『我死なば 佐久の山部へ 送るべし 焼いてなりとも 生マでなりとも』
五無斎は、身長5尺6寸余(170cm)、体重20貫(75kg)とほとんど私と同じで
当時としては体格の良いグループだった筈です。それでも当時は、車など利用することは
できず、鉱物採集では、『採集道具も重ければ獲物も亦軽からず、時々10貫目(38kg)の
荷物を負ひて10里(40km)余の道を歩み・・・・。獲物のなき時にても23貫目
(2、3貫目の間違い?7〜10kg)位はある。』と体力的にも厳しかったようです。
また、父親や母親を脳溢血で亡くし、その家系だと思い込んでいたようである。
(事実、脳溢血がもとで亡くなることになる。)
鉱物採集旅行は、いつ、どこで行き倒れになるか分からない旅でもあった。
そこで、訪れた産地に自分の墓碑銘のつもりで、家紋の「九曜星」を彫り込んだと
次のようの述べている。
『人は五無斎を評して、四十未だ家を為さずとは不用意千万なりと言うべし
然れども、五無斎の用意周到なるは、自分ながら驚き入りたるほどなり。既に行き倒れに
なりたる場合の遺言の歌あり。なおかつ、いわんや、信州における名山大川、人跡未だ
至らざる所、九曜星紋の輝くことあるにおいてをや。』
(2)いつ、どこに彫ったのか
野帳によれば、五無斎が九曜星紋を彫った、と初めて記されているのは、明治34年
(1901年)5月22日、鉱物採集の旅に出て、3週間ばかり経ってからであった。
小県郡大門村(現在の長門村)落合の中山で、閃緑岩を採集したとき、とされている。
これ以前にも彫ったが野帳に記録しなかった、と考えられなくもないが、鉱物採集の旅を
始めてみて、信州の険しい山野、河川をくまなく踏破することが予想以上に大変なことが
身に染みて思い知らされたのがこの頃ではないだろうか。
ひょっとしたら、の想いもあったろうし、それなら、信州の山野を家紋の「九曜星」で
埋め尽くしてみせる、と五無斎は決意も新たにしたのではないだろうか。
300箇所以上も彫った、と言われているが、現在その存在が確認されているのは、この
中山のものだけである。
(3)「九曜星」再発見の経緯
この中山の九曜星は、「五無斎 保科百助全集」が佐久教育会の手によって刊行された
昭和39年の翌年、昭和40年(1965年)11月12日に再発見された。
発見したのは、大久保徳一さん(当時73歳)に案内された佐久教育会のメンバーであった。
大久保さんは、明治34年(9歳のとき)と明治42年(17歳のとき)に鉱物採集の旅の途上の
五無斎に直接会っており、当時の様子を知る数少ない生き証人の1人であった。
現場を訪れ、落葉やつる草や土砂を取り除くと「九曜星」がクッキリと現れた、という。
この再発見からさらに20年近くが経った昭和58年3月に「ニギリギン式教育論」の著者
斎藤 實氏がカメラマンなどを伴って存在を確めた。既に、大久保徳一さんは亡く
大久保家そのものが無人の廃屋になっていた。この山、と判っていても、九曜星を探し
出すのに、丸2日かかった。風化が進み、よほど注意しないと判別し難い、状態であった
らしい。
(1)場所
文献の記述によると、次のようなことが明らかになった。
@現在の小県郡長門町落合
A”中山”の頂上の岩の東向き傾斜面に彫りつけてある。
B中山は高さ15m、周囲4、50mの山というより、丘
C中山の西側は、切り立った崖で30mくらい下を和田川の急流が流れている。
これらの情報をもとに、10万分の1の自動車道路地図を見ると、
@”落合”なる地名はある。
この地名の由来を示すかのように、依田川(旧中山道)と大門川(大門街道)が落ち合う
(合流する)位置にある。
A中山は、”山”と言っても、高さが15〜30m程度の”丘”らしいく、当然地図にはない。
B和田川の岸辺にあるらしいが、”和田川”が地図に見当たらない。これは、和田峠から
流れてくる依田川の地元での呼び名だろうと考えた。
上田市から152号線(途中から142号線と重なる)を南下し、長門町に入ると、道路脇の
標識に”落合”があるのに気付いた。
この先で、道路は旧中山道と大門街道に分かれるが、和田川沿いと考え、旧中山道を進む。
すると、左手に何となく”中山”の記述に合いそうな急な崖をもつ”小山”が見え
それに”吸い寄せられる”ように近づいた。
直感で、ここに違いない、と感じ、近くの民家のご主人に聞く。
私 「大久保徳一さんの、お宅は何処でしょう?」
ご主人「墓参りかい?」(この日は、盆の13日であった)
と言いながら、表に出て来られた。
「あそこが、大久保さんの家があったところで、車はあそこに停めると良い」
と言ってくれた。
私 「五無斎の・・・・」と言いかけると
ご主人「五無斎さんの(九曜紋)は、この上だ」と教えてくれた。
踏み分け道を登り、ものの1、2分で頂上に着くと、3畳敷き分位の岩場があり、ここに
間違いない、と確信した。
(2)中山の「九曜星紋」
頂上部には、閃緑岩が露出し、畳1畳分ほどの東に傾いた大きな岩の平らな表面に
3行×3列=9個の円が掘り込まれている。確かに、ここにあると言われなければ気付か
ないほどに風化している。
【九曜星紋の寸法諸元】
1曜の直径:5〜6cm
深さ:約2mm
縦の長さ :20cm
横の長さ :18cm