戸隠地質化石博物館 五無斎100年忌展







     戸隠地質化石博物館 五無斎100年忌

1. 初めに

    2011年春、私のHPの掲示板に『・・・・・1911年(明治44年)6月7日)は保科五無斎が
   なくなった日です。つまり今年は五無斎没100年忌。埋もれさせては惜しい人なので、
   Mineralhunters さん、是非何かやってください。                       』
   との書き込みがあった。
    書き込んだのは特定はできないが、長野県の教育関係者のようだ。大震災以来仕事が
   一段と忙しくなり、「五無斎オタク」を自認する私だが、五無斎100年忌のことをスッカリ失念
   していた。

    何か企画をと、思いついたのが月遅れGWに五無斎ゆかりの場所や産地を巡るミネラル・
   ウオッチングだった。
    長門町落合の「九曜星家紋」、「柘榴石」や「焼餅石」そして「武石」産地などを訪れたの
   は既報の通りだ。

    ・      2011年月遅れGWミネラルウオッチング
      ( Mineral Watching , Jun. 2011 , Nagano Pref. )

    長野県内の博物館や図書館などで五無斎100年忌にちなむ企画があるのかネットで調
   べて見ると、唯一「戸隠地質化石博物館」が2011年9月17日から11月27日まで、『 秋の
   企画展 保科五無斎 〜没後100年展 』
 を開催することを知った。

    ここのところ、土日も休まず働きづめだったが、仕事が一区切りつき、3週間ぶりに休み
   がとれ、山梨に戻り、妻と2人で五無斎をしのぶミネラル・ウオッチングにでかけた。

    ・ 「戸隠地質化石博物館」
       『 保科五無斎 〜没後100年展 』 見学
    ・ 「長野県立図書館」
       五無斎が献納した蔵書の行方調査
    ・ 長野県北部の水晶産地
       現状調査

    五無斎が蒐集(しゅうしゅう)した『長野縣地学標本』の現物や遺品の数々を目の当たり
   にし、献納したDanaの" MANUAL OF MINERALOGY AND PETROGRAPHY " を手にとっ
   てみると、無論会ったことはない五無斎だが、私が想い描いている人物像に血が通った
   ような気がしている。

    それぞれの場所で、五無斎を敬愛する多くの人々のお力添えをいただいたことに、この
   場で御礼申し上げます。
    ( 2011年10月 見学・採集 )

2.  「戸隠地質化石博物館」  『 保科五無斎 〜没後100年展 』

 2.1 場所
    6時に自宅を出て、近くのFSAから中央道にのり、30分ほどで諏訪湖SAに到着。朝ここを
   通るとき、「朝食バイキング」を摂るのが常だ。65歳以上の私はシニア料金750円と100円
   安く、蕎麦、温泉卵そしてエビ・公魚(わかさぎ)の佃煮など諏訪湖の名産品が並び、つい
   つい手が伸びて、皿が一杯になってしまう。

    
          諏訪湖SA 「朝食バイキング」

    食後に、おいしいコーヒーを飲み出発だ。

    岡谷JCTから長野道に入ると、行きかう車の数がめっきり少なくなる。梓川SAで小休止
   のため車外に出ると、肌寒いほどだ。再び北に向かって走ると、右手に水晶産地を抱く
   山が見えてくる。
    地図を見ると更埴SAで下りて北上するのが戸隠への最短コースだと思い、更埴SAで下
   り山道に入った。確かに地図の上での直線距離は短いのだが、起伏が激しく、曲がりくね
   った狭い道路で時間と燃料はだいぶロスしたはずだ。ただ、眼下に秋の気配に染まりつつ
   ある善光寺平の景色や車窓に真っ赤に色づいたリンゴを眺めるとこのコースも捨てたもの
   ではないと思い直した。
    途中の農産物の直売所には、欲しいと思ったリンゴはなかったが、この地方名産の栗が
   おいてあり、1袋(300円)を購入した。(翌朝の栗ごはんは美味しかった)

    9時半過ぎに、「戸隠地質化石博物館」に到着。その外観を見て驚いた。学校をそのまま
   博物館したような姿なのだ。入り口の前には、昔の小・中学校には当たり前にあった、
   「二宮金次郎」の像と気象観測用の「百葉箱」が設置されたままになっている。

       
                外観             「二宮金次郎」像と「百葉箱」
                     「戸隠地質化石博物館」

    それもそのはず、博物館の歩みを博物館の「展示ガイド」で調べると、前身の「戸隠地質
   化石館」は、昭和55年(1980年)、前の年に廃校になった柵中学校校舎を利用して「戸隠
   村郷土資料館」としてスタートした。中学校の校舎をそのまま利用した、何ともエコな博物
   館だ。
    平成20年(2008年)7月、戸隠地質化石館は、長野市茶臼山にある「茶臼山自然館」と
   統合し、長野市立博物館分館 「戸隠地質化石博物館」が開館した、とある。

 2.2 博物館の展示内容
     博物館は3階建て校舎の区切られた各フロア(階)と各展示室(教室)をうまく利用し、
    次のようにテーマ別に展示している、これまたユニークな構成だ。

     3F 常設フロア −長野の自然を知る−
       ・展示室1 大型動物たちのいた長野
       ・展示室2 海だった長野
       ・展示室3 長野の大地の生い立ち
       ・展示室4 生命を育んできた地球の歴史
       ・展示室5 そして、長野の自然を見る

     2F ミドルヤード −モノと出会う場−
       ・キュラトリアルワークルーム
       ・収蔵スペース
       ・生物標本室

     1F ヒトの集う場 −ヒトの営みと共に−
       ・学校資料館・ライブラリー
       ・多目的室・企画展示室
       ・工作室(1階〜3階)

     博物館の名前からもわかるように、常設展示の内容は地質や化石がメインで、鉱物関
    係の展示は、次のように限られたものだけだ。

     ・石炭、石油などの地下資源が生まれた「地質構造」
     ・オパール化したビカリアや虫が入った琥珀などの「変わった化石」

       
              石炭・亜炭               「月のお下がり【ビカリア化石】」
                        鉱物関係展示品

 2.3 企画展 『 保科五無斎 〜没後100年展 』
     企画展は1階の教室1つとその廊下部分を使ったコンパクトなものだ。下の図に企画展
    のレイアウトを示す。

    
      『 保科五無斎 〜没後100年展 』展示レイアウト

     訪れることができない方々のために、会場のそれぞれのポイントから写真を撮影した
    ので、雰囲気を感じ取って欲しい。

        
             廊下「企画展示」                ”偲んで”と”狂歌”

        
          「長野県地学標本」の世界            ”五無斎ゆかりの人々”

        
          ”鉱物学者”としての五無斎            五無斎の遺品と年譜

     以下、それぞれのコーナーについて紹介する。

  (1) 「企画展示」
       廊下の教室寄りの壁に、「企画展示」を示すパネルが掲示してある。そこには、鉄
      槌(ハンマ)を肩に、地学標本を採集して信州の山野を跋渉した五無斎の力強い姿
      が描かれている。
       教室入り口脇には、五無斎が作成した「信州地質図」が掲示してある。

         
              五無斎採集姿                信州地質図

  (2) 五無斎を偲んで
       入口を入った左側に、「五無斎を偲んで」のコーナーがある。五無斎を追悼して各
      地に建てられた石碑の写真や五無斎の事績を記録した出版物などが展示してある。
       五無斎は地学標本採集で訪れた信州各地の露頭に保科家の家紋・『九曜星』を
      彫り、その数100余りと伝えられているが私が現地で確認できたのは、1か所しかな
      い。

     ・       2011年月遅れGWミネラルウオッチング
      ( Mineral Watching , Jun. 2011 , Nagano Pref. )

      展示してある本によれば、黒姫山の溶岩に彫り込んだものがある(あった?)らしい。
     五無斎は晩年”筆墨商”として、筆や墨などを行商しながら糊口をしのいでいた。五無
     斎没後、売れ残った筆墨を長野市のパン屋「精養亭」が売ったという広告も興味を惹
     いた。

        
           黒姫山の「九曜星」                     「精養亭」広告

  (3) 狂歌に見る姿
       五無斎の大好きなものと言えば、○○であった。『天口酉卆』、飲むほどに酔うほど
      に舌は滑らかになり、乞われれば、即興で狂歌を書き与えたと伝えられている。いだ
      だいたほうは、短冊代として50銭〜1円(現在の2,000円〜5,000円)を包んだようだ。
       このコーナーには、五無斎の代表的な自筆の狂歌が展示してある。その筆跡は、
      勢いがあり、五無斎の性格をよく表わしている。

           
       「五無斎」号のいわれ             採集苦行             「玄能石」
                                 狂歌の数々

      左の狂歌は、地学標本採集旅行の際、草鞋を買おうとしたが5厘(りん=1/200円、
     現在の20円くらい)を茶店の老女がまけてくれなかった逸話から「五無斎」の号のいわ
     れを示すものとして有名だ。

        草鞋(わらじ)
        お足(お金)しには
        歩け
        おまけしとは
        おなさけも
                   五無斎

      「五無斎」のいわれとして、生涯独身だったので、”ご無妻”から、という説もあるよう
     だ。

      真ん中の狂歌は、採集行の苦しさを読んだもの。当時、汽車やバスなどの便がなく
     ただ自分の足で歩くだけ。重たい鉄槌と採集した岩石・鉱物を背負って、雨に打たれ
     ながら日暮れの山道をトボトボと歩く。珍しく、弱音を吐いた人間臭い五無斎の一面を
     見る思いだ。

      右は、五無斎が発見し、その存在を中央の鉱物学者たちに知らしめた「玄能石」を読
     んだもの。

      月見ればつちにのみこそ悲しけれ
      玄能石のなきにあうわと

      「玄能石」を採集に行き、月が出る日暮れまでやったが、土(槌:玄能と似たような工
     具の掛け言葉か)しかなくて悲しい。お目当ての「玄能石」はなしという憂き目に会った、
     とでも解釈するのだろうか。
      この歌が秀逸なものか、それとも駄作なのか、私には判断がつきかねる。

  (4) 「長野県地学標本の世界」
       五無斎の名が長野県下のみならず日本全国に知られるようになった契機(きっかけ)
      が、長野県下を地学標本を採集して巡り、調製した標本箱を県下の諸学校のみならず
      帝室博物館にまで献上したことだった。
       標本箱は、目測だが横40cm、高さ80cm、奥行50cmで、頑丈な錠前がついた欅板
      製の外箱の中に9段の引き出しがあり、それぞれの引き出しの中が仕切られており、
      岩石、土器そして鉱物標本が納められている。

      「長野縣地学標本」

       五無斎が明治34年、35年そして42年に地学標本を採集して長野県下を回った事を
      採集日記としてすでにHPで紹介したことがあった。

   ・五無斎 保科百助と信州の鉱物
       ( GOMUSAI Hyakusuke Hoshina and Minerals of Shinsyu , Nagano Pref.)

   ・五無斎 保科百助 長野県地学標本採集旅行記(その1)
               <4月5日〜7月30日>
       ( GOMUSAI Hyakusuke Hoshina's Mineral Hunting Tour in Nagano Pref. -Part 1-
            From Apr. 4 to Jul. 30 , Nagano Pref.)

   ・五無斎 保科百助 長野県地学標本採集旅行記(その2)
               <8月6日〜9月18日>
       ( GOMUSAI Hyakusuke Hoshina's Mineral Hunting Tour in Nagano Pref. -Part 2-
            From Aug. 6 to Sep. 18 , Nagano Pref.)

       このコーナーには、明治34年、35年の五無斎の足取りを示した図やフィールド・ノー
      トに書き残した自筆の地質図などが展示してある。

       「五無斎」の足跡

      
                      フィールド・ノート(野帳)に残した地質図

       フィールド・ノートに各地の地質図を残しているところなど、外面と違って心根は優し
      く、几帳面なところがあった五無斎なのだろう。

       引き出し状の箱の中の段ボール製の標本箱に標本が納められ、添付してある説明
      書がラベルの役割をはたしているようだ。標本箱1つに、説明書きが2枚でセットに
      なっていたらしい。
       写真は、5段目の標本なのだが、標本に貼った「番号」が連続ではなく、入れ違って
      いる部分があるような印象だ。ラベルに欠品を示す(欠)とあるのに、箱にはギッチリ
      標本が詰まっているのも標本とラベルの対応が不一致になっている原因であろう。

      
                   標本

      
               ラベル代りの説明書

       長野縣地学標本については、長野県の小学校長・宮下健司氏が、「保科五無斎地
      学標本にみる考古資料」−五無斎地学標本−」、の論文に詳しく調査結果がある。
       これによると、103の学校、施設から申し込みがあり、途中で取り消したものを含め
      ると111個の申し込みがあったようだ。
       宮下氏は、地学標本が現存するか否かや欠損品の有無などを調査しているが、学
      校の統廃合、はたまた空襲などの影響で半分以上がなくなり、現在40か所に残され
      ているだけだ。
       比較的欠損品が少ない状態で残っていたのは、永年校長室に保管してあった真田
      町本原小学校のものらしい。

  (5) 地質学者としての五無斎
       会場の中央の陳列ケースの中は、”鉱物学者”としての五無斎の野帳(フィールド・
      ノート)、採集標本、長野縣地学標本を受取った帝室博物館などの受け取り証、そし
      てそれらの行為に報いる形で下賜された木杯などが展示してある。

       中央(東京)の鉱物学者の間で五無斎の名が知られるようになったのは、五無斎が
      採集した「焼餅石(緑簾石)」、「玄能石」などの発見者としてであった。
       これらの鉱物標本が展示してある。

         
              球顆状                破断面【緑簾石】
                         焼餅石

         
              武石                    玄能石

       五無斎は、常に野帳を持ち歩いていたようで、書き込みで一杯になった同じ形の
      野帳が数冊展示してある。
       その扉には、いつ、どこで倒れて帰らぬ人になっても周りの人が困らないようにと、
      住所、氏名、生年月日と共に、”遺言”ともとれる次のような”狂歌”が書き込まれて
      いる。

       『 我死なば、佐久の山部に送るべし
                焼いてなりとも生でなりとも

                但し、運賃向払いにて
                    苦しからず           』

         
                 野帳                       「我死なば・・・」

       五無斎が調製した「長野県地学標本」は、長野県内外の学校以外にも、東京帝国
      大学地質学教室、帝室博物館(現国立博物館)そして皇族女学校(現学習院大学)
      などに献納された。
       採集した長野県の珍しい鉱物標本は、東京帝国大学にも寄贈された。それらにつ
      いて、「受領証」が展示してある。

         
                帝室博物館                   東京帝国大学
                            「受領証」

       東京帝大に寄贈した「斜長石」は約一合、とあるところから、『違い石(中性長石』で
      「沸石」とあるのは、『蛇骨石(中沸石、最近の分析でソーダ沸石?)』だったと思われ
      る。
                       

       長野市立女学校に2,000余りの地学標本を寄贈し、明治41年春、賞勲局から「銀杯」
      が下賜され、由来を示す五無斎自筆の箱書きが展示してある。
       ( 展示品は、銀杯ではなく木杯のようだが・・・・・・・ )

         
               「銀杯(木杯?」                 箱書【五無斎自筆】

       長野県地学標本が好評なのに気を良くしたのか、五無斎は2つの企画を打ち出した。

        1) 「おもちゃ標本」
            長野県地学標本は、学校などの教育施設を対象として販売したものだった。
           明治41年11月、個人向けにコンパクトな標本セットを「おもちゃ標本」、と名
           付けて販売した。
            標本箱の中には、謄写版(ガリ版)で刷ったと思われるラベルが入っていて
           『採集者 五無斎』、となっている。

              
                     「鉱物」の部                        「岩石」の部
                                    おもちゃ標本

        2) 関東産 岩石鉱物採集趣意書
            明治43年4月、五無斎は関東地方の岩石・鉱物標本を採集し販売する計
           画の趣意書を持って標本の注文を取って回った。しかし、翌年五無斎はこの
           世を去り、実現することはなかった。

           

           

           
                                   関東産 岩石鉱物採集趣意書
                                    【戸隠地質化石博物館蔵】

  (6) 五無斎を取り巻く人々
       ある意味で”破天荒”な人生を送った五無斎の周りには、彼を愛して支えてくれた
      多くの人々がいた。下の図に五無斎を取り巻く人々を示す。

           
                      五無斎を取り巻く人々

       五無斎を支えた人々は次のように広範囲に及んでいる。

         ・ 新聞・雑誌関係
         ・ 師範学校関係
         ・ 地質・鉱物学関係
         ・ 支援者
         ・ 「保科塾」関係

       各界の代表する人々を紹介する。

            
                 支援者                       マスメディア

            
                 鉱物学者                       支援者

  (7) 五無斎の遺品
       教室の黒板のあった位置に五無斎の遺品が並べられている。背景には、「年譜」
      が掲示してある。

       まず目を惹くのが、保科家の家紋・九曜星を染め抜いた印半纏(しるしばんてん)だ。
      数少ない残された五無斎の写真の中には、襟元に『石屋五無斎』と染め抜いたもの
      があるのだが、それとは違うものらしい。

            
                   半纏                       半纏姿の五無斎

       遺品の中には、晩年筆墨商として売り歩いていた筆が箱に並べられているが、見
      るからに哀れをもよおす。

          遺品の筆

       このコーナーには、五無斎関連の写真が掲示してあるが、ほとんどが、すでに見た
      ことがあるものだった。それらの中で、ただ1枚だけ初めて見る写真があった。それは
      五無斎が長野市妻科に開いた私塾・「保科塾」の写真だった。ここで五無斎は家鴨
      (アヒル)を飼っていたと伝えられるが、2階建ての保科塾の手前にある小さな川で飼
      っていたようだ。

          保科塾

       さて、五無斎の辞世と遺言だが、次のような人を食った”狂歌”を残している。ただ、
      筆にかつての力強さが見られないの気のせいだろうか。

            
                   辞世              遺言

        『 辞世のうたとて     五無斎
          遊(ゆ)つくりと志(し)やばにくらして
          さておいで わしハ一ト(ひと)あ志(し)
          チョットお先へ               』

        『 遺言のうたとて     五無斎 {花押}
          我死なむ佐久の山部へ送る遍志(べし)
          屋以(やい)てなりとも生マでなりとも         』

3. 五無斎蔵書の行方

    五無斎は晩年信濃教育会図書館設立委員の一人に選ばれ、図書館建設に奔走した。
   自分の蔵書1,500冊余を大八車に積んで運び込んだのをはじめ、長野県内外の有志に蔵
   書の寄付を働きかけた。
    こうして、明治40年6月15日、五無斎にとって長年の念願だった図書館が開館した。
   蔵書35,000冊のうち、書籍商の西沢喜太郎が新刊本13,000冊あまりを寄贈したと言われ
   る。

    五無斎が寄贈した本の1冊に神保小虎博士から貰ったDanaの"MANUAL OF MINERAL
    -OGY AND PETROGRAPHY " があると伝えられている。
    この本が現在どこにあるのか気になって、HPに「五無斎蔵書の行方」のページをアップし
   たのは2007年2月だった。

    ・五無斎蔵書の行方
      ( Mineralogy Books donated by Gomusai , Nagano Pref. )

    間もなく、千葉の石友・Mさんから、「この本は、長野県立図書館に所蔵されている」、と
   教えていただいた。
    そこで、長野県立図書館を初めて訪れたのは、2009年10月、秋のミネラル・ウオッチン
   グの下見で、須坂市の米子鉱山を訪れた帰りだった。祭日だったのでてっきり開館してい
   るものと思ったが、館内の整理とかで、臨時休館日だった。
    その次の機会は、息子夫婦と善光寺を訪れた時だったが、この時も休館日だった。今回
   文字通り3度目の正直で入館できた。

      長野県立図書館

    3階に行き、受付の若い女性に「五無斎が寄贈した本を探している」、と伝えると「5番」の
   カードを渡され待つことにした。
    待っている間、鉱物関係の蔵書を見ることにした。自然科学の分類の中の書棚2段分く
   らいに、鉱物関係の本が陳列してある。
    最近では、ネットで新刊本や中古本をを買える便利な時代になっているが、中身がわか
   らないで注文するのは不安なので、新刊書を中心にチェックした。「口語訳 雲根志」など
   面白い本が出ている。

    まもなく、携帯に妻から「受付で呼んでいる」、と入った。受付に行くと、五無斎関係の書
   籍のコーナーに案内してくれた。改めて、受付の男性係員に五無斎が寄贈した本の1冊
    " MANUAL OF MINERALOGY ・・・・・" を探してもらうように依頼した。再び「5番」のカ
   ードをもらい待っている。
    再び呼び出しがあって、受付に行くと、リストを手に、五無斎が寄贈した本は、「長野県
   立歴史館」に移管されている、とのことだった。歴史館への道順を尋ねていると、係員が、
   この本だけは移管の対象外になっていると教えてくれ再び探してくれることになった。

    やがて、係員が黄褐色洋書を手に再び現れた。この本が、五無斎が寄贈した" MANUAL
   OF MINERALOGY AND PETROGRAPHY " だった。本の一部を写真撮影したいと伝え、
   所定の書類に必要事項を記入すると、「撮影室」に案内してくれた。まずは、背表紙から
   撮影だ。
    これらの本は、言うまでもなく県立長野図書館の所蔵品であることを明言しておく。

       
                 撮影室                 背表紙

    おもむろに、ページをめくると、扉に五無斎自筆の『此の書の由来』が4ページにわたり
   墨書してあり、最後の部分に「五無斎蔵書献納章」の朱印が押してある。

     
     
                 「此の書の由来」

      五無斎蔵書献納章【印】

    この本を手にして不思議な感じがした。それは、

    (1) 読み込んだ跡がない。
         座右の銘、ならぬ座右の書であれば、もっと読み込まれて手垢がついたり、背
        表紙や表紙などの綴りが緩んでいたり、ページに汚れや折れ、ひどい場合には
        破れなどが見られるものだが、真っさらな状態なのだ。
         神保博士から贈られた本を五無斎は行李の底にでも大切に仕舞い込んでいた
        のではないかと思われるほどだ。

    (2) 信濃教育会の寄贈印
         この本は、もともと五無斎の蔵書を献納した筈だが、中表紙とでも言うべきペー
        ジに『寄贈 信濃教育会』の朱印が押されているのだ。
         そして、序に相当するページの左には、『県立 長野図書館 昭4.6 1 』 の朱
        色の丸印が押してあるのだ。

       
                         信濃教育会 寄贈印

       
                        県立長野図書館 丸印

         これをどう解釈したらよいのだろうか、無い知恵を絞ってみた。そうすると、五無
        斎が献納したDanaの本の行方が明らかになる。

         五無斎がDanaの本を献納したのは、『信濃教育会 信濃図書館』である。したが
        って、この本の所有者は『信濃教育会』だった。
         県立長野図書館は、昭和4年(1929年)に開館している。『県立 長野図書館
        昭4.6 1 』 の朱印は、この本が開館以前に信濃教育会から県立長野図書館
        に寄贈された、と考えると辻褄(つじつま)が合う。
         昭和4年6月1日が、県立長野図書館の開館日なのだろう。

4. 長野県北部の水晶産地フォローアップ

    五無斎の献納本と別れがたく、思いのほか長野図書館に長居をしてしまった。市内で遅
   い昼食を食べ、時計を見るとこのまま甲府に戻るのは少し早い。
    そこで、2009年秋のミネラル・ウオッチングで訪れた長野県北部の水晶産地の現状を
   確認する事にした。

   ・2009年 秋のミネラルウオッチング
    ( Mineral Watching Tour in Fall 2009 , Nagano Pref. )

    2度にわたる大きな台風の襲来があったばかりだったが、林道はさほど荒れておらず、
   車の通行は全く支障がなかった。
    この辺りは『キノコ山』で、立ち入り禁止、罰金○十万の看板が出ているが、持ち主が
   正しい日本語の書き方ができる方のようで、キノコ山の範囲を『林道の両側、△△まで』と
   明記している。われわれが訪れているのはキノコ山の範囲外だ。

    この日は、博物館と図書館巡りの予定で採集用具を持っていなかった。しかたなく、表面
   採集と車の修理道具のドライバーを取りだしてズリを少しほじくってみた。最大4cm級の
   松茸水晶などが結構でてくる。
    やがて、車が止まる音がして、賑(にぎ)やかな子どもたちの声が聞こえてきた。この場
   所が解っていて、迷うことなく来た風だった。話をすると、安曇野から水晶探しに来た数家
   族のグループだった。
    子どもたちは、ズリ一面に広がって水晶探しに夢中で妻が拾った水晶をひとり1つずつ
   あげると大喜びだった。

    私たちの採集品(主に表面採集品)を紹介する。

       
              松茸                 逆松茸

     
                 水入り
                               長野県北部の水晶

    秋の陽は釣瓶(つるべ)落とし、産地が健在なことを確認でき、周りが薄暗くなってきた
   ので、引き揚げることにした。

5. おわりに

 (1) 念願叶って
      HPの「2011年10月の採集品・観察品」に、「五無斎100年忌 五無斎の献納本」を
     掲載したところ、石友・Mさんから、次のようなメールをいただいた。

        『 ・・・・・・・・2007/2/28 ・五無斎の蔵書の行方 以来とうとうこの日がやって
          きたことを喜んでおります。長野県立図書館に行かれた様ですね。・・・・・
           ひょつとすると神保教授を始め五無斎の指紋も附いているかも知れませんね。
          明治の息吹が感じられる私にとっては超一級のお宝です。             』

      その通りです。2007年2月、HPに「五無斎蔵書の行方」を掲載して以来4年半余、
     ようやく巡り合うことができました。Danaの本を手にとって、五無斎も目を通したであろ
     うページをめくって、五無斎の事跡に想いをはせ、しばし至福の時を過ごすことができ
     た MIneralhunters だ。

      11月23日(祝日)に、戸隠地質化石博物館で宮下先生の「五無斎が遺したもの」、と
     いう講演がある。
      最近、仕事が再び忙しくなり、連日8時から会議、帰宅も10時を過ぎることもあるが、
     何とか都合をつけて、千葉から日帰りででも参加したいと思っている。
      講演もさることながら、長野県地学標本の中にある、『佐久郡川上村産 石英(水晶)』
     などもジックリ見てみたいからだ。

 (2) 円高のメリット
      いきなり俗な世界の話で申し訳ないが、県立長野図書館で五無斎が献納したDana
     の本を読んでみたくなった。
      いつも洋書の中古本を探すネットで調べると、"MANUAL OF MINERALOGY AND
     PETROGRAPHY " は数十冊出ている。価格もピンキリだ。
      五無斎の献納本は、1902年版なので、同じ年のものを探したが見つからず、しかた
     なく1894年版を注文し、10日程で届いた。
      本代が25ドル(2000円弱)、送料が19ドル(1500円弱)と円高のメリットを感じる。

6. 参考文献

 1) 佐久教育会編:五無斎 保科百助全集 全,信濃教育会出版部,昭和39年
 2) 佐久教育会編:五無斎 保科百助評伝,同会,昭和44年
 3) 須藤 實:ニギリギン式教育論(上)(下),銀河書房,1987年
 4) 井出孫六:保科五無斎 石の狩人,リブロポート,1988年
 5) 平沢信康:五無斎と信州教育 野人教育家・保科百助の生涯,学文社,2001年
 6) 宮下健司:保科五無斎地学標本にみる考古資料 −五無斎地学標本− 「長野」
           長野県公文書館,2007年(?)
 7) 戸隠地質化石博物館編:展示ガイド,同館,2011年
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