黒頭巾に告ぐ(保科五無斎遺稿)

          黒頭巾に告ぐ(保科五無斎遺稿)

1.初めに

 私が五無斎こと保科百助(ほしな ひゃくすけ)を知ったのは、草下英明先生の「鉱物採集フィールドガイド」の
長野県小県郡の鉱物産地めぐりの章で、有名な武石村の「やきもち石」の発見者として紹介してある数行の
文章でした。
 それ以来、五無斎の足跡を訪ね、その結果をHPに掲載したところ、五無斎を研究されている千葉県の
石友・Mさんから、今からちょうど100年前、明治38年(1905年)の読売新聞のコピーを送っていただいた。
 その後、調べてみると、明治43年(1910年)7月23日の読売新聞紙上に”黒頭巾”なる人の筆になる
『旧藩と新人物 (五)信越(二)』の記事が掲載されていることがわかった。
 厚かましくも、石友・Mさんに、この紙面のコピーの入手をお願いしたところ、程なくしてお送り頂いた。

   
       読売新聞第5面【明治43年7月23日】

 ”黒頭巾”に対して、五無斎は明治43年8月13日から22日にかけ、「信濃公論」誌上で『読売新聞記者
黒頭巾に告ぐ』という反論を試みているが、そこには嘗ての舌鋒鋭い五無斎らしさが影を潜め、これが
五無斎の遺稿となっている事も知った。
 (五無斎が亡くなったのは、翌、明治44年5月であった。)
 これらを、少しでも鉱物を愛好する人々に知って頂きたいと思い、このページをまとめてみました。
(2005年3月調査)

2. 旧藩と新人物   黒頭巾

  以下、読売新聞の記事を引用しておきます。難しい漢字の読みや注記を(  )内に示し
 原文の不鮮明な個所は、”□”や”?”を付けてあります。

        「旧藩と新人物」

  石友・Mさんが解読してくださった資料を、ほとんど使わせていただいていますことを、お断りしておきます。

    旧藩と新人物 (九十九) (禁転載)  黒頭巾
         (五) 信 越 (二)

◎先年、読売新聞が、海内(かいだい)奇人傳を募集せしとき、岡山の中川横太郎と共に、隻絶(そうぜつ)
 の名を博したるは信州の保科百助也。

◎我輩、約20年前、備前(岡山県)の閑谷黌を訪ひ、山間の途上、中川に邂逅し、樹蔭に数刻立談して
 別る。彼や鬚髪(びんぱつ)白く、体格逞しく、風采堂々たり。眼一丁字無けれども、巧みに漢字を操り
 雄弁流るゝ如し。
 彼大阪の大博覧会に病んで暴歿し、天下の奇人は、今僅かに保科百助あるのみ。

◎輓近(ばんきん)、信州の人物、天下を冠して呼ぶべき者三人あり。所謂、天下の糸平。始めて西比利亜
 (シベリア)を単騎横断したる男福島、而して天下の奇人保科以て之に加ふべし。

◎保科は小學教員の出身也。近年落魄(らくはく)し、或は筆紙墨(ひつしぼく)の行商を為して縣内の小學を
 歴訪し、時ありては自ら代議士の候補に立つなど、其の行動、往々、常軌を逸するものあり。彼、陽狂して
 此に至る乎。我輩頗(すこぶ)る其の志を悲しむ。

◎保科は、浅間山下の人。其の始(はじめ)、事に由つて、鉱物地質の學に興味を感じ、信州の鉱物地質を
 闡明(せんめい)せんことを期し、博士神保等に標本を送つて指教を請い、揶揄(やゆ)せられて益(ますます)
 発奮し、教職を抛(なげう)ちて、専ら標本を採集し、彼が金鎚に叩かれざる名山あること無く、縣内百個の
 鉱物地質の標本一揃宛(づつ)寄付し畢(おわ)る。
 個人として一の難事業たるを失わず。

◎最後に、彼が、長野高等女學校に寄付したるものは、品種特に豊富、之を評価すれば、千五六百金の
 値(あたい)あり、其のもの高尚にして科程(かてい)に合わず、以て學校の宝物となす。

◎彼、もと外國語を知らず、研究を進むに随(したが)って、素養無くして能(よ)くこの大業為し難きをを感じ
 即ち一切の秘蔵品を女學校に献じ、銀杯を賜るといふ。

◎彼が、嘗(かつ)て、知友を招きて「百盃會」を催ほせるは、標本献納の賞盃百箇を披露するものにして
 世間、極めて珍とするところならずんばあらず。

◎彼は、歌も詩も、或いは俳句も口を衝(つ)いて出ず。林子平に倣って五無斎と称し、或いは逆一(ぎゃくいち)
 などと号す。演説は頗る巧也。

◎我輩思うに、彼は、一種の教育狂にして、信州に於ける教育勃興の際に輩出せしめたる時代的産物なら
 ずんばあらず。

◎蓋(けだ)し、回向院に入って見れば好角狂あり。神風の伊勢の國よりは、山陵狂木村一郎を出さずして
 已(や)む可(べか)らず。

◎木村一郎も亦(ま)た小學校長より山陵狂となりて四方に周遊す。撃剣(げきけん)道具を始め、書籍稿本等
 一切の所蔵物を双肩に荷(にな)ひ、史家を尋ねて、熱心に山陵研究を談ず。声涙共に墜(お)つ。
 保科と東西の二清狂(せいきょう)也。

◎我輩が、特に比に教育狂保科を紹介するは、保科を出せる信濃の一大教育國たるを表章(ひょうしょう)
 する所以也。

3. 読売新聞記者黒頼巾に告ぐ(遺稿)       五無斎保科百助

 読売新聞にこの記事が掲載されて間もなく、明治43年8月13日から11月22日にかけて、彼が主催する
「信濃公論」の第93-98号に反論が掲載されていますので、読売新聞の記事と五無斎の反論を対比して
引用してみます。

 明治43年7月23日発行、読売新聞第1万1千9百18号を見るに、旧藩と新人物と題し、其信越地方の
人物を月旦(げったん:月旦評【人物批評】の略)するものを見るに、五無等の事を褒(ほ)めたるが如く
又、貶(けな)したるが如きを見る。
 当時、下伊那郡の巡回講演に際、1日6、7時間の講演を為し、夜に入れば酉水(酒)を天口し(呑み)
酉卒し(酔い)、且つ垂目(睡)するもの40日の間、1日の如かりし故に、又如何ともすること能はず。
 然り而して、来る9月1日よりは、又々北佐久郡に入りて、同じく10個所計り巡廻講話を為すの兼約あれども
滋に小閑を得たれば、彼れ黒頭巾君の全文を掲げて之を批評もし、且つは最近の五無等を紹介す可し。
 勿論褒(ほ)められたるは頗(すこぶ)る甚(はなは)だ嬉しけれども貶(けな)されたりとて甚だ迷惑にては
無し。只事実の相違するものあるは稍(やや)感服せず。
 之れ本文一編を草する所以なり。

・先年読売新聞が海山内奇人伝を募集せし時、岡山の中川横太郎と共に隻絶(そうぜつ)の名を
 博したるは信州の保科百助なり。

  評に曰はく。奇人伝を募集し旧藩と新人物などの題下に田舎人までをも玩弄(がんろう)すること頗る
 悪しき習慣と謂(い)ふ可し。小学校の先生方は二宮尊徳を玩弄し、軍人連は広瀬某を玩弄し、江戸村の
 新聞屋と政治屋とは桂太郎、西園寺公望等を玩弄す。然れども玩弄さるるものに取りては損益共に無く
 何れかと言はば、稍愉快なりとも感ずるものなり。只奇人伝募集の折、五無等を鰹節の代用品に供して
 懸賞金を得たる横着物のありたりと伝ふ。言語同断なる仕方と謂ふ可し。黒頭巾君幸に此横着物の
 郷貰姓名、並に前科何犯の曲物なるや御通知に預り度し。懸賞金の半額を得て、其又半額を貴下に
 致すべし。
 呵々。

・吾輩約20年前、備前の閑谷校を訪ひ、山間の途上中川に解逅し樹陰に数刻立談して別る。彼や
 鬢髪(びんぱつ)白く、体格逞しく、風采堂々たり。目に一丁字なけれども巧みに漢字を操り雄弁流るるが
 如し。
 彼大阪の大博覧会に病んで暴歿し、天下の奇人は今僅かに保科百助あるのみ。

  評に曰はく。天下の三字稍不穏当なり。隅から隅まで探したらば猶ほ多々ならん。敢えて当らず。
  々々々々々々。
  尤(もっと)も明治元年6月8日、日出づるの時を以つて生れたる五無等は明治1百1年6月7日
 日没する時を以つて、目出度往生安楽国となる筈にて、今後尚ほ57年半の問此の世の中に生存する
 筈なれば夫迄は此三字謹んで貴下に御返却申さん。
  奇妙の奇の字、稍不平なり。是亦御返却申さん。相成る可くは畸の字に御交換ありたし。然れども
 強いては言はず。
  中川君暴歿の病名承り度し。五無斎は常に心臓麻痺若くは脳溢血にて暴歿せんと欲するものなれば
 なり。

・輓近(ばんきん)、信州の人物天下を冠して呼ぶ可きもの三人あり。所謂天下の糸平。始めて西比利亜
 (シベリア)を単騎横断したる男福島。而して天下の奇人保科を以つて之に加ふ可し。

  評に曰く。糸平は木ツ葉商人なり。男福島は黄金に騎(またが)りて西比利亜を旅行したる好運児なり。
  胡魔すり男の胡魔化し男の子爵、渡辺千秋などを配せられ度し。

  信州で名物男見立つれば
   保科五無斎 佐久間象山

  謹んで辞す。々々々々々。

・保科は小学絞教員の出身なり。近年落魄(らくはく)して或は筆紙墨の行商を為して県内の小学校を歴訪し
 時ありては、自ら代議士の候補に立つなど、其行動往々常軌を逸するものあり。彼陽狂して此に至るか。
 吾輩頗る共志を悲しむ。

  五無等の落魄は只に筆墨商のみならざるなり。今其一般をものせんか。前記明治元年6月8日に
 生れたる五無等は、13才にして父を失ひ、20歳にして母に別れ、水呑百姓の子なれば旨いものを
 食いたることなく、善き着物など着たることもなし。保科弾正の本家なりしか将(はたま)た別家なりしか
 善くは分らざれども大の憶病者にて、頗(すこぶ)る甚(はなは)た戦争を厭い、又家業好きなるものの
 子孫に生れ、徴兵に出る事が厭(いや)さに師範学校に入学して、四ケ年の課程を了(おわ)るに
 満5ケ年を要したる程の痴者なれば、忠君愛国を説くの資格なく、親孝行をしたる事は只の一度も無く
 兄弟喧嘩も度々する程なれば、孝悌忠信を談ずるの勇気も無ければ、夫の人の子を賊(そこな)ふの
 一大罪悪なるを愧(は)じ、義務年限の10年を終るや否や、謹んで辞職を届け出で、或は石屋と変り
 鳥屋と化(ば)け筆屋と転(ころが)り、新聞屋の社長兼小使と落ちたるなり。此間常に貧乏の2字と
 悪戦苦闘を継続したりしは、乃木将軍が難攻不落の旅順港に於けるよりも豪気し。一定の収入は
 無けれども、1日3度宛はママも喰はねばならぬなり。
  授業料五銭以上百円以下随意といふ規則にて、私塾の経営などして見たれども韓国人の教育に手を
 焼き見事失敗に終りたり。今日以後は如何になり行く事やら、方針さへ立たず。古往既に斯の如し
 今来も亦大差なからん。
  代議士の候補に立ちたるは真に代議士とならんとしたるには非ず。其故如何となれば、国家問題
 などは絶えて分らざればなり。且つ1、2万の金なくして、当選覚束(おぼつか)無し位の簡単なる問題の
 分らぬ程なる馬鹿者では無けれども、立川雲平や小川平吉の輩を落選せしめんと、大枚60金を投じて
 信濃毎日と長野に広告したるまでなり。当時五無等が推薦したりし、片倉兼太郎君は藍授褒章を
 黒沢鷹次郎君は勲六等を、佐藤寅君又文部省より表彰され、次いで首席の県視学となりし小林有也君は
 高等教育会議員に再選せられ、渡辺敏翁亦文部省より表彰せらる。次回の候補者として推薦したる
 同学の友にして、尻から1、2を争ひたる三村の寿八さへも文部省より表彰せらるるの光栄を有せり。
 快言ふべからず。
  立川雲平は間も無く堀川監獄在勤を命ぜられ、次いで東京監獄に転勤となり、小川平吉が主義主張の
 豹変は満天下の耳目に曝(さらさ)され、小林万次郎は外濠線を数回乗り廻したる丈ケにて5万の金を費し、
 前島元助は貯蔵銀行を喰べて勲四等を返納し、今は芸者置き屋の主人となる等、快の字の上に痛の字を
 載せざる可らざる等世は様々なり。凡そ之等の輩と伍すること非常の恥辱なれば、今後断然侯補には
 立たぬ筈なり。然れども、降旗元太郎が松本地方の人に推され、中島精一が埴科の青年に薦められたるが
 如きことあれば、乃ち止むを得ず与望に応ずることもあらん。

  こころある人に見せ度し五無斎が 鳥の料理と国の料理を

  斯く真始目なる五無等に冠する陽狂の二字を以つてせらるること、其意を得ず、且つ亦例によって
 御返納申し上げん。

・保科は浅間山下の人、其始め事に由つて鑛物地質の学に興味を感じ信州の鑛物地質を闡明(せんめい)
 せんことを期し、博士神保等に標本を送つて指教を詣ひ、揶揄せられて益々発憤し、彼が金鎚に叩かれ
 ざるの名山あることなく、県内百個の小学校に鑛物地質の標本を寄附し畢る。個人としては一の
 難事業たるを失わず。

  評曰、五無等は浅間蓼科の両火山より噴き出したる火山灰の中に菜ノ葉、人参、牛苧(ごぼう)、稲
 麦、菽(まめ)などを作りて、コを食らいたるものの子孫にして、同じく是等の物を食ひて生長したるなり。
 生年正さに43才体重は19貰5、6百匁、其軽調子なること、其猛烈なる法螺吹きなる事等は
 此火山灰の性質を稟(う)けたるなり。

  我法螺(ほら)は吹くとも尽きじ信濃なる 浅間の嶽はふき尽すとも

  第1回 鑛物岩石標本の採集は、明治34、5年の2カ年にして、第2回の大採集は昨42年中なり。
 其数に於ては第1回に2倍し、其重量に於ては其10倍以上なれば、若し汽車に積みたらば10車位に
 なりしならん。併し、今回は全く金儲け主義に出でたれども、只1カ年間生存し居たりしに過ぎず。
  天は五無等に対して稍吝(けち)なるに似たり。五無等が信州の山河に対して鉄鎚を揮(ふる)ひたるは
 正さに信州、否日本、否5世界の教育界に一大鉄鎚を加ふるの趣意に外ならず。

・最後に彼が長野高等女學校に寄附したるものは品種特に豊富之を評価すれば千五六百円の値あり。
 其もの高尚にして科程には合はず。以つて学校の宝物となす。

  評曰。千五六百金とは少しく針小棒大に過ぐ。千の一字を御返却申さん。宝物云々とあれども
 現時の教師、八木貞助なるもの中々根気の善き男にて、該標本を利用しつつあり。

・彼、素外国語を知らず。研究を進むるに従つて素養なくして能く此の大業を為し難きを感じ即ち
 一切の秘蔵品を女学校に献じ銀盃を賜はるといふ。

  評曰。外国語はナショナル読本4の巻程度なるが上に、数学は平算の開平開立さえも出来ず。鑛物学
 は結晶学なり。然り而して、結晶学は之れ高等数学なり。之れ我等が神保博士より奇石亭的地質学者
 骨董的鑛物学者の仮名を与えられたる所以なり。其之を女学校に献じたるは真に献じたるに非ず
 して永久保存方を命じたるなり。秘蔵品中2000余冊の蔵書は、之を信濃教育会に下附して之が
 保管方を命じおきたり。又此銀盃は、同学の友にして松本市小学校長たる三村寿八郎に下附して
 之を紀念館内に陳列方を命ずる筈なり。

・彼が嘗ての知友を招きて、百盃会を催せるは、標本献納の賞盃百個を披露せるものにして世間極めて
 珍とする印たらずんばあらず。

  評曰。五無斎は従来各地漫遊の序(つい)で、到る所、油酒を飲み廻りたること新聞記者やへポ官吏より
 豪らし。
  ソが罪亡ぼしの一端として、信濃教育会と旅舎犀北館の後庭を借り受け、4斗樽2本を掴え付け
 上水内郡 柏原学校害虫駆除の成績品たる蝗(いなご)三斗を炒り付け置き、大山知事以下の数百人を
 招待し、鑛物標本の展覧会を開きたるなり。当時御神酒(おみき)のデカ余りたるには、稍閉口せり。

・彼は歌も詩も或は俳句も口を衝いて出づ。林子平に做ふて五無斎と称し或は逆一などと号す。
 演説は頗る巧みなり。

  評曰。五無斎素は詩をつくらず。又俳句を知らず。歌は和歌にあらず狂歌に非ず。一種戯歌とも
 名づく可きものなり。往々にして蜀山以上のものもあれども多くは駄作なり。其五無斎と号するは、

 草鞋(わらじ)なし。おあしなしには。歩けなし おまけなしとは おなさけもなし。

  と詠みたる以来の事なり。此歌は諏訪郡瀬沢といふ所にて、草鞋を買はんとしける折あるじの老嫗
 まけなしえと頑張りたる折作りたるものにて夫の林子平が

  親もなし妻なし子なし板木なし 金も無ければ 死になくもなし。

  などと愚痴りたるが如きものに非ず。戦勝国の男児、豈(あ)に斯かる愚痴を溢(こぼ)すの必要あらん哉。
 子平等と同様の取り扱ひ受くる事、千古遺憾とする所なり。又逆一の名は前年奇人伝を物せし
 横着物の名づけし所なり。コハ松本小学校長の三和寿八郎と尻から1、2の競争を為したる折の事
 ならんも去りとは悪ろき綽名を什けたりと謂ふべし。演説は頗る巧みなりとの評当らず。演説といふよりも
 駄洒落がうまし位の程度ならんか。其稍聴衆の足を留むるは元来書といふものを読まずして独創の
 見に富むによるならんか。無遠慮にして、他人の言ひ得ざる所を言ふも、亦其一因ならん。容貌態度の
 滑稽なるにも困ることならん。又、凡そ一事の主義主張を発表するや飽くまで之を貰徹せしめんとの
 執念より同一の事柄を拾遍、二十遍、否五十遍、百遍も之を繰り返しつつ論議することにも因ること
 ならん。長野高等女学校の渡辺敏翁の如きも亦、3、40年間、同一の演説を為すの習慣あり。世人の
 多くは一卜度為したる演説は既に陳腐に属したりとして、新奇なる題目を選ぶの悪癖あり。芝居帥の
 上乗なるものは、10回も20回も同一の芝居を興行するなり。演説師にして芝居師に若かざる可(べ)けん哉。

・吾輩謂ふに彼は一種の教育狂にして信州に於ける教育勃興の際に輩出せしめたる時代的産物なら
 ずんばあらず。

  評曰。文字の使用権は各人の随意なりと雖も、凡そ人物を月旦するに当つては奇の字、狂の字等を
 濫用するは稍忌(い)むべきことなり。世上斯かる文字を冠せらるるときは、直ちに腹を立て絶交などを宣言
 するものあらん。謹むべきなり。
  信州に於ける教育勃興の際など称すと雖(いえど)も斯(か)かること一度も無し。
 只校舎の新築など、稍広壮なるものは在り。コは山国なるが故に材木の稍豊富なりしが為なり。
  信州の教育も教授法も萎靡(いび)不振の最も甚しきものなること、世界各国と共の軌を同ふす。
 之れ五無等が「信濃公論」を発行して斯道(しどう)の為め、其教育主義を発表しつつある所以なり。
 信州教育の進歩発展は之より多く見るべきものあらんか。

4. この記事を読んで

 (1)「信濃公論」上で反論の理由
    五無斎は、、自分が主催しているとは言え、公器ともいえる「信濃公論」上で反論したのは単に
    ”毀誉褒貶(きよほうへん)”が気に入らなかった訳ではなさそうです。

    『只事実の相違するものあるは稍(やや)感服せず』

    という、ジャーナリストとして、ごく当り前の動機だったようです。しかし、その蔭には、読売新聞
    明治38年5月23日号掲載された、「海内奇人伝」の筆者たる”一瀉千里”を”横着者”と呼び捨てている
    事からも解るように、”江戸村(東京)”の新聞記者に対する、皮肉も読み取れます。

 (2)『黒頭巾』とは
    石友・Mさんが、『黒頭巾』の”郷貰姓名、並に前科何犯の曲物なるや”を調べてくれましたので
    以下に引用させていただきます。

     『黒頭巾』 とは 【横山健堂  (本名)達三 1871年 (明治4年) −1943年 (昭和18年)】のことです。
    山口県萩に生まれ、旧制山口高等学校から東京帝国大学国史科に進学、卒業後は読売新間
    毎日新聞記者を経て、駒沢大学・国学院大学教授として教壇に立った。
     昭和18年(1943)東京で没するまで、終生健筆をふるい、黒頭巾・火山楼の別号でもよく知られた。
    詩文の才は吉田松陰門下だった父、横山幾太ゆずりであろう。漢文を基調として、短句をつらね
    短節に切る独特の文体で『人国記』の復活を図った『新人国記』や「中央公論」連載の人物評論を
    提げて文章界に確乎とした地歩を占め、以後、『旧藩と新人物』、『文壇人国記』、『日本教育史』
    『人物研究と史論』、『現代人物管見』など数多くの名著を遺した。
     『吉田松陰』、『高杉晋作』、『大西郷』など幕末維新への深い造詣に基づく評伝も多く、また特に
    『防長の精華』をはじめ山口県に関する著作によって、広く郷土の紹介に努めた。

     これを読むと、”一瀉千里”なる者とは、人品骨柄が違ったようで、五無斎も真面目に反論(お相手)
    致そうか、という気になったようです。

 (3)五無斎の想い
     「信濃公論」上のこの記事が、五無斎の遺稿となっていることを知った。このころ(亡くなる半年前)
    五無斎自身、自らの体力、気力の衰えを薄々感じていたと思われます。
    なぜなら、
    @ 「海内奇人伝」で、隻絶(そうぜつ)の名を博したる岡山の中川横太郎について
      『暴歿の病名承り度し。五無斎は常に心臓麻痺若くは脳溢血にて暴歿せんと欲するものなればなり』
    A自らの育った佐久の風土と自らの履歴書をキチンとした形で、残して置きたかったのでは
      ないだろうか。
      それが、  『只事実の相違するものあるは稍(やや)感服せず』、となったのであろう。
    

5. おわりに

 (1)最後になりましたが、新聞記事のコピーをお送りいただいた、Mさんに改めて御礼申し上げます。

6. 参考文献

1)一瀉千里:奇人百種 第一等 保科五無斎,読売新聞5月23日号,明治38年(1905年)
2)黒頭巾:旧藩と新人物,読売新聞7月23日号,明治43年(1910年)
3)佐久教育会編;五無斎 保科百助全集 全,信濃教育会出版部,昭和39年
4)佐久教育会編;五無斎 保科百助評伝,同会,昭和44年
5)平沢信康:五無斎と信州教育 野人教育家・保科百助の生涯,学文社,2001年
6)草下英明:鉱物採集フィールドガイド,草思社,1988年
7)須藤 實:ニギリギン式教育論(上)(下),銀河書房,1987年
8)井出孫六:保科五無斎 石の狩人,リブロポート,1988年
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