五無斎 保科百助 長野県地学標本採集旅行記(その1)<BR>                <4月5日〜7月30日>

五無斎 保科百助 長野県地学標本採集旅行記(その1)
          <4月5日〜7月30日>

1.初めに

私が保科百助(ほしな ひゃくすけ)を知ったのは、草下英明先生の「鉱物採集フィールド
ガイド」の長野県小県郡の鉱物産地めぐりの章で、有名な武石村の「やきもち石」の
発見者として紹介してある数行の文章でした。
『武石村に、明治30年代、ここの小学校の校長をつとめた、保科百助という人物が
おられた。
信州の奇人ナンバーワンといわれた人で、鉱物学を専門に勉強したわけではなかったが
熱心な採集家で、大ハンマを肩に、当時人跡稀な長野県の山野をくまなく歩き回り
次々と新しい鉱物を発見して、中央の学会に紹介した。』
保科五無斎に関する古書と新刊書を数冊入手し読むと、「長野県地学標本採集旅行記」があり
五無斎の鉱物採集の足跡の一部を辿ってみた。
(2003年2月調査)

2. 五無斎の採集旅行記

(1)五無斎の鉱物採集旅行
五無斎は生涯に何回かの採集旅行を行っている。それらのうち、規模が特に大きかったのは
次の2回であった。
いずれも、雪が消えた4、5月にスタートし、寒さの厳しくなる直前の10、11月に終わるという
今でも鉱物採集に最適な時期を選んでいます。

@明治34年   5月〜11月第1回県下漫遊・鉱物採集の旅
A明治42年   4月〜10月第2回県下漫遊・鉱物採集の旅

第1回採集旅行の採集品をもとに、明治36年236種の岩石・鉱物等からなる「長野県地学標本」を
103組を作製し、県下各学校に寄贈したのをはじめ、皇室、東京帝国大学などに献納した。
さらに、第2回採集旅行の採集品をもとに、明治43年に120種の岩石・鉱物・石器からなる
「信州産岩石鉱物標本」を600組作製し全国に頒布した。
第2回目のときの日記をまとめたものが「長野県地学標本採集旅行記」であるが、標本との
関係では「信州地学標本採集旅行記」の方が相応しい気もします。
(2)採集旅行を思い立った理由
前年(明治41年)の暮れから眼病を患い、年が明けて明治42年は五無斎の厄年で眼病は黒内障と
診断され、太陽光さえも見えず、一時失明の危惧すらあった。
両親とも中風、卒中の血統の上、日頃大酒を飲むので、いつ何時生命に故障あるかも知れず
辞世の歌など作って万が一に備えた。
    辞世の歌
     ○我死なば共同墓地へすぐ埋めろ
      やいてなりとも生までなりとも

     ○遊(ゆ)つ久(く)りと娑婆に暮して偖(さて)おいで
      わしは1ト足チョイトお先へ

このままでは、我ながらあまりにも腑甲斐なく、終生の事業を繰り上げて本年(明治42年)中に
1つ遣っ付けて見んと思う。
というこことで、採集旅行を2月上旬に思い立ったが、先立つものがない。
『”○”(お金のこと)がないのは42年来』と思案に暮れていたが、幸いスポンサーも見つかり
4月4日(日曜日)に”立ち振舞い”(壮行会)を行い翌日から標本の注文取りを兼ねた採集旅行に
出発する。

3. 長野県地学標本採集旅行記

    読みやすいよう現代文にしました。原文の味わいを残したい部分は『 』の中に原文を引用した。
    この際、注目すべき意見などがある箇所は赤字で表示しました。
    間違い、脱落あるいは補足説明が必要と思われる部分は(  )に示しました。
    私のコメントは、青字で記入しました。

4月5日   長野を発し、更級郡3校訪れる。
4月6日   桑原小に行き、石膏採集依頼。ここのは、矢羽形の双晶で長野市茂管や御嶽山の
       ものも遠く及ばないほど立派。

       五無斎は、自分で採集するだけでなく、各地で採集を依頼している。

        4月7日   上田町辰野洋服店で村上村産のマンガン鉱見る。
4月8日   小県郡3校訪問。
4月9日   浦里村越戸で玄能石を採集しようとするが思うようなものは1つも見つからない。
       明治30年ころ始めて採集に行った頃はいくらでも採れたのに。
       『近頃は採集のために江戸村(東京)付近や其の他よりも無闇矢鱈に来遊すると
        みえたり。学術の進歩は頗る喜ぶべきも聊か閉口まざるを得ざる次第なり。』
       青木小に行き、玄能石の採集を依頼する。
       別所学校に行き、塩沢校長が別所神山産の白鉄鉱を示す。今回の標本には入れないが
       採集を依頼する。
4月10日   西塩田村小に行き、弘法山の斜長石(「違い石」)は、小さいので大人でも子どもでも
       (採集の手間は?)同じなので、同校生徒に採集してもらう条約を締結。
4月11日   依田村小の炭部屋(石炭倉庫?)で褐炭の ”室内採集”をなす。
       褐炭は同地産のもので、木理もあり琥珀も混じり、また黄鉄銅鉱を含む。
4月12日   丸子村腰越橋で柱状節理採集。
4月13日   鹿教湯温泉泊
4月14日   久保田氏と若者1名雇い、西内村熊倉の閃亜鉛鉱600個採集。
       帰途、鹿教湯温泉付近で黄鉄鉱採集。石油箱4つ。
4月15日   荷造り後、所沢峠を越え武石村へ。
4月16日   石工1名、若者1名を雇い所沢で御坂凝灰岩採集。
4月17日   一の瀬河原で石英閃緑岩採集。
4月18日   下本入の緑簾石の産地に至る。
       『大学教授連やら標本屋に荒しつけられて思うようには採集もできず。
       遺憾此上もなし。』
4月19日   武石山に外部褐鉄鉱に変じたる黄鉄鉱(「武石」)を採集。
4月20日   長久保新町に至る。
4月21日   生徒5、60名を引率し、和田村青原山で鉄鉱母を採集。酸化鉄にして雲母に似たる鉄鉱
       (鏡鉄鉱?)ということなり。
4月22日   車で岩村田へ。(20日に荷造り中、釘を踏み抜き痛むため)
        『元来石屋の分際として、人力などに乗る筈はなけれど・・・・・・・・』
4月23日   小諸町に人車で行き、人足数人を雇い、味噌塚山で泥炭・浮炭(褐炭?)と火山灰採集。
4月24日   馬車で岩村田町へ行き、校長会で注文取り。
4月25日   北佐久郡躬行義会発会式
4月26日   軽井沢離山の雲母富士岩採集
4月27日   上州西牧村高館の手前で沸石様なる鉱物を発見。これを神保博士に送る。
        『別所屋の黄鉄鉱を白鉄鉱となし、甚く同博士よりお目玉を頂戴したるが為なり。
        其後博士より本鉱物に対する鑑定書を接手せり。』

       【神保博士の鑑定書】

     『拝啓過日御送り被下候鉱物は左(下)の如き晶形(第1図)をして多少第2図の
        如き外観を呈し候、先ツ束沸石 Desmin ならんと認め申候右返事まで早々頓首
        二伸右標本頂戴致し置き候て宜しきや御返事願上候。
     
       第1図      第2図
        神保博士の鑑定書
4月28日   人足2人、(志賀村字駒込)桃の木沢で含化石砂岩採集。
4月29日   内山で玻璃質富士岩採集。
4月30日   内山村星尾峠で木の葉の型(化石?)ある第三紀頁岩採集。
5月1日   南佐久郡役所、乙種農学校など訪問。
5月2日   田口村でウラル石輝緑岩採集。
5月3日   臼田学校で臼田付近小学校校長・教員を対象に南佐久の地質・地形を論じ
       Nigirigin式教授法を演説する。
5月4日   高野町3校歴訪。
5月5日   人足3人雇い、高橋で輝石採集。
5月6日   大日向鉄山に至るも臨時休業で要領を得ず。
5月7日   人足3人雇い、中生代白亜紀の粘板岩採集。
5月8日   人足3人雇い、都沢で石綿採集。
5月9日   人足3人雇い、(大日向鉄山)松本支配人の案内で構内一覧。
       磁鉄鉱6、70kgの寄付を受ける。
5月10日   畑八穂積2校歴訪
5月11日   広瀬小学校歴訪
5月12日   馬場署長、林巡査同道でこの地の由井久平氏を案内に穴沢山なる電気石産地に至る。
       『此地の電気石は工学士高壮吉君の誤鑑によりて俗に十勝石と称えきたれるものなり。
        偖此電気石は平たき斜方六面体と六角柱の聚形を為し外面雲母に変ずるもあり。
        叉全然雲母となりたるものあり。その全然雲母となりたるものは、電気石の仮晶を
        為せる雲母というも差支えなし。其太くて短きは此鉱物を著名ならしめた所以にして
        5円、10円(今の2、4万円)を投じても是非共採集を為さんと欲したれば
        久平氏に托して更に多数の人夫を上らすことの約束を為し・・・・』

        今から100年近く前の明治42年でさえも、穴沢山(赤面山)の電気石は稀産となって
        いたようです。
        そのため、標本作製に必要な600個もの数が集まる筈も無く、「信州産岩石鉱物標本」
        120種に並んでいません。

5月13日   馬場署長、林巡査同道で川端下の水晶山に至る。案内人は此地の井出市松氏。
       10余年前よりの知り合いの井出氏に方解石、柘榴石、透角閃石及び水晶各600個宛を
       採集してもらう約束をして坑夫小屋で味噌汁を頂戴する。
5月14日   川上館主人や地元青年の依頼で鉱物鑑定。
5月15日   井出郵便局長同道、人夫2人従え穴沢山に至り終日電気石を採集。
       得る所5、6塊には過ぎざるなり。5、6塊には過ぎざるは善けれど仮令(たとえ)
       何十人何百人の人夫をかけたればとて600の標本を得る見込みは立たない。

       赤面山の電気石には未練があったと見え、帰りにもう一度立ち寄っています。
       さすがの五無斎も600個の採集は無理だと思い知ったようです。

5月15日   山梨県長沢村に至る。信州路に比して甲斐路の道の悪いこと言語道断。
       是は大山綱昌先生が山梨県知事だったとき、共進会というお祭り騒ぎをして
       県費を多分に使いたる影響だろうが、長野県にても頓(願?)ってコウ成らねば
       善いが、と思うなり。
       この日、甲府泊。

       五無斎先生の心配的中。長野オリンピックのお祭り騒ぎで長野県は莫大な借金を
       こしらえ、山梨県に比べ長野県の道路の悪いことこの上(下?)なし。

5月15日〜23日 記載なし。(荒川山中にいた模様)

5月24日   緑色(粘)板岩採集。仏平峠を経て富士見村へ、汽車で諏訪へ。
5月25日   旅にて○の無きほど心細いことはない。電報3度打つ。
5月26日   松目付近で石英ひん岩採集予定が豪雨で中止。
5月27日   素人土方小林万助氏のほか人夫1名雇い、石英ひん岩採集
5月28日   古(小?)林万助氏、同族万治ほか1名で金沢峠頂上・賽の河原で赤色硅岩採集。
       之にて、都合2万1百なり。
       (万助+万治+百助=2万1百)
5月29日   金沢の御料林中金山を経て滑石の産地に至る。金鉱は怪しいので採集しない。
       滑石は立派なので採集する。中に極めて良好なのがあったので、特別の取扱いを
       しておいたが、そのまま忘れてきた。
5月30日   諏訪教育会でNigirigin式教授法 一名Gdndaredn Methode という演題で講演。
5月31日   小諏訪の高木にて蛋白石採集。案内人は雨宮九平。
6月1日   上諏訪町東北の賽の河原にて角閃富士岩採集。同行は20100。
6月2日   (俳人)貧半堂・小沢幸太郎君同道で漁舟を雇い、ソ子(そね)で石器時代の遺物を採集。
       『・・・・高師小僧と其成因を同ふするかとの疑ある鉱物を採集せり。石族の最も
        完全なもの4、土器の破片2と奇妙なる鉱物は之を東京帝国大学地質学教室の
        神保理労(学?)博士に致したり。都べて大学などへ標本を送るは最優等なるものを
        差し出すべきなり。』
        藤森某氏の石置場で、輝石富士岩採集。

        信州の田舎にいながら、神保博士はじめ中央の地質・鉱物学のオーソリティから
        可愛がられた秘密がここにあるようです。

6月3日   輝石富士岩補足採集。和田峠西餅屋に泊。
6月4日   西餅屋より5、6町で、玄武岩採集。
6月5日   雨中、和田峠頂上で母岩付き柘榴石を採集しようとするが、寒さ甚だしい。
6月6日   柘榴石の補足採集。
6月7日   下諏訪発電所の対岸で安緑岩採集。
6月8日   今井富蔵なる人夫を雇い、横川谷で黄色い蛇紋岩採集。今井小宿直室泊。
6月9日   横川で御坂層の礫岩採集予定が雨。小林某氏を伴い神宮寺にて御坂層砂岩の
       あり場所を指示する。
6月10日   永明、玉川2村に至り、小林万助に角閃石と飛白岩の在り場所を教える為なり。
       『角閃石の産地に就いては苦心惨憺或は村長を訪ひ、或は収入役を訪ね、学校職員に
        心当りを尋ねて貰ふ等、殆ど有らん限りの手段を尽したれど絶えて手懸りなし。
        是は奸商某が関係人に口止めを為し置たるに起因するものゝ如し。筆誅を加ふる
        こと筆序なれば何の雑作は無けれども偖止めん。
尚角閃石の事は該村小学校
        教員諸氏に依頼して此地を引き上る。』

        ”信濃境の角閃石”はその当時から有名で、標本業者などが入り込んでいたよう
         ですが、明白な証拠もなしに、自分の主催する週刊誌「信濃公論」で叩かれたら
         堪ったものでは無い筈です。こんなところに、五無斎に敵が多かった一因が
         あったのかも知れません。

        この後、上諏訪に行き、”一さ”という足袋屋に頼んでおいた腹懸と”紺平”という
        紺屋で誂えた印半纏の着初めをする。
        『フロックを着れば紳士に見え、腹懸をかければ石屋にも見ゆるなり。
         尚、印半纏に印たる”石屋五無斎”の五字は、諏訪中学校長寺嶋・・・・・。』
        『橋本福松氏来訪、神保博士よりの伝言あり。
         @信濃公論1号と4号無くて困っているから送って欲しい。
         A旅行記数日分抜けていないか。若しあればこれを掲載すること。
         B奇妙なる鉱物は何だか分からぬこと。
         C今月(6月)末頃には、諏訪湖研究のため出張する筈なり。其の時、何処に居るか。』

        これらに対して、五無斎は次のように回答(言い訳)しています。
         @五無斎風情の書きたるもの、悉皆大学に保存さるゝこと光栄身に余る次第なり。
          然れども、今手許になし。誰そあるか。・・・・・東京帝国大学地質学教室
          神保博士宛にお送り乞う。
         A留守居番の牛阿弥が罪なり。
         B何とも致し方なし。
         C再び、諏訪にあらん。

        『尚ほ橋本氏は、坪井博士の驚きを報ず。
         曰く、五無斎という奴は飛んだ奴なり。600の石鏃採集されて溜まるものか。
         寧ろ買い上げてやろうか。夫とも警察署へ”ソ子”保護願いを出そうかと。』

         またまた、五無斎は弁明に努めます。
        『五無斎がソ子の石鏃600を採集する所以のものは、敢えて私利私欲を営むに非ず。
         長野県地学標本を採集するに当って、折節湖中生活の遺跡が発見せらるたりなり。
         よって記念として今回の標本中に入れんとはしたるなり。・・・・長野県の教育を
         思うの情切なるものあればなり。・・・・・・』
         いずれにしても、この日は多事多難な1日でした。
6月11日    大井某氏を訪れる。大井君「鉱物標本号」を見て、火山灰と褐鉄鉱と黄鉄銅鉱の
        所在を手帳に書き抜く。同じく山気はあると見えたり。
           信州の山に金気は絶えてなし
           人の腰なる○は格別
6月12日    保里写真館にて新装束の撮影をする。
     ”石屋五無斎”装束
6月13日    上高地温泉に至る。6月1日に爆発した焼岳の火山灰を採集。
6月14日    夜来強風雨、梓川満水。
6月15日    焼岳に登り、蒲田峠の嶺で1寸5分(4.5cm)の火山礫600個を今回の標本に
        加えるべく採集。
6月16日    熊倉沢で菫青石(渡良瀬沿岸のものに良く似たり)採集する筈だったが、川の増水
        多く、この地を引き上げる。・・・・・に(採集を)頼みおく。
        島々に着き、石灰華採集する筈の白骨温泉持主の斎藤某氏に面会する。
6月17日    善兵衛同道、島々入口で角岩の標本600個採集。
        『今日負傷を為すもの凡そ9箇所、中2箇所は本年ソコヒに罹りたる左眼の
         角膜上に印痕ありと、後に赤十字病院の北原国手(医師)は言われたり。』
6月18日    松本に至り、汽車にて長野に至らんとす。
        駅員とのトラブルがあり、列車のランプの暗いことにまで八つ当たり。
6月19日    信濃教育会に出席。長野県地学標本箱陳列。ソネの演説する。
6月20日    信濃教育会に出席。教育会の来賓ほかを既に到着した標本数十駄に案内。
        針塚視学官を訪い、ソネ産石鏃1個献納。大枚のお金頂戴。
6月21日    ビールの会催しあり。
6月22日    病院に行く。
6月23日    県庁に行く。橋本君来訪。堀井(坪井?)博士の依頼伝えられる。
        ソネ産石鏃600の標本をお貸し申し上げる。
6月24日    高等女学校に行く。菫青石の見本を島々に送るため。
        (注:五無斎が採集したり、採集を依頼した岩石・鉱物は全て長野高等女学校の
           体操場(体育館)に集められていた。)
6月25日    神保、坪井両博士と湖沼学の泰斗・田中子爵をソネに案内する予定だったが
        連日の梅雨で諏訪湖が氾濫の恐れあり、日延べの電報打つ。
6月26日    急に上京を思い立ち一番列車で発つ。列車内で注文取る。
        ガラス壜屋を探すが其の家の名前を忘れ尋ねあぐねる。明朝、神保博士訪問予約。
6月27日    朝、神保博士訪問。今回採集した標本の肉眼ならびに顕微鏡での鑑定をしてもらう
        ためなり。快く承諾される。信濃公論の旅行記について質問1時間半。
        田中子爵来訪、ソネ談義に移り、所見を述べる。
        既にして、○○○を頂戴す。午後、博士宅を辞し、藤森塾を訪問する。
6月28日    浦和に下車、師範学校長の小島政吉氏を訪る。
6月29日    浦和を発ち、高崎にて昼食、19:30長野に帰る。
6月30日    何もなし。
7月1日    三斜珪石を石屋に採集してもらうため郷路山に行く。
7月2日    平田内相歓迎会に行くも、案内状なく謝絶される。
7月3日    旅行記を書く。福岡県鞍手郡立農学校から標本の注文取る。
7月4日    単身安茂里村小市で、陶土と真珠岩を採集。
7月5日    人足3人連れ、城下に至り、化石の付着した第三紀礫岩採集。
        本日買い入れた石油の空き箱は12銭。是まで2、300個ばかり買った経験では
        6銭5厘〜12銭だが、長野市は杏の輸出期に当るため14銭する。本年中には
        6、700箱を購入する予定なので8、90円を支出せねばならぬ筈。今回の事業の
        稍デカキを知り給え。
7月6日    青具小に立ち寄り、岩石鉱物鑑定をする。
        大黒山の黄銅鉱を見る。従来長野県に産する黄銅鉱中、本鉱の右に出るものなし。
        実地踏査していないが、鉱脈が相当太い由、第2の足尾なるやも知れず。
        明治37、8年の日露戦争の折、弾丸用銅材の不足も不利益な講和を余儀なくされた
        一因と聞く。軍国多事の今日、同鉱山の大発展を切に希望する。
7月7日    平川河原で石英斑岩採集。大黒岳鉱山事務所に同(銅?)鉱石5、60貫目を貰いに
        行く。所長不在なので、神城村小学校小野校長ほかに托してもらって貰うことに
        する。
7月8日    児島式外套と人足2人同道、またまた、平川河原で黒雲母花崗岩を採集する。
7月9日    仏崎で硅灰石採集。
7月10日    南安教育会に出席。Nigirigin式教授法の演説。標本注文取り、成績佳良。
7月11日    常盤村の仏崎での硅灰石採集を石灰山の降旗氏に依頼し、大町に帰る。
7月12日    郡長の大浦頼君に地学標本が北安曇郡内に売れるよう頼んだ。
        郡長、五無斎の服装(腹掛け・はっぴ姿)が気に入らぬとご立腹。
        たまたま郡長の名前が”頼”だから頼んだが、北安曇郡には一切売り込みをしない
        勝手にしろと言って去る。
        平村大出の遠山某氏を訪ね、霰石の採集を依頼し大枚のお金を支払う。葛の湯泊。
7月13日    朝来強雨。高瀬川満水。
7月14日    大町に至る。
7月15日    明科に至る。午後、茅野駅に下り、永明小学校に行き、角閃石問題の消息を
        訪ねたが要領を得ない。
7月16日    二万と待ち合わせて新湯に登り、休養する。
7月17日    二万百打ち揃って、1小寄生火山・擂鉢山に登る。
7月18日    茶臼山で橄欖輝石富士岩を採りに行くため案内人はと聞けば、75歳の老人との事。
        600の標本を背負わせるのは余りなので、茶臼山は明日にする。
        冷山に至り、35年に一度来ているので、泡沫多い黒曜岩を無事採集。
7月19日    茶臼山登山。案内人2人と二万百の5人。途中案内人と進路でもめるが無事頂上に着く。
        600の標本を採集し、途中休息もせず、19:30宿に着く。
7月20日    車で神宮寺に至り、杖突峠を経て越江御堂垣外に着き、明日の採集の準備する。
        角閃石は到底見込み立たないので、雨宮九平氏より購入することにする。
7月21日    藤沢小学校高等科生徒8名を案内者にして、滝の沢に至り紅柱石を採集。
        『本鉱物は、山崎・中村両理学士を始めとして、矢沢松本師範学校長やら数ならぬ
         五無斎までが数回行きたるものなれど其産地を詳にせざリしに、今回始めて
         其一小瀑布の下約30間、瀑布に向うて右の山腹なるを突き止めたり。
         殊に直径6、7分長さ4、5寸なるを得たれば之を東京帝国大学の神保教授と
         東京帝国博物館の藤森君に致す。但し運賃先払なり。』
7月22日    二万のほか清水某を雇い、東箕輪村長岡新田の石灰山で炭質石灰岩採集。
        藤沢学校長柿の木校長と五無斎は長岡新田で菫青石を採集する。
        標本として良いし、浅間や上高井郡のものと外観も違うので、今回の標本に
        加えようかと思ったが、産出量が多くないので思い止まった。
7月23日    二万一百(ほか計)7人で三義村芝平の石炭(灰?)山に行く。太古太統片岩系
        石灰岩をするため。外観ケチな石灰岩なれど其質最も善し。肥料としても、亦
        工業用としても。清水某を雇い、東箕輪村長岡新田の石灰山で炭質石灰岩採集。
        長藤村を経て、高遠町に至る。
        長野高等女学校八木貞助、松本女子師範学校矢沢校長より手紙あり。
        前者は、『黒川谷採集の案内せよ』。後者は、『片麻岩片岩類及び化石を含める
        岩石各40個宛を採集し、鉄鎚5槌を注文して呉れ』との命令書なり。
        『御下命の趣、謹ンデ御請ケ仕候也』との請書を差出した。

        八木貞助は、「信濃鉱物誌」の著者として知られています。

7月24日    二万を率いて弁天岩に至り、輝緑岩と黒雲母剥岩の採集を指示し、東高遠の
        豊島病院で院長の診察を受ける。肛門周辺の腫れ物。
7月25日    二万は弁天岩で黒雲(母)片岩採集。五無斎は、宿に籠り、書物を読み眠る。
7月26日    二万は中村校長の案内で山室川畔で石墨片岩採集。五無斎は、豊島病院で
        腫れ物の切開。
        長野高等女学校八木教諭御来高。黒川谷採集行3日間の日程3ケ条を協議し
        ○○○に移るが、五無斎病中で気勢甚だ揚がらず。只2本傾けたのみ。
7月27日    二万は両大家を案内し戸台へ。五無斎は、豊島病院へ。
7月28日    二万は両大家の供して戸台より戻る。五無斎は、豊島病院へ行ったのみ。
7月29日    二万は河南村へ角閃剥岩を採りに、両大家は高津屋へ砂質片麻岩
        晶質石灰岩等を採集に、五無斎は豊島病院へ日参。
        八木教諭は、電気石の好標本1個を採集したとの事。
        『想起す今より十年の昔、東京の標本屋・金石舎の主人(名称忘れたり)某が
         五無斎を標本採集人として召し抱へんと東京なる某旅館に来り、ビールやら
         洋服の装飾品を贈りて五無の歓心を買はんとしたる折示したるものと同一
         なるを。当時五無の一商人の召抱人とならぬを見て取り産地を秘してコソコソ
         と逃げ帰りたる事のありたるが、今や其産地を確むるを得たり。然れども
         其産出の多からざる由なるぞ遺憾なる。』
7月30日     二万は角閃花崗岩質片麻岩の採集、五無斎は病院通い。

        (その2に続く)

4.おわりに

(1)「長野県地学標本採集旅行記」は五無斎の師範学校の同窓生をはじめとする県下の教職員や
   各地の教え子を頼りながらの採集旅行の有様を綴ったものでした。
   すべて五無斎が採集した訳ではなく、”信濃境の角閃石”のようにお金で買ったものや
   ”斜長石(違い石)”のように生徒達を動員して採集したものなど、舞台裏が分かって面白い。
(2)”穴沢山(赤面山)の両錐電気石”が電気石の仮象であるなど、神保博士などとの交流で
   得られた正確な知識を持っていたことには感心します。
(3)自分で600個もの採集をしておきながら、”越戸の玄能石”や”やきもち石”が採れなく
   なったのを大学教授連や江戸村のもののせいにするなど可笑しなところもあります。
   この点を坪井博士に攻められると、”私利私欲のためでなく長野県の教育のため”と
   逃げを打っているのも微笑ましい光景です。

5.参考文献

1)佐久教育会編;五無斎 保科百助全集 全,信濃教育会出版部,昭和39年
2)佐久教育会編;五無斎 保科百助評伝,同会,昭和44年
3)平沢信康:五無斎と信州教育 野人教育家・保科百助の生涯,学文社,2001年
4)草下英明:鉱物採集フィールドガイド,草思社,1988年
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