平賀源内(1728−1779)は、翻訳者・戯作者・洋風画家・博物学者・産業技術家・企業家などとして
多方面に活躍し、生前から有名人だった。「エレキテル」は摩擦発電機で、見世物にするだけでなく
病気治療にまで応用したところに彼の真面目がある。
企業家としては、秩父中津川での金や鉄の鉱山開発、そして地元志度での製陶計画などに手を染
めたが惨憺たる結果で、「源内山師(詐欺師)説」が噂される。
安永7年(1778年)暮、『功ならず名斗遂(なばかりつい)て歳暮ぬ』の句を残す。翌安永8年(1779
年)11月、人を殺め小伝馬町の牢につながれ、12月獄死する。
源内と秩父のつながりは、明和元年(1764年)、秩父両神山産の石綿を使って織った「火浣布」の
成功に始まる。明和3年中津川で金鉱を掘ったが金はでず、安永元年(1772年)、今度は中津川で
砂鉄を集め鉄山事業に着手するが吹き方(製錬)技術が未熟で安永3年には休山した。
明治以降の秩父鉱山は、昭和9年に金銀鉱石を1,912トン産出し、一躍重要鉱山に加わった。昭和
30年代は亜鉛や磁鉄鉱など採掘、最盛期には年50万トンを出鉱したが、昭和53年に金属鉱石の採
掘を中止し、現在では(株)ニッチツが石灰岩を採掘している。
鉱山の最盛期には3,000人を越える人々が住み、社宅・病院・学校・商店も完備し郵便局もあった。
平成14年、ミネラル・ウオッチング(鉱物採集)のついでに「秩父鉱山簡易郵便局」で押印したとき、
住民は約100人だと局員から聞いた。数少ない貴重な『鉱山局』の1つなので、今後も存続してくれる
ことを願っている。
( 2014年12月入手 )
<長崎遊学と製陶計画「源内焼」>
宝暦2年、1年間長崎に遊学し、本草学とオランダ学術(医学・博物学・西洋画)を学ぶ。前後2回に
わたる長崎遊学で、中国・オランダ製の陶器が大量に陸揚げされ、それらを高価なのをいとわず日本
人が買い入れていること、逆に中国人やオランダ人が伊万里、唐津などの焼き物を大量に仕入れて
帰ることを見知った。
源内の野心には、有名になって金を儲けたいという利己的な面もあったが、殖産を振興し外国に
出ていくお金を減らし、できるなら日本の製品を外国に売ってお金(外貨)を稼げば国益になるという
想いもあったようだ。
1回目の長崎遊学の帰路、備後鞆之津に立ち寄ったとき、鍛冶屋で使っている白色粘土を見て、
江の浦で陶土を発見した。溝川某にこれを用いて焼き物を焼くように勧めた。溝川氏は焼き物は焼
かなかったが、陶土を壁土として売って大いに儲け、源内を神様として祀った石塔が残っている。
志度に戻った源内は、堺屋源吾や五番屋伊助(赤松松山)らを指導して『源内焼』を始めたと思わ
れる。
2回目の長崎遊学で、肥前伊万里焼が肥後天草の陶土で作られていることを知り、天草か長崎で
製陶する「陶器工夫書」を差し出す。しかし、心当てにしていた讃岐の職人が長崎に来るのを承諾し
なかったため、この計画は実現しなかった。
変り身の早い源内は、郷土讃岐に天草深江村の陶土を取り寄せて焼き物を焼く計画を立てたが
資金を提供するものがなく、この話も立ち消えになってしまう。
しかし、地元・志度の陶土をつかった、いわゆる『源内焼』は源吾や伊助に脇田瞬民も加わって引き
続き行われていた。
2014年11月、某市で開催された骨董市で「サヌキ源内やき」の札が貼り付けられた酒器を入手した。
側面には漢詩が刻まれ、高台に源内の号・『鳩渓』とあり、本人が作ったものか研究中だ。
1回目の長崎遊学は1年で終え讃岐に帰る。当時の藩主・松平頼恭(よりたか)は薬草について関
心が強く、宝暦3年、現栗林公園内に移した藩の薬草園の管理をする茶坊主並三人扶持に源内を
取り立てた。
しかし、源内の野心は長崎遊学で一層掻き立てられ、宝暦4年、病身を理由に蔵番退役願いを提
出した。( むろん、仮病だ )
<上京・その生活>
大阪、京都を経て宝暦6年、江戸に出て永住を決意する。宝暦7年には、源内の発案により湯島で
「物産会」を開き、以後たびたび開催する。この頃、幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。
宝暦9年(1759年)には高松藩から学問料名目で三人扶持を与えられるが、宝暦11年(1761年)に
江戸に戻るため再び辞職する。このとき「仕官お構い」となり、以後、幕臣への登用を含め他家への
仕官が不可能となる。
宝暦11年、幕府から伊豆芒硝御用を命ぜられ薬剤となる芒硝(硫酸ナトリウム)を精製する。宝暦
12年、物産会として第5回目となる「東都薬品会」を江戸湯島で開催する。江戸において知名度も上
がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友する。
このころ奇石・珍石はじめ薬種など産物の仲介・売買にも携わっていた。「 雨畑山(山梨県)産の
黄蓮(おうれん:健胃剤)を医者どもへ売遣し・・・・」、という手紙も残っている。
<オランダ博物学への傾斜>
宝暦13年、それまでの物産会の出品物360種を選んで分類・解説・産地ごとに上中下のランクづけ
した『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』を刊行した。金石(鉱物)類が117種(約1/3)を占めているのは、
3月に幕府が発した「銅山開発令」の影響だ。
私が住む山梨に縁の深い「水精(水晶)」の部分を抜き出してみる。
『 東璧*曰ク。倭国多シ2水精1ト。 此ノ物本邦所在ニ産ス。 石英ト一物二種ナリ。
石英ハ大小皆六面如シレ削ルガ。 水晶ハ顆塊定ル形ナシ。 貝原先生水精大小
皆六角ナリ、ト云ハ石英ヲ指ニ似タリ。 ○日向産、上品 ○近江産、中品 』
* 李時珍(1518年−1593年)は、中国・明の 医師で本草学者。中国本草学の集大成とも
呼ぶべき『本草綱目』などを著した。
『 東璧こと李時珍は、「石英は六面削ったようで、水晶は塊で結晶していない」と言っているが、
貝原(益軒)は、「水精(水晶)は大きくても小さくても六角柱だ」、と言っているが、これは石英を
指しているようだ。 』
源内は、古い時代の中国では、現在、「水晶」と呼んでいるものが「石英」で、「石英」は「水晶」と
呼ばれていた。それを取り違えたのは貝原益軒だ、と記している。益富先生などもこの説を信じてお
られ、名前こそ出さないが、誰が取り違えたか判っていると「鉱物」に書いている。
しかし、天平5年(733年)の「出雲国計会帳」に水精玉(水晶玉)を税金として納めた記録があり、
すでに8世紀初頭には、現在の「水晶」は「水精(水晶)」と呼ばれていたことを次の2つのページで
明らかにした。
・ 国立歴史民俗博物館の鉱物
( Minerals of National Museum of Japanese History , Sakura City , Chiba Pref. )
【閑話休題】
源内は「物類品隲」の中で、それまでの日本の本草学
と違って写実的な挿絵のオランダ博物学に強い関心を
示した。
「[シ自]夫藍(サフラン)」の挿絵にはドドネウス著の
「紅毛本草」を「臨(模)」(模写)したと断っている。
外国の物産を知ろうとすれば、オランダ人や通詞に
質問したり、オランダ語の書物を読まなければならない
が源内にはオランダ語を読み・話す語学力がなかった。
通詞に「読み分け」させ、「効能」の部分だけ読解す
るやり方を最後まで捨てなかった。
杉田玄白はオランダ語の基礎から学ばねば駄目だと
考え直し、「解体新書」の偉業につながったのとは
対照的だ。
<風流におぼれる>
語学力のなさはいかんともし難く、本草・物産学も行き詰まり勝ちになると、余技であるはずの文芸
類に手が出てきた。もともと嫌いではなく、その素質もあった。
社会風刺本「根南志具佐(ねなしぐさ)」の好評に気をよくし、世界の国々を巡る「ガリバー旅行記」
さながらの「風流志道軒伝」は滑稽本のさきがけとの見方もある。源内の戯作の上の戯号(ぎごう)
「風来山人」・「天竺浪人」が誕生した。
<秩父とのかかわり>
源内は明和元年(1764年)、秩父両神山に登り、石綿を発見した。友人・中川淳庵から「石綿で火
に焼けない布は織れないか」と相談を受けていた矢先だったから、この石綿を使って織った布に「火
浣布」と名づけた。「浣」は「あらう」という意味で、油や墨で汚れたら火の中に投じればたちまち汚れ
が焼けおちるという意味だ。
「日本は申(す)におよばす、唐土・天竺・紅毛にても開闢以来出不レ申」と源内は独創性を自慢した
が、大きさが10センチ角しかなく、オランダ人からは60センチ四方のを見せられた、と戯作上の弟子・
森島中良が「紅毛雑話」に書き残している。
明和3年、中津川で金鉱を掘ったが結局、金は出ず、同6年に休山。明和7年秋、幕府から「阿蘭陀
翻訳御用」を命ぜられ、2度目の長崎遊学に出発する。長崎では、通詞たちから鉱山の採掘や精錬
についてオランダの新知識を得ようとしたと思われる。
遊学を終えて大阪まで戻る途中「西国の鉱山は大抵さがし」て立ち寄り、見聞を広めた。こうして、
「古今の大山師に相成り申し候」、と書簡に書き残している。
安永元年(1772年)秋、江戸に戻ると秩父中津川で砂鉄を集め鉄山事業が待っていた。同2年に
鉄山事業に着手する。同時に、秋田の鉱山調査・助言のため院内銀山や阿仁銅山を訪れ、大館付
近の「[金土]丹山(トタンやま:亜鉛鉱山)」を発見したと思ったが、実はマンガン鉱山で、亜鉛の精錬
には失敗する。
中津川鉄山は吹き方(製錬)技術が未熟で安永3年(1774年)には休山した。鉄山の失敗した源内
は、秩父で炭焼事業を思いつく。焼いた炭を荒川通船で江戸に運び安永5年は順調だったが、利潤
が少なく、源内の熱も冷めて同6年にはこの事業も 尻すぼみ状態になってしまう。こうして、源内と
秩父の関係は終りを迎える。
鉄山事業で莫大な借金をこしらえた源内は、自分の名前をもじって「貧家銭内(ひんかぜにない)」と
自称するほど困っていた。
苦し紛れに、伽羅の棟に象牙の歯をしつらえた「菅原櫛(源内櫛)」や皮に似せた紙製の「金唐皮」
などの小間物を製造・売り出している。戯作のほうでは狂文を書き散らし、鬱憤を晴らすありさまだっ
た。
<エレキテル>
エレキテルとは、ラテン語のElectrictite が転訛したもので、源内もやや正確に『ゑれきせゑりてい
と』と書くこともあった。
明和年間、源内は長崎で通詞・西善三郎がかつて持っていたエレキテルの壊れたのを手に入れた。
それを江戸に持ち帰り、復元しようと苦心し、安永5年(1776年)11月に完成した。源内を助けたのが
工人・弥七だ。
冒頭の切手の下半分に描かれているエレキテルは摩擦発電機で1745年ごろ蘭、独で作られ、安
永3年には公に幕府に献上されている。それ以前にも密かに長崎には持ち込まれていたらしく、明和
2年刊の「紅毛談(おらんだばなし)」に『病人の痛所より火をとる器』と挿絵を添え載せている。
エレキテルの原理は、ハンドルを
回すと内部のガラス瓶が回り、押し
付けられた錫箔の枕との摩擦で静電
気が発生し、これをいったん蓄電瓶
(ライデン瓶=コンデンサー)に蓄
え、上に突き出た互いに絶縁された
2本の銅線に導く。
銅線の先端のフックに鎖を吊るし
その間に放電するときに発生する
火花や衝撃音が不思議がられた
だろう。
源内は、エレキテルを大名などに高級見世物として公開したり、電気ショックを病気治療に応用し、
謝礼を受けとり、借金に追われていた家計も、新宅を普請するまでに改善した。しかし、この状況は
長く続かず、見物人や治療を受ける人は減っていった。
<西洋画>
エレキテルで世間が大騒ぎしていた頃、源内は西洋画を教授していたと思われる。絵心があり幼少
のころから狩野派風の絵を描いていた。自著「根南志具佐」の挿絵を自ら描くほどだった。
宝暦末ごろ、オランダ博物書を閲覧する機会がしばしばあり、そこに描かれた図譜や挿絵の写実性
に関心をもつようになる。同じ頃、杉田玄白の取り持ちで南蘋(なんぴん)派画家・楠本雪渓(宋紫石)
と馴染むようになる。「物類品隲」の図譜は雪渓の筆になるものだ。
南蘋派の特長は、緻密な描写の色彩豊かな写生画だ。源内が入手した蘭書を借りた雪渓はこれ
を手本にした作品をいくつか残している。
南蘋派の絵に一時興味をもった源内だったが、西洋画に及ばないことを知る。こうして西洋画に接
近し、自らも描くようになる。
源内の描いた西洋画とされるものが何点か
残っている。
それらの多くは日本絵の具で描いてあった
り、他に使用例がない落款が押されていたりす
るので、本当に源内の作品か判断の分かれる
ものが少なくない。
左の神戸市立博物館蔵の「西洋婦人図」は
油絵で描かれ、「源内」と署名があり平賀源内
の西洋画の作品として比較的信頼されている
ようだ。
源内が鉱山の調査・助言で秋田を訪れた際、秋田藩の小野田直武に西洋画の陰影法を教授す
る。源内の後を追うように江戸に出た直武は、間もなく頭角をあらわし、安永3年刊「解体新書」の
挿絵を描く。これは、玄白と親しい源内の推挙によるものだろう。
<浄瑠璃>
人形浄瑠璃は上方で全盛を誇っていたが、明和以降は衰え、太夫の東下が目立つようになり、
江戸で流行期を迎える。
この時期、源内はその器用さから浄瑠璃作者・「福内鬼外(ふくうちきがい)」としてデビューした。
晩年の10年、浄瑠璃作家と生きなければならなかったのは、主たる収入がこれしかなかったことに
よる。
それまで江戸では、大坂で人気のある操り浄瑠璃を繰り返し上演するに過ぎなかた。いわば上方
文化の植民地状態だったが、これを脱却し、「江戸浄瑠璃」を成立させた、最も早く、有力な作者が
鬼外だという評価もある。
源内の浄瑠璃には、次のような特徴・新鮮さがある。
1)本草、物産趣味
・ 白紙の密書を渡し、それを水に浸せば文字が現れる。
・ 水銀を使って相手の声を封じる
・ 「琥珀の塵や慈石(磁石)の針 粋も無粋も一様に、・・・」、といった表現
2)江戸浄瑠璃
・ 題材、舞台を江戸やその近郊に求めた。
・ 江戸方言、郭言葉の採用
しかし、これらの結果、江戸の人々には受けたが、野卑なものが底流し、「作品として品位がない」、
との評価もある。
明治以降の秩父鉱山は、昭和9年に金銀鉱石を1,912トン産出し、一躍重要鉱山に加わった。昭和
30年代は亜鉛や磁鉄鉱などを採掘し、最盛期には年50万トンを出鉱した。昭和53年に金属鉱石の
採掘を中止し、現在は石灰岩を採掘している。
秩父鉱山の自然金は、『紐金(ひもきん)』と呼ばれ、閃亜鉛鉱の中に“紐状“に成長したものだ。
秩父鉱山に金は無かったのではなく、
探し出せなかったのだ。
自然金が産出したのは、大黒坑の
地下約110mの「下3坑」で、源内の
時代の技術では探し出せなかっただ
ろう。
平成14年に秩父鉱山でのミネラル・ウオッチング(鉱物採集)のついでに「秩父鉱山簡易郵便局」を
訪れ記念押印をした。このとき、住民は約100人だと局員から聞いた。数少ない貴重な『鉱山局』の
1つなので、今後も存続してくれることを願っている。
もともと秩父鉱山と山梨県北東部は直線距離では20キロくらいしかなく、秩父鉱山辺りと甲府盆地
の北東部は地質学的には似ている点がある。甲州市(旧塩山市)の黄金沢(こがねさわ)金山では、
秩父鉱山と同じ、閃亜鉛鉱に伴う『紐金』や『車骨鉱』を採集しているし、鈴庫(すずくら)鉱山では、
「ブーランジェ鉱」が採集できる。
平成10年、雁坂トンネルが開通し、国道140号線は「埼甲斐(さいかい)街道」と愛称され、秩父と
山梨の間は近くなった。秩父鉱山まで自宅から1時間半もあれば着くだろう。
2014年7月15日、理由はよくわからないが秩父鉱山局が一時閉鎖された。幸いほぼ2ケ月後の
9月24日に再開されたが、廃局になるおそれが無いわけではない。
秩父鉱山は、約10年訪れていないので、ミネラル・ウオッチングで訪れ、記念押印する予定だ。