五無斎 保科百助の残した「九曜星」紋の跡を訪ねて

五無斎 保科百助の残した「九曜星」紋の跡を訪ねて

1.初めに

 私が五無斎こと保科百助(ほしな ひゃくすけ)を知ったのは、草下英明先生の
「鉱物採集フィールドガイド」の長野県小県郡の鉱物産地めぐりの章で、有名な武石村の
「やきもち石」の発見者として紹介してある数行の文章でした。
 『武石村に、明治30年代、ここの小学校の校長をつとめた、保科百助という人物が
おられた。
 信州の奇人ナンバーワンといわれた人で、鉱物学を専門に勉強したわけではなかったが
熱心な採集家で、大ハンマを肩に、当時人跡稀な長野県の山野をくまなく歩き回り
次々と新しい鉱物を発見して、中央の学会に紹介した。』
 保科五無斎に関する古書をできるだけ入手し読むと、五無斎が鉱物採集旅行で訪れた
場所に、家紋の「九曜星」を彫りつけ、その数は300箇所以上と伝えられているが
その確かな場所が知られているのは僅かに1ヶ所に過ぎない、とある。
 今回、その1箇所を迷うことなく探し当てることができ、これも五無斎との縁かと
考えています。
(2004年8月訪問)

2. 五無斎の九曜星紋

 (1)九曜星紋彫刻の経緯
    五無斎が鉱物採集地で家紋の「九曜紋」を彫るようになった動機は、彼が野帳
   (フィールド・ノート)に書き残した次の狂歌と無関係ではないであろう。

   『我死なば 佐久の山部へ 送るべし 焼いてなりとも 生マでなりとも』

    五無斎は、身長5尺6寸余(170cm)、体重20貫(75kg)とほとんど私と同じで
   当時としては体格の良いグループだった筈です。それでも当時は、車など利用することは
   できず、鉱物採集では、『採集道具も重ければ獲物も亦軽からず、時々10貫目(38kg)の
   荷物を負ひて10里(40km)余の道を歩み・・・・。獲物のなき時にても23貫目
  (2、3貫目の間違い?7〜10kg)位はある。』と体力的にも厳しかったようです。
    また、父親や母親を脳溢血で亡くし、その家系だと思い込んでいたようである。
    (事実、脳溢血がもとで亡くなることになる。)
   鉱物採集旅行は、いつ、どこで行き倒れになるか分からない旅でもあった。
    そこで、訪れた産地に自分の墓碑銘のつもりで、家紋の「九曜星」を彫り込んだと
   次のようの述べている。

    『人は五無斎を評して、四十未だ家を為さずとは不用意千万なりと言うべし
     然れども、五無斎の用意周到なるは、自分ながら驚き入りたるほどなり。既に行き倒れに
     なりたる場合の遺言の歌あり。なおかつ、いわんや、信州における名山大川、人跡未だ
     至らざる所、九曜星紋の輝くことあるにおいてをや。』

 (2)いつ、どこに彫ったのか
     野帳によれば、五無斎が九曜星紋を彫った、と初めて記されているのは、明治34年
    (1901年)5月22日、鉱物採集の旅に出て、3週間ばかり経ってからであった。
     小県郡大門村(現在の長門村)落合の中山で、閃緑岩を採集したとき、とされている。
    これ以前にも彫ったが野帳に記録しなかった、と考えられなくもないが、鉱物採集の旅を
    始めてみて、信州の険しい山野、河川をくまなく踏破することが予想以上に大変なことが
    身に染みて思い知らされたのがこの頃ではないだろうか。
     ひょっとしたら、の想いもあったろうし、それなら、信州の山野を家紋の「九曜星」で
    埋め尽くしてみせる、と五無斎は決意も新たにしたのではないだろうか。
     300箇所以上も彫った、と言われているが、現在その存在が確認されているのは、この
    中山のものだけである。

 (3)「九曜星」再発見の経緯
     この中山の九曜星は、「五無斎 保科百助全集」が佐久教育会の手によって刊行された
    昭和39年の翌年、昭和40年(1965年)11月12日に再発見された。
     発見したのは、大久保徳一さん(当時73歳)に案内された佐久教育会のメンバーであった。
    大久保さんは、明治34年(9歳のとき)と明治42年(17歳のとき)に鉱物採集の旅の途上の
    五無斎に直接会っており、当時の様子を知る数少ない生き証人の1人であった。
     現場を訪れ、落葉やつる草や土砂を取り除くと「九曜星」がクッキリと現れた、という。
     この再発見からさらに20年近くが経った昭和58年3月に「ニギリギン式教育論」の著者
    斎藤 實氏がカメラマンなどを伴って存在を確めた。既に、大久保徳一さんは亡く
    大久保家そのものが無人の廃屋になっていた。この山、と判っていても、九曜星を探し
    出すのに、丸2日かかった。風化が進み、よほど注意しないと判別し難い、状態であった
    らしい。

3. 五無斎の九曜星紋を訪ねて

   私のHPが縁で知り合った、京都の石友・Tさんが、五無斎縁の鉱物・玄能石を採集したいという
  ので案内して差し上げた。その帰途、「九曜星紋」の場所を突き止めるため、長門町落合に
  立ち寄ることにしていた。
   前々から、文献をもとに地図で大体の当りをつけていたが、斎藤 實氏の『(3人がかりで)
  丸2日かかった。』とあるところから、探査1回目の今回は、大体の目星がつけば、御の字
  と気楽に考えていた。

 (1)場所
    文献の記述によると、次のようなことが明らかになった。
    @現在の小県郡長門町落合
    A”中山”の頂上の岩の東向き傾斜面に彫りつけてある。
    B中山は高さ15m、周囲4、50mの山というより、丘
    C中山の西側は、切り立った崖で30mくらい下を和田川の急流が流れている。

    これらの情報をもとに、10万分の1の自動車道路地図を見ると、
    @”落合”なる地名はある。
      この地名の由来を示すかのように、依田川(旧中山道)と大門川(大門街道)が落ち合う
      (合流する)位置にある。
    A中山は、”山”と言っても、高さが15〜30m程度の”丘”らしいく、当然地図にはない。
    B和田川の岸辺にあるらしいが、”和田川”が地図に見当たらない。これは、和田峠から
     流れてくる依田川の地元での呼び名だろうと考えた。

     上田市から152号線(途中から142号線と重なる)を南下し、長門町に入ると、道路脇の
    標識に”落合”があるのに気付いた。
     この先で、道路は旧中山道と大門街道に分かれるが、和田川沿いと考え、旧中山道を進む。
     すると、左手に何となく”中山”の記述に合いそうな急な崖をもつ”小山”が見え
    それに”吸い寄せられる”ように近づいた。

       
     落合の標識            中山【和田川から見る】
                 中山

    直感で、ここに違いない、と感じ、近くの民家のご主人に聞く。

     私  「大久保徳一さんの、お宅は何処でしょう?」
     ご主人「墓参りかい?」(この日は、盆の13日であった)
         と言いながら、表に出て来られた。
        「あそこが、大久保さんの家があったところで、車はあそこに停めると良い」
         と言ってくれた。
     私  「五無斎の・・・・」と言いかけると
     ご主人「五無斎さんの(九曜紋)は、この上だ」と教えてくれた。

     踏み分け道を登り、ものの1、2分で頂上に着くと、3畳敷き分位の岩場があり、ここに
    間違いない、と確信した。
   

    山頂で「九曜星紋」を指差す

 (2)中山の「九曜星紋」
     頂上部には、閃緑岩が露出し、畳1畳分ほどの東に傾いた大きな岩の平らな表面に
    3行×3列=9個の円が掘り込まれている。確かに、ここにあると言われなければ気付か
    ないほどに風化している。

    「九曜星紋」

    【九曜星紋の寸法諸元】
    1曜の直径:5〜6cm
       深さ:約2mm
    縦の長さ :20cm
    横の長さ :18cm

4.おわりに

(1)機会があれば(作って)探したいと考えていた五無斎が残した「九曜星紋」を訪れる
  ことができ、今年の夏休みの1つの課題を達成できた。
   ここに立つと、明治34年(1901年)、今から100年以上前に、五無斎がタガネとハンマーで
  彫り込む姿が眼に浮かびます。
(2)五無斎は、多少の誇張はあるだろうが、信州の山野に300箇所以上の「九曜星紋」を残した
   と伝えられており、まだまだ、未発見のものが眠っている可能性があります。
    未発見のものを探すという楽しみもあり、次の目標ができた。
(3)五無斎がなぜ「九曜星」を彫るようになったかは先に述べましたが、”自分が訪れたことを
   誇示する意味があった”と述べる人がいます。現在、ただ1箇所、存在がハッキリしている
   『中山の九曜星紋』を見る限り、これは当らないと思います。
    誇示する意図があれば、五無斎のことですから、もっと違ったやり方をとった筈です。
   @もっと大きく
    五無斎の言葉を借りれば『デカク』彫ったであろう。中山のものは、20cm×18cmで
    私の片手に隠れてしまいそうな、慎ましいものです。
   A中山の頂上の東向きの斜面に彫られているが、目立とうとするなら、和田川に面した
    ”西向き”の壁に彫ったであろう。
     ここに大きく彫れば、当時人家も疎らであったと思われるこの付近のこと、旧中山道を
    通る人たちからも、見えた筈ですから。
(4)私は、”東向き”に彫ったことに意味があると推測しています。なぜなら、東北の方角
   約8km先に、五無斎の故郷「山部」があるのです。
(5)千葉県の石友・Mさんから、五無斎の家紋は「角九曜」紋であるとご教示いただいた。
   『九曜紋には、「割九曜」「九曜」「抜け九曜」「かげ九曜」「九曜菱」「結び九曜」
  「石持ち地抜き九曜」「角九曜」「かげ重ね九曜」などあったが、五無斎の家紋は「角九曜」と
  呼ばれるものであった。』

  家紋図鑑
  

5.参考文献

1)佐久教育会編;五無斎 保科百助全集 全,信濃教育会出版部,昭和39年
2)佐久教育会編;五無斎 保科百助評伝,同会,昭和44年
3)平沢信康:五無斎と信州教育 野人教育家・保科百助の生涯,学文社,2001年
4)草下英明:鉱物採集フィールドガイド,草思社,1988年
5)須藤 實:ニギリギン式教育論(上)(下),銀河書房,1987年
6)井出孫六:保科五無斎 石の狩人,リブロポート,1988年
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