物館に寄託されて
           いる。

3. 曽根(ソネ)遺跡と『ソネ論争』

 3.1 曽根(ソネ)遺跡
      曽根(ソネ)遺跡は、諏訪市大和区の諏訪湖岸より約300m沖合の湖底に沈む、
     旧石器時代から縄文時代草創期(約一万年前)にかけて営まれた水中遺跡だ。

       
             『曽根(ソネ)遺跡』の位置

      諏訪教育会諏訪部会(現諏訪教育会)は、1907年(明治40年)より諏訪湖の調査
     を湖沼学の大家・田中 阿歌麿に現地調査を委嘱した。現地調査は高島小学校の
     教師・平沢(後に橋本) 福松が行った。
      橋本は諏訪湖の深さを測量する調査中、現諏訪市大和の沖合に地盤の堅い高ま
     り”曽根”を確認した。
      明治41年(1908年)10月24日、橋本は漁師と共にシジミジョレンで湖底の土を掻き
     あげた上げたところ2個の石鏃を発見した。これが、『曽根(ソネ)遺跡』の発見だ。
      曽根(ソネ)遺跡の石鏃は、”返し”の部分が長い、”長脚鏃”と呼ぶ、珍しい形の
     ものが多く、使われている石材も透明から黒い黒曜石、灰色から赤色のチャートと
     カラフルなのが特徴だった。

       
               『曽根(ソネ)遺跡』発見の
              きっかけになった2個の石鏃

      湖底から石鏃発見の報は、田中を経て東京理科大学(現東大)の人類学、考古学
     者・坪井正五郎に伝えられた。
      日本国内にも湖底遺跡があったことを知った坪井は、翌42年(1909年)5月18日に
     諏訪湖を訪れ、自ら湖上から遺物採取を行い、3時間で114個もの石鏃、土器片そし
     て動物の骨片を採集した。
      この調査の結果、”曽根”は、日本で最初に発見された水中遺跡『曽根(ソネ)遺跡』
     として知られるようになった。
      また、当時のマス・メディアの新聞が大きく取り上げたこともあって、またたく間に
     大勢の注目を浴びるようになり、学者だけでなく地元の名士や好事家がこぞって調
     査に参加した。

      明治41年(1908年)の『曽根(ソネ)遺跡』発見の少し前から、発見100周年の平成
     20年(2008年)までの出来事を年表にしてみた。

 年号 西 暦  月 日       イ    ベ    ン    ト  備 考
明治39年 1908年 10月24日 ・橋本福松、諏訪湖底の地形測量はじめる
(田中阿歌麿の助手)
 
明治41年 1908年 10月24日 ・橋本福松、諏訪湖底より石鏃発見、(『断層地変説』 ソネ遺跡発見
明治42年 1909年 5月18日 ・坪井正五郎、調査、『杭上住居説(水上生活説)』 第1次調査
6月 2日 保科五無斎、調査(小澤半堂案内)、
坪井説に反論、
『島嶼(とうしょ)地すべり説』
第2次調査
7月 6日 ・神保小虎・田中阿歌麿、調査、『土地陥没説』 第3次調査
”ソネ論争”勃発
7月22日 ・坪井正五郎、再調査、自説固持 第4次調査
9月16日 ・野中完一・俳人の小平雪人、調査 第5次調査
12月31日 ・鳥居龍蔵、調査 第6次調査
明治43年 1910年   ・鳥居龍蔵、『杭上住居説(水上生活説)』に否定的
・坪井、ソネ遺跡について精力的に報告
・坪井、野尻湖調査
 
明治44年 1911年   ・坪井、欧米に派遣される
 
6月 7日 保科五無斎、死亡  
大正2年 1913年   ・坪井、ロシア・サンクトペテルブルクで客死
・ 小澤半堂死亡
”ソネ論争”に幕
大正7年 1918年   ・田中阿歌麿、「諏訪湖の研究」上梓、『地すべり説』  
大正9年 1920年 8月29日 ・鳥居龍蔵、「諏訪史」編纂のため調査
(八幡一郎ら同行)
第7次調査
 遺物は少量しか
採集できず
大正13年 1924年   ・鳥居龍蔵、「諏訪史」第一巻上梓、『筏上住居説』
石鏃の図版は、
下諏訪小蔵品と
増澤標本のみ
昭和4年 1929年 7月24日 ・伏見宮博英殿下調査
(両角守一、小平雪人、藤森栄一ら同行)
第8次調査
昭和17年1942年 8月19日 ・日銀副総裁 渋沢敬三調査
(今井登志喜、宮坂英弌同行)
第9次調査
9月17日 ・宮沢光次、長谷川茂美地形測量 第10次調査
昭和22年 1947年 8月 ・戸沢充則ら中学生、調査 第11次調査
昭和26年 1951年   ・藤森栄一、調査開始(〜昭和34年) 第12次調査
昭和30年 1955年   ・藤森ら、氷上より地形測量  
昭和33年 1958年   ・岐阜県椛ノ湖遺跡で爪形文土器と長脚鏃が発見される
・山内により、「縄文草創期」の区分が設けられ、
爪形文土器はこの時期に属することを明らかにした。
 
昭和35年 1960年   ・藤森、調査結果報告  
昭和40年 1965年   ・藤森、『諏訪湖水位変動説』  
昭和43年 1968年   ・藤森、開発から遺跡を守る運動  
昭和47年 1972年   ・ソネ遺跡、諏訪市史跡に指定
(現在は長野県の重要遺跡にも指定)
 
昭和53年 1978年 5月 ・立正大学生ら、潜水調査 第13次調査
平成20年 2008年   ・曽根遺跡発見100周年  

 3.2 ”曽根(ソネ)論争”
      諏訪湖底で発見されたソネ遺跡について、最大の謎は、なぜ湖底に石器時代の
     遺跡があるかという事実だった。

      ソネ遺跡発見者の橋本は、最初の遺跡発見報告(東京人類学会雑誌)の中で、
     「ソネ遺跡はもともと陸地にあり、地殻変動で水没した」、という地質学的な考え方を
     示していた。
      これに対して、坪井は「外国の遺跡に例のある水上生活によるもの」との予断を
     持ち、これを確認するため明治42年、諏訪湖を訪れ調査した。
      一方、鉱物学者・神保、湖沼学者・田中、そして元教師・保科五無斎らは、実際に
     ソネ遺跡や遺跡周辺を調査するなかで、地質学上の何らかの理由で水没した、との
     考えを示した。

      こうした見解の違いが新聞記事をきっかけに明らかになり、さらに学術誌上の論文
     として争われることになった。これを、考古学史では、”曽根(ソネ)論争”、と呼ぶ。

      代表的な水没説を下の図に比較して示す。

       
                    『曽根(ソネ)遺跡』水没の原因

      石器時代の遺物が諏訪湖底から見つかったという事実は共通しているが、人類学・
     考古学者の坪井は、今と同じ諏訪湖の風景のまま生活が行われたということを半ば
     結論として、これを裏付けるための証拠集めに臨むという方法で取り組み、一方の
     神保らの鉱物・地質学者は、地形は不変ではなく、常に変化することを前提として論
     拠を集めるなど、それぞれの専門分野の研究方法に忠実な立場をとっていたため、
     こうした学術論争に発展した。

      さて、その後の研究を踏まえ、藤森は、『諏訪湖水位変動説』を発表した。

       
                    『諏訪湖水位変動説』

      曽根(ソネ)遺跡は、2万年近く前の旧跡時代には陸地として存在し、縄文草創期
     でも陸地であったものが、約5,000年前の縄文時代前期以降、気候変動に伴う降水
     量の増加によって水没した可能性が高い、ということらしい。
      現在では、地球規模の気候変動を考慮し、降水量の変化やこれによって引き起こ
     される地形変化、さらには地質学的データを総合して、諏訪湖の水位変化を仮説とし
     て導き出し、曽根(ソネ)水没のメカニズムを明らかにする研究がすすめられている。
      ただ、曽根遺跡の地盤変化が可能性も否定できず、やはり遺跡自体からデータを
     取得する科学的な研究が行われなければ、曽根遺跡水没過程は明らかにしえない
     というのが、現在の研究における限界だ。

4. 五無斎と曽根(ソネ)

 4.1 明治42年の五無斎

      坪井によって第1次の曽根(ソネ)遺跡調査が行われた明治42年は五無斎にとって
     どんな年だったのだろうか。

      明治44年に亡くなった五無斎にとって、死の2年前で最晩年ということになる。前年
     (明治41年)の暮れから眼病を患い、年が明けて明治42年は数え年43歳になった
     五無斎の厄年だった。
      眼病は黒内障(今の眼底出血?)と診断され、片目は太陽光さえも見えず、一時は
     失明のおそれすらあった。
      両親とも中風、卒中で亡くなっている上、日頃大酒を飲むので、いつ何時生命を失
     うかも知れず、辞世の歌など作って万が一に備えたのもこのころだ。

      辞世の歌

      ○ 我死なば共同墓地へすぐ埋めろ
        やいてなりとも生までなりとも

      ○ 遊(ゆ)つ久(く)りと娑婆に暮して偖(さて)おいで
       わしは1ト足チョイトお先へ

      以前は、『我死なば佐久の山部へ送るべし』、と言っていた山部も五無斎にとっての
     故郷(ふるさと)でなくなっていたのだろう。

      命の終わりを感じていたかもしれない五無斎は、鉱物人生の総決算として、120種
     の岩石・鉱物・石器からなる「信州産岩石鉱物標本」を600組作製し全国に頒布する
     ことを決意した。
      120×600 = 72,000塊もの標本を長野県下各地から収集すべく、最後の採集旅行
     に出発したのは、明治42年4月4日(日曜日)だった。
      このときの旅行記は、「長野県地学標本採集旅行記」、として、「信濃公論」連載さ
     れた。その内容については、次のページに紹介してある。

     ・ 五無斎 保科百助 長野県地学標本採集旅行記(その1)
               <4月5日〜7月30日>
      ( GOMUSAI Hyakusuke Hoshina's Mineral Hunting Tour in Nagano Pref. -Part 1-
  From Apr. 4 to Jul. 30 , Nagano Pref.)

     ・ 五無斎 保科百助 長野県地学標本採集旅行記(その2)
               <8月6日〜9月18日>
      ( GOMUSAI Hyakusuke Hoshina's Mineral Hunting Tour in Nagano Pref. -Part 2-
  From Aug. 6 to Sep. 18 , Nagano Pref.)

      旅行記から、『曽根(ソネまたはソ子)』にかかわる部分を抜粋してみる。

      6月2日   貧半堂・小沢幸太郎君同道で漁舟を雇い、ソ子(そね)で石器時代の
             遺物を採集。
             『・・・・高師小僧と其成因を同ふするかとの疑ある鉱物を採集せり。
              石族の最も完全なもの4、土器の破片2と奇妙なる鉱物は之(これ)を
              東京帝国大学地質学教室の神保理労(学?)博士に致したり。
              都(す)べて大学などへ標本を送るは最優等なるものを
              差し出すべきなり。』

      5月18日の坪井の第1次調査から、当時の情報伝達のスピードからみて、”間髪を
     入れず”、五無斎は曽根(ソネ)遺跡で遺物採集を行った。(第2次調査)
      この日、採集に同行したのは、半堂こと小澤孝太郎だった。”貧半堂”、と書き残し
     ているところから、この頃すでに半堂の生活は困窮していたようだ。

      「増澤標本」にある奇妙な鉱物(『高師小僧』)を五無斎も採集していた。

      このとき採集した標本の内から良品を選んで、石族、土器の破片、そして奇妙な
     鉱物(『高師小僧』)を神保博士に送った。

      6月7日    ・・・・・・・この後、上諏訪に行き、・・・・・・・
              『 橋本福松氏来訪、神保博士よりの伝言あり。
                (1) 奇妙なる鉱物は何だか分からぬこと。
                (2) 今月(6月)末頃には、諏訪湖研究のため出張する筈なり。
                   其の時、何処に居るか。                     』

              これらに対して、五無斎は次のように回答(言い訳)した。
                (1) 何とも致し方なし。
                (2) 再び、諏訪にあらん。

      上諏訪で曽根(ソネ)遺跡発見者の橋本福松と会い、神保博士に送った標本等に
     ついての伝言を聞いた。
      ・ 神保は、奇妙な鉱物(『高師小僧』)は何かわからない、と言っているが、「高師
       小僧」は、1895年(明治28年)、小藤文次郎によって地質学雑誌に報告されてい
       る。
      ・ 神保も曽根(ソネ)遺跡に興味を持ったらしく、この月末に訪れることにし、言外
       に案内するように、と”謎を掛け”ている。
        もちろん五無斎は案内するつもりで、「諏訪にいる」、と答えている。

              『 尚(な)ほ橋本氏は、坪井博士の驚きを報ず。
                曰く、五無斎という奴は飛んだ奴なり。600の石鏃採集されて
               溜まるものか。寧(むしろ)ろ買い上げてやろうか。夫(それ)とも
               警察署へ”ソ子”保護願いを出そうかと。                』

              またまた、五無斎は弁明に努める。

              『 五無斎がソ子の石鏃600を採集する所以のものは、敢(あ)えて
               私利私欲を営むに非ず。
                長野県地学標本を採集するに当って、折節(おりふし)湖中生活の
               遺跡が発見せらるたりなり。
                よって記念として今回の標本中に入れんとはしたるなり。
                ・・・・長野県の教育を思うの情切なるものあればなり。・・・・・・』

      第1次調査を行った坪井博士が、「五無斎が曽根(ソネ)遺跡の石鏃を600個集め
     ようとしている」、と知って立腹した。考古学の門外漢・五無斎が多量の石鏃を集める
     のは、坪井にとって、単に”遺跡を荒らす”、だけとしか映らなかったようだ。

      五無斎は、この月に一般に知られた曽根(ソネ)遺跡の石鏃を何としても「長野県
     地学標本」に加えようと”思いつき”、600個という数字になったのだ。
      他の産地でもそうだが、五無斎は標本の採集を地元の人に依頼する事が度々
     あった。曽根(ソネ)遺跡の石鏃も誰かに頼んだのだろう。
      頼まれたのは、生活に困窮していた半堂こと小澤孝太郎ではないのか。・・・・

      6月19日   信濃教育会に出席。長野県地学標本箱陳列。ソネの演説する。

      曽根(ソネ)遺跡で行った6月2日の第2次調査で採集した石族などの標本を前に
     曽根(ソネ)遺跡の成因、採集した石鏃の黒曜石や赤色チャートの産地について
     ”デカク”ぶったのではないだろうか。

      6月20日   信濃教育会に出席。教育会の来賓ほかを既に到着した標本数十駄
              に案内。
              針塚視学官を訪い、ソネ産石鏃1個献納。大枚のお金頂戴。

      五無斎の採集旅行は、「長野県地学標本」の注文取りを兼ねていた。長野教育会
     参加者で注文した人々には”着々と標本採集が進んでいる”ことを示し、未だ購入を
     決めかねている人々には購入を促す必要があり、採集地から”運賃着払い”で送った
     標本の山を見せたのだろう。

      視学官に標本を贈るなど、以前の五無斎だったら考えられない行動をとらせたのも
     ”。っていた○”のためだったのだろうか。

      6月23日   県庁に行く。橋本君来訪。堀井(坪井?)博士の依頼伝えられる。
              ソネ産石鏃600の標本をお貸し申し上げる。

      この日、曽根(ソネ)遺跡発見者の橋本福松と再び会い、坪井博士の伝言を聞いた。
     この日までに、五無斎は石鏃600個を入手しており、これを知った坪井は600個の
     標本の魅力に負け、”五無斎という奴は飛んだ奴なり”、と言った口も乾かぬうちに
     借用を申し込み、貸してもらえることになった。
     ( 坪井の調査で採集したのは226個で、その3倍の量の標本は魅力だろう )

      6月25日   神保、坪井両博士と湖沼学の泰斗・田中子爵をソネに案内する予定
              だったが、連日の梅雨で諏訪湖が氾濫の恐れあり、日延べの電報打
              つ。

      やはり、神保博士を案内する積りだったのだ。

      6月26日   急に上京を思い立ち一番列車で発つ。・・・・・・・・・
              ・・・・・・・明朝、神保博士訪問予約。
      6月27日   朝、神保博士訪問。今回採集した標本の肉眼ならびに顕微鏡での
              鑑定をしてもらうためなり。快く承諾される。・・・・・・・・・
              田中子爵来訪、ソネ談義に移り、所見を述べる。
              既にして、○○○を頂戴す。午後、博士宅を辞し、藤森塾を訪問する。

      急に上京し、神保を訪ね、田中阿歌麿とも会い、曽根(ソネ)遺跡の成因、産出した
     石鏃石材の原産地などを述べたようだ。
      当然のように、五無斎の大好きな○○○を頂戴し、五無斎の「保科塾」で数学を
     教えていた、天才的数学教育者・藤森良蔵をたずねている。

      7月6日    青具小に立ち寄り、岩石鉱物鑑定をする。
              大黒山の黄銅鉱を見る。・・・・・・・・・・・・

      この日、神保と田中阿歌麿が曽根(ソネ)遺跡を調査(第3次調査)。当然、五無斎
     が案内するものと思っていたが、諏訪湖を遠く離れた大黒岳鉱山を訪れている。
      なぜか? 神保との間に何があったのか?

 4.2 五無斎採集・曽根石鏃600個の行方

      「長野県鉱物標本採集旅行記」を読むと、次のような事が明らかになる。

      ・ 五無斎は、6月2日に、小澤孝太郎(半堂)に案内してもらった曽根(ソネ)遺跡の
       石鏃を「長野県地学標本」に組み入れたいと思い、600個収集を決意。
      ・ 600個は短期間に集まり、6月23日には、坪井に貸すのを了解している。

      そうなると、次のような疑問が湧く。

      ・ 誰が600個もの石鏃を短期間に集めたのか

      半堂が坪井に宛てた書簡に、「石鏃600個採取は中々面白く存候」、とある。

      6月2日、五無斎が半堂に「オレは地学標本採集の旅の途中、代わりに600個の
     石鏃を採集して欲しい」、と持ち掛け、半堂は迷うことなく引き受けた。
      坪井はこの手紙で、五無斎が600個もの石鏃を集めようとしていることを知り、
     『五無斎という奴は飛んだ奴なり。・・・・・警察署へ・・・・』、と怒ったのだった。

      こうして、半堂の諏訪湖通いが始まった。ついに、6月3日から12日間かけて、6月
     中旬には、600個の採集を達成してしまう。憑(つ)かれたように諏訪湖に通う半堂の
     姿は、町の人々の眼には奇異に映った。
      藤森 栄一が考古学に進むのを父親が反対したのは、「息子が半堂のようになった
     ら大変だ」、と思っても無理のない事かもしれない。

      ・ 五無斎採集・600個の石鏃の行方

      正しくは、五無斎が依頼して、半堂が採集した600個だが、どこに行ったのだろうか。

      坪井に貸すことになっていた600個の石族は、7月に調査に来た神保博士に渡り、
     「程なく坪井先生に届けられて」、という記録もある。
      坪井の研究が終わった後、「橋本君にお返ししますから」の言葉通り、橋本福松を
     経由して五無斎の手に戻ったに相違ない。

      一番考えやすいのは、600組の「長野県地学標本」として、頒布(販売)された、だ。
     標本が完成したのが明治43年で、翌年には五無斎が病に倒れ、亡くなっている。
      地学標本の売れ行きだが、結論として、ほとんど売れなかったようだ。600個近く
     の売れ残った石鏃はどうなったのだろうか。
      五無斎の葬儀の時、「遺産や資料をどのように扱うか、という話し合いが持たれた」
     という資料がある。その中に、『採集した岩石標本返却の件』があり、「採集地に
     返却する」、との結論に達したという。

      曽根(ソネ)遺跡の大量の石鏃は採集地・諏訪に戻ってきた可能性が非常に高い。

      昭和16年、矢崎源蔵という諏訪では有名な郷土史家が『信州文壇』、という雑誌に
     「 増澤寅之助さんの資料(ソネ遺跡標本)は、坪井先生調査時の資料である 」、と
     書いている。どういうことだろう。

      坪井が報告した曽根(ソネ)遺跡の石鏃は総数726個だ。現在、東大に残されてい
     るのは226個だ。差し引き、500個が消えてしまったか、もともと坪井のものでなかっ
     たかだ。
      坪井が報告した726個のうち、500個が五無斎から借りたものだった、というのが
     一番考えやすいだろう。

      そうなると、坪井の報告書にある石器と同じものが増澤標本の中にあれば、五無
     斎標本が増澤標本だ、と言うことになる。

      曽根(ソネ)遺跡では、”有茎尖頭器”の産出は非常に少なく、その内の一点の
     図が坪井の報告書に残されている。

       
                     ”有茎尖頭器”

      これと、増澤標本の右列、上から3番目の箱の中央部にある”尖頭器”がソックリな
     ことに気づくだろう。

      五無斎の死後、諏訪に戻った五無斎が集めた曽根(ソネ)遺跡の石鏃の大半が
     地元の実業家・増澤寅之助氏の手に渡り、大切に守り伝えられ、諏訪市博物館に
     収蔵・展示されている。

      増澤氏が、五無斎が集めたものだと知って手に入れたのか、単に地元産だからな
     のか今となっては聞き出しようもない。

5. おわりに

 (1) ストーブ・リーグ開幕
      今年の冬は、雪の降るのが例年よりも早いようだ。甲府盆地から見える富士山や
     南アルプス、八ヶ岳そして金峰山など山々の頂きは雪に覆われ真っ白だ。

      こうなると、ミネラル・ウオッチングのストーブ・リーグが開幕だ。限られたフィールド
     でしかミネラル・ウオッチングが楽しめないこの期間の楽しみはいろいろある。

      1) 石器探し
      2) 古書店、骨董市、そして博物館巡り
      3) 買い集めた古文書から新刊書の読破とデータ・ベース化
      4) ミネラル・ショー
      5) 採集標本のクリーニング、整形、鑑定そして記録
      6) 暖地、坑道内、海岸など限られたフィールドでのミネラル・ウオッチング
         などなどだ。

      今回、2)の諏訪市博物館を訪れ、増澤曽根遺跡標本の石鏃が五無斎の「長野県
     地学標本」になるはずだったものだと知り、”五無斎オタク”の私としては、予想も
     しなかった収穫があった。

 (2) ”然るべき場所に”
      山梨県に転勤になって間もない平成の初め頃、「和田峠の満ばん柘榴石」採集に
     通ったことがあった。帰りには、諏訪湖の畔にある「片倉館」のラドン温泉で泥と汗を
     流して帰るのが常だった。

     ・ 和田峠の母岩付満バン柘榴石
      ( Spessartine on Rhyolite of Wada Pass, Nagano Pref. )

      このときは、「考古資料」があることなど知らなかったし、展示されていた記憶もなく、
     死蔵されていたのだろうか。今回、諏訪市博物館に寄託・展示されていると知った。

      また、ある時、「片倉館」に隣接する「諏訪市美術館」に入ると、絵画や彫刻だけで
     なく、石器や土器なども展示してあり、”あれ”、と思った。
      このページをまとめるにあたり、美術館に電話してみると、考古学関係の展示品は、
     平成10年ごろ、諏訪市博物館に移管されたと聞き、「片倉館所蔵考古資料」同様に
     然るべき場所に収まり、”スッキリ”すると同時に嬉しく思った。

 (3) 石友からの便り
      秋のミネラル・ウオッチングが終わって1ケ月近くが経った。2日目に訪れた古い
     鉱山跡では変わった形の水晶が採集できたが、分厚い褐鉄鉱に覆われ、皆さん
     クリーニングには難渋したらしい。

      参加者の一人・Tさんから、クリーニングが終わったら、素晴らしい「松茸水晶」と
     「スプレー水晶」があった、と喜びのメールを頂いた。
      「松茸水晶」はこの時に開けたある晶洞の1つからだけ出たようだ。『少欲知足』を
     実践しようと、私がこの時分配にあずかった水晶は1つだけだったので、当然ながら
     「松茸水晶」ではなかった。

      亡くなった島倉千代子の歌ではないが、 ♪♪ 晶洞いろいろ ♪♪ 、なのは
     以前のページで書いた通りのようだ。

          
                   松茸水晶                     スプレー水晶
                  【最大 3cm】                    【長さ 6cm】
                                Tさん採集品

6. 参考文献

 1) 原田 準平監修:日本産鉱物文献集 1972〜1956,北海道大学,1959年
 2) 藤森 栄一:蓼科の土笛,学生社,昭和44年
 3) 佐久教育会編:五無斎 保科百助評伝,佐久教育会,昭和44年
 4) 諏訪市博物館編:諏訪湖底曽根遺跡発見100周年記念
               諏訪湖底にねむる謎の遺跡・曽根
               −2008年企画展・講演会記録−,同館,2008年
 5) 黒曜石体験ミュージアム:案内パンフレット,同館,2013年
 6) 諏訪市立 風樹文庫編:案内パンフレット,同文庫,2013年
 7) 茅野市神長官守矢資料館編:案内パンフレット,同館,2013年
 8) 財団法人 片倉館編:案内パンフレット,同館,2013年
 9) 諏訪市美術館発行:割引ご優待券,同館,2013年
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