五無斎 保科百助 長野県地学標本採集旅行記(その2)<BR>                <8月6日〜9月18日>

五無斎 保科百助 長野県地学標本採集旅行記(その2)
          <8月6日〜9月18日>

1.初めに

私が保科百助(ほしな ひゃくすけ)を知ったのは、草下英明先生の「鉱物採集フィールド
ガイド」の長野県小県郡の鉱物産地めぐりの章で、有名な武石村の「やきもち石」の
発見者として紹介してある数行の文章でした。
『武石村に、明治30年代、ここの小学校の校長をつとめた、保科百助という人物が
おられた。
信州の奇人ナンバーワンといわれた人で、鉱物学を専門に勉強したわけではなかったが
熱心な採集家で、大ハンマを肩に、当時人跡稀な長野県の山野をくまなく歩き回り
次々と新しい鉱物を発見して、中央の学会に紹介した。』
保科五無斎に関する古書と新刊書を数冊入手し読むと、「長野県地学標本採集旅行記」があり
五無斎の鉱物採集の足跡の一部を辿り、その続編をまとめてみました。
(2003年3月調査)

2. 五無斎の採集旅行記

(1)五無斎の鉱物採集旅行
五無斎は生涯に何回かの採集旅行を行っている。それらのうち、規模が特に大きかったのは
次の2回であった。
いずれも、雪が消えた4、5月にスタートし、寒さの厳しくなる直前の10、11月に終わるという
今でも鉱物採集に最適な時期を選んでいます。

@明治34年   5月〜11月第1回県下漫遊・鉱物採集の旅
A明治42年   4月〜10月第2回県下漫遊・鉱物採集の旅

第1回採集旅行の採集品をもとに、明治36年236種の岩石・鉱物等からなる「長野県地学標本」を
103組を作製し、県下各学校に寄贈したのをはじめ、皇室、東京帝国大学などに献納した。
さらに、第2回採集旅行の採集品をもとに、明治43年に120種の岩石・鉱物・石器からなる
「信州産岩石鉱物標本」を600組作製し全国に頒布した。
第2回目のときの日記をまとめたものが「長野県地学標本採集旅行記」であるが、標本との
関係では「信州地学標本採集旅行記」の方が相応しい気もします。

3. 長野県地学標本採集旅行記(その2)

    読みやすいよう現代文にしました。原文の味わいを残したい部分は『 』の中に原文を引用した。
    この際、注目すべき意見などがある箇所は赤字で表示しました。
    間違い、脱落あるいは補足説明が必要と思われる部分は(  )に示しました。
    私のコメントは、青字で記入しました。

       理由はわかりませんが8月1日から8月6日の前半までが脱落し、残されていません。

8月6日つづき
       日程変更の必要がおきた。それは、富県村桜井のチンワル石(チンワルド雲母)は
       産出量が多くない。高鳥谷(たかずや)の電気石も同じ。また同所の砂質片麻岩は
       坂下付近で採集するほうが、費用・日程的に有利。
8月7日   人夫3人を雇い、小沢川の北岸で砂質片麻岩するが山抜け(?)で見当たらない。
          南畔で採集した。
8月8日   人夫3人を率い、小沢川で雲母粘板岩採集。
       宮田駅にある定宿銭屋に投宿。
       『御○○○○す。(読者諸君試みに此数字を充たせ。)』

        さて、皆さん五無斎先生から出された問題です。
        数字とありますが、”四文字を当てなさい”という意味です。
        御がありますから、これに続く2文字は五無斎先生の大好きな
神酒(お酒)
        でしょう。残る2文字は、”○○す”とあるところから、行為を現わす言葉で
        日記の中でお神酒を呑む場面で度々使われている”頂戴す”
        でしょう。
8月9日   人夫3人を伴い、西春近村藤沢川の沿岸で紅柱石を採集する。
       『本鉱物は、去る明治35年中、五無斎の新発見にかゝる。新発見の動機は次の如し。
        曰はく、此所商務省の土性図には、第三紀層となり居る。・・・・・・・・・・
        一ト度其地に到れば、何ぞ驚かざるを得可けん哉。太古太統の雲母粘板岩中
        本鉱物を含み居たるなり。』

        五無斎が、「デカク満足」と鼻をヒクヒク動かす姿が目に浮かぶようです。

8月10日   人夫3人を率いて、赤穂村西方の原野で柘榴石を石油箱40ばかり採集。
8月11日   大田切川で花崗質片麻岩を採集。下流採集なので原料確保に窮し、花崗岩も混じって
       いるようなので、後の標本採集のために、注意しておいた。
8月12日   人夫3人を雇い、大田切川で駒ケ岳特産両雲母花崗岩を採集。
8月13日   人夫3人を雇い、大田切川で黒雲母を採集。
         佐藤某来る。『君が慷慨悲憤と来ては・・・・北安大黒岳鉱山が、江戸村あたりの
         我利々々一天張りなる成り金党の手に落ちたるを慨すに始まり・・・・・・。』
8月14日   飯島駅大黒屋を発ち、大河原泊。この日地震あり。
8月15日   人夫2人を雇い、小山訓導同道で中沢で霰石を探すが見つからない。これは
       8年前の記憶のアヤフヤさ加減を示すもの。
       しかし、ここで蛇紋岩の飛白岩(かすり)を発見し、これを採集する。
8月16日   昨日、瀧本(鐙三)理学士の地質学講習があった。明日17日が最終日と聞く。
       人夫3人を雇い、小山訓導同道でヘレフリンタ様鹿塩片麻岩らしきもの採集。
       後に、瀧本理学士に確認したら、らしきものでもないとのこと。強震あり。
8月17日   飯田高等女学校で下伊那部会の夏期講習会で瀧本学士の地史論聴聞。
       小学校に於ける鉱物地質教授法について1時間演説。
       新聞で、江州の大地震を知る。
8月18日   瀧本学士を見送る。花崗岩を採集するため富草村に向かう。
8月19日   大下条旦開(あさげ)下条学校の諸氏数名が来たので、富草村の各地を回り地学の
       実地指導をした。
       矢沢女子師範学校長に依頼された含化石水成岩を採集する。。
8月20日   人夫2名を雇い、富草村浅野で花崗砂岩?を採集。”?”を付けたのはチョット
       怪しい花崗岩だからである。
8月21日   伊賀良村の中村尋常小学校に行く。同地産の正長石を採集する予定だった。
       校長は不在だったが、用務員に案内するよう言い含めてあったので、其案内で
       水晶崩(なぎ)に行った。ここは、下川路村に面しているので、下川路地区に
       なっているかも知れない。
       最初は採集できそうもなったが、ペグマタイト中に正長石の産するのをみて
       大変嬉しかった。
       『元来長石の標本は是非共無くては叶はぬものなれども、南佐久郡茂来山のものも
        西筑摩郡田立村のものも、既に採集し尽くしたるの今日此新産地を得たるぞ
        愉快なる。結晶面を具へたるもあれども、双晶など有りやを知らず。
        蓋し淤汚(どろ)の附着し居ればなり。』
        この日、鉄鎚を持参しなかった事、金庫を持参しなかった事を悔い、サイフを
        叩いて2円を出し、案内の先生(用務員?)に採集を頼んで、飯田町に泊。

        「信州産岩石鉱物標本」120種には下川路村産正長石が入っています。

        南佐久郡茂来山の正長石も最近産地が明らかになり、”採集し尽くした”訳では
        なかったようです。

8月22日    大平峠を越え、西筑摩郡吾妻村吾妻橋泊。
8月23日    田立小学校に行き蛍石の採集を依頼する。
8月24日    人夫2人を率いて、大桑村殿区の石灰山でフズリナ石灰岩を採集する。稍強震あり。
8月25日    大滝村の鞍馬(あんば)橋に行く。石英斑岩を採集する予定。
8月26日    人夫3人を雇い、鞍馬橋下で石英斑岩を採集する。木曾福島泊。
8月27日    郡役所、小学校などを訪問し、1日保養する。
8月28日    教員講習所の宮川君同道で、福島町のはずれ塩淵で、鉄道用に切り出した
        花崗斑岩の標本を採集する。
        ここで工夫2人を雇い採集していると、本職の石屋後藤某が無償で手伝って
        くれた。後藤某は、話し上手で面白い男だった。
8月29日    『午前中は短期死亡を為して英気を養い・・・・・』
        この日は、和洋のお神酒を午前1時まで飲む。
8月30日    楢川村奈良井に行き、大久保産爪頭(そうとう)方解石の下検分する。
8月31日    人夫1名を従え、大久保で爪頭(そうとう)方解石を採集。
9月1日    本山産クリノイド石灰岩採集する。
9月2日    人夫2人を雇い、第3トンネルで古生代粘板岩の採集をしようと思ったら。
        上条の石灰山に着いた頃から雨が降り始めた。石灰小屋でしばらく休憩していて
        平たき斜方六面体をした方解石を得た。
        1円与え、これを採集してもらう約束をした後、トンネル付近に行き更に人夫
        1名雇い、採集を終えた。
9月3日    松本下車。郡長浜音之助を訪ね、標本採集の顛末報告。
        浅間温泉泊。
9月4日    『風邪気味・・・・鶏卵を混じたる○○○など頂戴し、デカク酉卒ふ。』

        ”酉”+卒の略字”卆”=”酔”
        同じように、”呑”を分解して、”天口”という表現も編み出し、さらには
        ”天口酉卒”なる四字熟語(?)までこしらえて、何度も使っています。

9月5日    島々泊。ここで、前々から依頼しておいた菫青石の採集がしたいため。
        採集、運搬費を払っておいた、焼岳の火山灰、火山礫も発送していないのに
        驚いた。理由は、五無斎が2円未払いがあるためだというので、8円渡す。
        菫青石採集日当3日分3円、島々までの運搬費10貫目(38kg)につき1円として
        50貫目分5円、合計8円。
        2円の渡し不足については、人夫善平に聞いてもらうことにした。
9月6日    稲扱(こき)小学校に立ち寄った後、白骨温泉清水屋泊。
        ここで、石灰華を採集するためなり。ここの石灰華は木の葉化石を含み
        その成因や白骨の地名を説明するのに是非今回の標本に加えようとした。
        しかし産地まで遠いのと費用を節約するため、し水屋の主人・斎藤某氏に
        採集を依頼しておいた。氏の心中を察するに、「採集など面倒、放っておけば
        五無斎がまた来るだろう。そうすれば、温泉の宣伝にもなるだろう」位の
        ものだろう。
9月7日    黒川南安曇郡長、竹山校長同行し、青年2名の案内に人夫1名を加え石灰華を
        採集しに行く。しかし、思わしきもの無い。強い雨降り、しばし休憩。
        神津学士?が発見したという霰石の産地に行くが見当たらない。
        この後、”ツイドホシ”という天然トンネル近くで霰石?を採集。
9月8日    白骨から島々に帰る。
9月9日    梓小学校本校、分教場、梓高等小学校に立ち寄り、長野市に帰る。
9月10日    『1日骨延ばし(疲労回復)』
9月11日    小諸小学校に行き、その後浅間登山。一行7名。よしが平小屋泊。
(9月11日)  午前1時過ぎに起き、朝食。2時半小屋発。午前8時頂上。
        鬼押し出しで、火山溶岩採集。大きな地震あり。
9月13日    前掛山の付近で菫青石採集。
        『菫青石は、浅間火山第2外輪山たる此前掛山の特産物なり。陸軍省の三角
         測量台のある付近以下に産す。此地は十数年来長野師範生徒の地学旅行地と
         なり居たるが上に昨日も数十名の生徒が登山したる事とて採集は六かし
         からんと思ひたれど採集の成績甚だ佳良なり。然れども1、2貫目を得たる
         のみなれば素より壜入標本たるなり。』
         湯の平泊。

         「鉱物採集フィールドガイド」にも紹介されている、”浅間山の菫青石”の
          産地情報が分かります。

9月14日     よしが平小屋着。小屋の主人は、浅間山繁盛策として、・・・・・浅間産の
         鉱物・岩石を採集しておき、これを安価に販売したいと言う。これはなかなか
         面白い考えだ。一歩進めて、浅間火山の説明書や地質図を添えればもっと
         良いだろう。このアイデアについては、来春再度相談に来て欲しいと言う。
         午後2時頃、小諸町に帰る。汽車で大屋駅で下車、傍陽村に向かう。

         この途中、本原村あたりと思しき場所で、五無斎は懐かしい場所に出会います。

         『今日五無斎は去る明治28年中、甞(かっ)て婚約せし事ある婦人(ひと)の
          門前を過ぐ。門内に襁褓(しめし)など干してあるを見て感慨無量なり。
          幾度かフリ返り家の様子など眺め廻したるは自分ながら下意愧かしき心地す。
          若し此家の主人公となりありたらんには、余りルマ(逆さに読むと○=金)
          には不足を感ぜざる可きに。噫(ああ)。』

          この『噫』に万感が籠っているようです。

9月15日     人夫4人を雇い、入軽井沢で紅簾流紋岩と緑簾流紋岩を採集。この紅簾流紋岩は
         世界的に珍しいと山崎理学士の著書に見える。ただ、思うように量がなく
         今日一日で採集は終わらなかった。
9月16日     紅簾流紋岩はこの地の青年に外箱、縄代込みで1円10銭で採集を依頼する。
         佐久間象山翁が毎晩峠を越え7里の道を通ったとされる地蔵峠を越え豊栄村に
         至る。

         『信州で、二人男を。見立つれば
          保科五無斎 佐久間象山。』

          すごい自信だ。(筋肉マン)

          ここでは、村雨石即ち第三紀頁岩の接触変成を受けたものを採集する筈だったが
          区の所有地にあるとかで面倒なので、この地の小学校に行って校長君に面会し
          役場にも行き助役にも拝謁し、採集方一切をお願いした。
9月17日     綿門を発し、上高井郡山田温泉に至る。
9月18日     人夫2人を雇い、煙霧の中、白根産の自然硫黄を採集に行く。
         硫黄など至るところに産するので、どこで採集しても同じだけれども、信州の
         3火山は浅間焼岳そして白根山である。
         焼岳では本年(明治42年)6月1日に噴出した火山灰と火山礫を既に採集した。
         浅間では、天明3年に噴出した火山溶岩と菫青石を集めたので、硫黄は是非とも
         この地(白根山)のものをおいて他にない。

         以上で、五無斎の「長野県地学標本採集旅行記」は終わっています。
         翌年、この採集旅行で得た標本をもとに、「信州産岩石鉱物標本」を600組
         作製し全国に頒布し、五無斎の名を不動のものにしました。

4.おわりに

(1)機会があれば(作って)「長野県地学標本採集旅行記」の後をトレースしてみたいなと
   考えています。

5.参考文献

1)佐久教育会編;五無斎 保科百助全集 全,信濃教育会出版部,昭和39年
2)佐久教育会編;五無斎 保科百助評伝,同会,昭和44年
3)平沢信康:五無斎と信州教育 野人教育家・保科百助の生涯,学文社,2001年
4)草下英明:鉱物採集フィールドガイド,草思社,1988年
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