しかし、送っていただいたときは、フィールドでの採集が忙しく、そのままになっていた。
フィールドが氷雪に覆われているこの時期、気にかかっていたこの資料を取り出し、調べて
みた。
この過程で、読売新聞が、保科五無斎を取り上げた記事は、5年後の明治43年7月23日号に
”黒頭巾”なる人が『海内奇人伝』を掲載したものもあることが判った。
”黒頭巾”に対して、五無斎は明治43年8月13日から22日にかけ、「信濃公論」誌上で
『読売新聞記者黒頭巾に告ぐ』という反論を試みているが、そこには嘗ての舌鋒鋭い五無斎
らしさがかげを潜め、これが、五無斎の遺稿となっている事も知った。
(五無斎が亡くなったのは、翌明治44年5月であった。)
これらを、少しでも鉱物を愛好する人々に知って頂きたいと思い、このページをまとめて
みました。
(2005年2月調査)
【後日談】
『募集 奇人百種(禁転載)
◎ 逆一先生
◎ 糞の成分を論ず
◎ 郡視学を女郎買に導く
◎ 人の子を賊(そこな)う
「義務年限に縛(はく)せられ長く人の子を賊ひつつありし小生は、今般断然其職を辞して
おあしなし草鞋(わらじ)なしでは歩けなし
とは此時に詠めるものなり。
われ死なば佐久の山邊(やまべ)に送るべし焼いてなりとも
と高誦す。且曰く深山幽谷の苦業何時死せんも計られず、若し樵人(きこり)の屍を
2ケ年の旅に金気はぬけにけり
獲(う)る所の鑛物を類別し、標本を造りて函に容(い)れ、之を帝国博物館、理科大学
既に壮歳(そうさい)を過ぎて妻なし、嘗(かつ)て黒姫山に上(のぼ)りて「嬶(かかあ)
このページを掲載したところ、Mさんから、文字・読みの誤謬の訂正と不明個所連絡の
メールを戴いた。”緑色”の部分です。
Mさんは、国会図書館のマイクロフイルムで確認し、活字を国会図書館と読売新聞社で
確認いただいたとのこと。厚く御礼申し上げます。
△ 第一等
(百)保科五無斎
一瀉千里
ミスズ刈る信濃の國の片山家(やまが)、佐久の郡に生ひ立ちし、保科五無斎其人は
今年取って38歳、耳目鼻口は人並ながら、奇人奇人と遠近(をちこち)に聞ゆる物音
心得たりと、竹槍ならぬ筆尖もて正体如何を見届ん。
長野縣尋常師範学校在学5年目出度(めでたく)卒業したはよかったが、憐れ其席次は
尻から一番、逆一先生とは逆様から一番という小学児童の彼に対する悪口なりと知られたり。
毎年1回宛(づつ)必ず開かる縣教育には、屹度(きっと)臨席して演説を申込む、
併(しか)し其演題は「糞の成分を論ず」とか「教育会長の無能を嘆(たん)ず」と
かいふ種類のもので、何時も幹事から排斥される、スルと他人の演説に対しドラ声上げて
妨害を試むることは、夥(おびただ)しい。
郡視学が巡回して来ると、其旅宿へ押し掛け、直(ただち)に其鹿爪(しかつめ)らしき
腮(あご)の髭を引き掴み、四隣へ轟く大音声にて、「遊郭へ行け」と迫るので、
郡視学も外聞を憚るのと、腮の痛さとに已むを得ずお伴をするという始末。
縣下漫遊の途(と)に上り候」とは彼が辞職の広告であるが、サー是からが小奇人の
境涯から一躍して、大奇人と呼ばるるに至ったのである。
南方秩父山中より北方佐久郡の大日方へかけ、蜿蜒(えんえん)たる
一帯の山脉(さんみゃく)は、始原紀より近古紀に至る凡(すべ)ての岩石を包蔵し、
鑛物学の研究に好材料を供するの地なり、彼学校を辞してより、羊羹色の洋服を穿ち、
麻製の大袋と鑿(のみ)と鎚(つち)とを携へ、此山脉に入りて鑛物の採集に従ふ、
或時は懸崖に臨んで千人仭の谷底に落ちんとし、或時は猛猪に逐(お)はれて毒牙に
掛らんとし、備(つぶさ)に艱苦(かんく)を喫(きっ)するもの2年有余、
加之(しかのみならず)別に余財なき身の生命を支ふるに窮せざること能(あた)はず
彼即ち山を出(い)でて一友に金を借らんとして謝絶せらる。
おまけなしとはおなさけもなし
彼一日突然山を下(くだ)りて信濃教育会に臨む、午餐の時に及んで演壇に立ち
なまでなりとも
斂(おさ)むるあらば此(か)くして貰はんと、手帳へ書き付け置けり云々。
彼れが採集せし所の鑛物無慮(むりょう)五、六百種に及ぶ、帰りて故舊
(こきゅう)に対すれば、枯骨瘠顔皮膚黒土の色を作(な)す、乃(すなわ)ち謡ふ
ていう。
鍋釜ならばさぞやよからん
及長野縣下の各小学校に寄贈す、其行為を奇特として知事より木杯を受領すること既に
100個に垂(なんなん)たり。
彼今や長野市横澤町に保科塾を開き、二百余名の子弟を教(おし)ふ、其塾則亦奇とすべし。
本塾の目的は読書癖ある人物を養成し独学の精神を鼓吹し社会百般の実務に応ずるに在り
授業料は毎月5銭以上随意なりといへども可成(なるべく)多きを可とす、毎月之を授業料函に
投ずること但記名を許さず。
を保科にドーダ黒姫」と吟じて大笑したと聞く、蓋(けだ)し冒険に際して後顧の憂なからんが
ため独身を持するなりといふ。』
まさか、五無斎の本名である、”百助”を取り上げただけの”ひゃくしゅケ〜”では
ないと思います。
冗談はこのくらいにして、奇人百種のNo1(第一等)になった五無斎でした。名前の
前の”(百)”は、今でも各種の番付などに見られる”横綱”などと同じように
ランクを示す”点数”だろうと考えます。
つまり、五無斎は文句なしの”百点満点”であった。
(2)一瀉千里
筆者の「一瀉千里」なる人が読売新聞の記者なのか、調べた限り良く判りません。
記事の内容には、肝心な”五無斎”の名前の由来を始め誤謬が多く、キチンと調査して
書いたものではなく、伝聞情報を寄せ集めて書いたような印象です。
(3)その結果、全体として、五無斎の言動の奇異な面のみを強調している嫌いがあり、
五無斎の発言や行動の根底にあったものが何なのかを知るためには、「参考文献」に
掲げた書に頼るしかなさそうです。
(当時の新聞記事に、そこまで求めるのは酷かもしれません。)
(2)読売新聞が、保科五無斎を取り上げた明治43年7月23日号を入手し、”黒頭巾”なる人の
筆になる『海内奇人伝』を読み、五無斎の反証とを対比してみたいと考えています。
(3)最後になりましたが、新聞記事のコピーをお送りいただいた、Mさんに改めて御礼申し
上げます。