@明治34年 5月〜11月第1回県下漫遊・鉱物採集の旅
A明治42年 4月〜10月第2回県下漫遊・鉱物採集の旅
第1回採集旅行の採集品をもとに、明治36年236種の岩石・鉱物等からなる「長野県地学標本」を
103組を作製し、県下各学校に寄贈したのをはじめ、皇室、東京帝国大学などに献納した。
さらに、第2回採集旅行の採集品をもとに、明治43年に120種の岩石・鉱物・石器からなる
「信州産岩石鉱物標本」を600組作製し全国に頒布した。
第2回目のときの日記をまとめたものが「長野県地学標本採集旅行記」であるが、標本との
関係では「信州地学標本採集旅行記」の方が相応しい気もします。
(2)採集旅行を思い立った理由
前年(明治41年)の暮れから眼病を患い、年が明けて明治42年は五無斎の厄年で眼病は黒内障と
診断され、太陽光さえも見えず、一時失明の危惧すらあった。
両親とも中風、卒中の血統の上、日頃大酒を飲むので、いつ何時生命に故障あるかも知れず
辞世の歌など作って万が一に備えた。
辞世の歌
○我死なば共同墓地へすぐ埋めろ
やいてなりとも生までなりとも
○遊(ゆ)つ久(く)りと娑婆に暮して偖(さて)おいで
わしは1ト足チョイトお先へ
このままでは、我ながらあまりにも腑甲斐なく、終生の事業を繰り上げて本年(明治42年)中に
1つ遣っ付けて見んと思う。
というこことで、採集旅行を2月上旬に思い立ったが、先立つものがない。
『”○”(お金のこと)がないのは42年来』と思案に暮れていたが、幸いスポンサーも見つかり
4月4日(日曜日)に”立ち振舞い”(壮行会)を行い翌日から標本の注文取りを兼ねた採集旅行に
出発する。
4月5日 長野を発し、更級郡3校訪れる。
4月6日 桑原小に行き、石膏採集依頼。ここのは、矢羽形の双晶で長野市茂管や御嶽山の
ものも遠く及ばないほど立派。
五無斎は、自分で採集するだけでなく、各地で採集を依頼している。
4月7日 上田町辰野洋服店で村上村産のマンガン鉱見る。
4月8日 小県郡3校訪問。
4月9日 浦里村越戸で玄能石を採集しようとするが思うようなものは1つも見つからない。
明治30年ころ始めて採集に行った頃はいくらでも採れたのに。
『近頃は採集のために江戸村(東京)付近や其の他よりも無闇矢鱈に来遊すると
みえたり。学術の進歩は頗る喜ぶべきも聊か閉口まざるを得ざる次第なり。』
青木小に行き、玄能石の採集を依頼する。
別所学校に行き、塩沢校長が別所神山産の白鉄鉱を示す。今回の標本には入れないが
採集を依頼する。
4月10日 西塩田村小に行き、弘法山の斜長石(「違い石」)は、小さいので大人でも子どもでも
(採集の手間は?)同じなので、同校生徒に採集してもらう条約を締結。
4月11日 依田村小の炭部屋(石炭倉庫?)で褐炭の ”室内採集”をなす。
褐炭は同地産のもので、木理もあり琥珀も混じり、また黄鉄銅鉱を含む。
4月12日 丸子村腰越橋で柱状節理採集。
4月13日 鹿教湯温泉泊
4月14日 久保田氏と若者1名雇い、西内村熊倉の閃亜鉛鉱600個採集。
帰途、鹿教湯温泉付近で黄鉄鉱採集。石油箱4つ。
4月15日 荷造り後、所沢峠を越え武石村へ。
4月16日 石工1名、若者1名を雇い所沢で御坂凝灰岩採集。
4月17日 一の瀬河原で石英閃緑岩採集。
4月18日 下本入の緑簾石の産地に至る。
『大学教授連やら標本屋に荒しつけられて思うようには採集もできず。
遺憾此上もなし。』
4月19日 武石山に外部褐鉄鉱に変じたる黄鉄鉱(「武石」)を採集。
4月20日 長久保新町に至る。
4月21日 生徒5、60名を引率し、和田村青原山で鉄鉱母を採集。酸化鉄にして雲母に似たる鉄鉱
(鏡鉄鉱?)ということなり。
4月22日 車で岩村田へ。(20日に荷造り中、釘を踏み抜き痛むため)
『元来石屋の分際として、人力などに乗る筈はなけれど・・・・・・・・』
4月23日 小諸町に人車で行き、人足数人を雇い、味噌塚山で泥炭・浮炭(褐炭?)と火山灰採集。
4月24日 馬車で岩村田町へ行き、校長会で注文取り。
4月25日 北佐久郡躬行義会発会式
4月26日 軽井沢離山の雲母富士岩採集
4月27日 上州西牧村高館の手前で沸石様なる鉱物を発見。これを神保博士に送る。
『別所屋の黄鉄鉱を白鉄鉱となし、甚く同博士よりお目玉を頂戴したるが為なり。
其後博士より本鉱物に対する鑑定書を接手せり。』
【神保博士の鑑定書】
今から100年近く前の明治42年でさえも、穴沢山(赤面山)の電気石は稀産となって
いたようです。
そのため、標本作製に必要な600個もの数が集まる筈も無く、「信州産岩石鉱物標本」
120種に並んでいません。
5月13日 馬場署長、林巡査同道で川端下の水晶山に至る。案内人は此地の井出市松氏。
10余年前よりの知り合いの井出氏に方解石、柘榴石、透角閃石及び水晶各600個宛を
採集してもらう約束をして坑夫小屋で味噌汁を頂戴する。
5月14日 川上館主人や地元青年の依頼で鉱物鑑定。
5月15日 井出郵便局長同道、人夫2人従え穴沢山に至り終日電気石を採集。
得る所5、6塊には過ぎざるなり。5、6塊には過ぎざるは善けれど仮令(たとえ)
何十人何百人の人夫をかけたればとて600の標本を得る見込みは立たない。
赤面山の電気石には未練があったと見え、帰りにもう一度立ち寄っています。
さすがの五無斎も600個の採集は無理だと思い知ったようです。
5月15日 山梨県長沢村に至る。信州路に比して甲斐路の道の悪いこと言語道断。
是は大山綱昌先生が山梨県知事だったとき、共進会というお祭り騒ぎをして
県費を多分に使いたる影響だろうが、長野県にても頓(願?)ってコウ成らねば
善いが、と思うなり。
この日、甲府泊。
五無斎先生の心配的中。長野オリンピックのお祭り騒ぎで長野県は莫大な借金を
こしらえ、山梨県に比べ長野県の道路の悪いことこの上(下?)なし。
5月15日〜23日 記載なし。(荒川山中にいた模様)
5月24日 緑色(粘)板岩採集。仏平峠を経て富士見村へ、汽車で諏訪へ。
5月25日 旅にて○の無きほど心細いことはない。電報3度打つ。
5月26日 松目付近で石英ひん岩採集予定が豪雨で中止。
5月27日 素人土方小林万助氏のほか人夫1名雇い、石英ひん岩採集
5月28日 古(小?)林万助氏、同族万治ほか1名で金沢峠頂上・賽の河原で赤色硅岩採集。
之にて、都合2万1百なり。
(万助+万治+百助=2万1百)
5月29日 金沢の御料林中金山を経て滑石の産地に至る。金鉱は怪しいので採集しない。
滑石は立派なので採集する。中に極めて良好なのがあったので、特別の取扱いを
しておいたが、そのまま忘れてきた。
5月30日 諏訪教育会でNigirigin式教授法 一名Gdndaredn Methode という演題で講演。
5月31日 小諏訪の高木にて蛋白石採集。案内人は雨宮九平。
6月1日 上諏訪町東北の賽の河原にて角閃富士岩採集。同行は20100。
6月2日 (俳人)貧半堂・小沢幸太郎君同道で漁舟を雇い、ソ子(そね)で石器時代の遺物を採集。
『・・・・高師小僧と其成因を同ふするかとの疑ある鉱物を採集せり。石族の最も
完全なもの4、土器の破片2と奇妙なる鉱物は之を東京帝国大学地質学教室の
神保理労(学?)博士に致したり。都べて大学などへ標本を送るは最優等なるものを
差し出すべきなり。』
藤森某氏の石置場で、輝石富士岩採集。
信州の田舎にいながら、神保博士はじめ中央の地質・鉱物学のオーソリティから
可愛がられた秘密がここにあるようです。
6月3日 輝石富士岩補足採集。和田峠西餅屋に泊。
6月4日 西餅屋より5、6町で、玄武岩採集。
6月5日 雨中、和田峠頂上で母岩付き柘榴石を採集しようとするが、寒さ甚だしい。
6月6日 柘榴石の補足採集。
6月7日 下諏訪発電所の対岸で安緑岩採集。
6月8日 今井富蔵なる人夫を雇い、横川谷で黄色い蛇紋岩採集。今井小宿直室泊。
6月9日 横川で御坂層の礫岩採集予定が雨。小林某氏を伴い神宮寺にて御坂層砂岩の
あり場所を指示する。
6月10日 永明、玉川2村に至り、小林万助に角閃石と飛白岩の在り場所を教える為なり。
『角閃石の産地に就いては苦心惨憺或は村長を訪ひ、或は収入役を訪ね、学校職員に
心当りを尋ねて貰ふ等、殆ど有らん限りの手段を尽したれど絶えて手懸りなし。
是は奸商某が関係人に口止めを為し置たるに起因するものゝ如し。筆誅を加ふる
こと筆序なれば何の雑作は無けれども偖止めん。尚角閃石の事は該村小学校
教員諸氏に依頼して此地を引き上る。』
”信濃境の角閃石”はその当時から有名で、標本業者などが入り込んでいたよう
ですが、明白な証拠もなしに、自分の主催する週刊誌「信濃公論」で叩かれたら
堪ったものでは無い筈です。こんなところに、五無斎に敵が多かった一因が
あったのかも知れません。
この後、上諏訪に行き、”一さ”という足袋屋に頼んでおいた腹懸と”紺平”という
紺屋で誂えた印半纏の着初めをする。
『フロックを着れば紳士に見え、腹懸をかければ石屋にも見ゆるなり。
尚、印半纏に印たる”石屋五無斎”の五字は、諏訪中学校長寺嶋・・・・・。』
『橋本福松氏来訪、神保博士よりの伝言あり。
@信濃公論1号と4号無くて困っているから送って欲しい。
A旅行記数日分抜けていないか。若しあればこれを掲載すること。
B奇妙なる鉱物は何だか分からぬこと。
C今月(6月)末頃には、諏訪湖研究のため出張する筈なり。其の時、何処に居るか。』
これらに対して、五無斎は次のように回答(言い訳)しています。
@五無斎風情の書きたるもの、悉皆大学に保存さるゝこと光栄身に余る次第なり。
然れども、今手許になし。誰そあるか。・・・・・東京帝国大学地質学教室
神保博士宛にお送り乞う。
A留守居番の牛阿弥が罪なり。
B何とも致し方なし。
C再び、諏訪にあらん。
『尚ほ橋本氏は、坪井博士の驚きを報ず。
曰く、五無斎という奴は飛んだ奴なり。600の石鏃採集されて溜まるものか。
寧ろ買い上げてやろうか。夫とも警察署へ”ソ子”保護願いを出そうかと。』
またまた、五無斎は弁明に努めます。
『五無斎がソ子の石鏃600を採集する所以のものは、敢えて私利私欲を営むに非ず。
長野県地学標本を採集するに当って、折節湖中生活の遺跡が発見せらるたりなり。
よって記念として今回の標本中に入れんとはしたるなり。・・・・長野県の教育を
思うの情切なるものあればなり。・・・・・・』
いずれにしても、この日は多事多難な1日でした。
6月11日 大井某氏を訪れる。大井君「鉱物標本号」を見て、火山灰と褐鉄鉱と黄鉄銅鉱の
所在を手帳に書き抜く。同じく山気はあると見えたり。
信州の山に金気は絶えてなし
人の腰なる○は格別
6月12日 保里写真館にて新装束の撮影をする。
八木貞助は、「信濃鉱物誌」の著者として知られています。
7月24日 二万を率いて弁天岩に至り、輝緑岩と黒雲母剥岩の採集を指示し、東高遠の
豊島病院で院長の診察を受ける。肛門周辺の腫れ物。
7月25日 二万は弁天岩で黒雲(母)片岩採集。五無斎は、宿に籠り、書物を読み眠る。
7月26日 二万は中村校長の案内で山室川畔で石墨片岩採集。五無斎は、豊島病院で
腫れ物の切開。
長野高等女学校八木教諭御来高。黒川谷採集行3日間の日程3ケ条を協議し
○○○に移るが、五無斎病中で気勢甚だ揚がらず。只2本傾けたのみ。
7月27日 二万は両大家を案内し戸台へ。五無斎は、豊島病院へ。
7月28日 二万は両大家の供して戸台より戻る。五無斎は、豊島病院へ行ったのみ。
7月29日 二万は河南村へ角閃剥岩を採りに、両大家は高津屋へ砂質片麻岩
晶質石灰岩等を採集に、五無斎は豊島病院へ日参。
八木教諭は、電気石の好標本1個を採集したとの事。
『想起す今より十年の昔、東京の標本屋・金石舎の主人(名称忘れたり)某が
五無斎を標本採集人として召し抱へんと東京なる某旅館に来り、ビールやら
洋服の装飾品を贈りて五無の歓心を買はんとしたる折示したるものと同一
なるを。当時五無の一商人の召抱人とならぬを見て取り産地を秘してコソコソ
と逃げ帰りたる事のありたるが、今や其産地を確むるを得たり。然れども
其産出の多からざる由なるぞ遺憾なる。』
7月30日 二万は角閃花崗岩質片麻岩の採集、五無斎は病院通い。
(その2に続く)