静岡県富士宮市富士(麓)金山の金鉱石

静岡県富士宮市富士(麓)金山の金鉱石

1.初めに

 私が家族会員になっている、山梨県下部町にある「湯之奥金山博物館」では
金山遺跡見学会や講演会を開催している。
 2003年秋の遺跡見学会は、下部町にある「川尻金山」であった。
 下部町には、湯之奥金山と総称される、中山・内山・茅小屋の3金山のほかに
川尻・常葉・栃代(とじろ)の3金山、合わせて6つの金山遺跡がある。
 川尻金山遺跡を見学しての帰途、富士(麓)金山を差配した竹川家を訪れ
ご当主から話を伺うとともに、近代になっても稼行した頃の選鉱場跡を案内して
頂き、金鉱石を採集できた。

        
        竹川家           ご当主【右から2人目】       石臼【年代?】
                   富士(麓)金山衆の末裔と遺物

 案内いただいた、竹川氏と湯之奥金山博物館・谷口館長はじめ、職員の皆様に
御礼申し上げます。
(2003年10月採集)

2.産地

 2.1 位置
    富士(麓)金山は、静岡県富士宮市麓(ふもと)の毛無山山腹にある戦国時代の
   金山である。湯之奥金山とは、尾根を挟んだ東(富士山)側にあり、地質的、歴史的に
   両者は深い関わりを持っている。

 2.2 富士(麓)金山の歴史
    今川氏朱印状によれば、この金山は、天文年間(1550年ごろ)には既に操業
   していたことが知られており、太田氏をはじめとする金山衆の存在も判明している。
    永禄12年(1569年)、この地域一帯が武田家・穴山氏の支配下に入り、天正5年
   (1577年)には、穴山信君から竹河(川)肥後守宛に、金山経営に関する安堵状が
   発給されている。その内容は、富士金山の「川胡桃場」という場所の「掘間」
   (ほりま=坑道)を、故藤左衛門の亡妻から竹川家へ相続することを許したもので
   この当時、金掘りたちが坑道を個人所有していたことを示している。
    武田氏滅亡後、かれらは徳川家の支配下に入り、隣り合わせの湯之奥・中山金山の
   金山衆と掘間の稼業を巡って争いを起したこともあり、金掘りたちと掘間の系譜は
   入り乱れている。
    現在、尾根付近に坑道跡が点在し、山腹には作業場などに利用されたテラス群が
   広がっている、と聞くがまだ見ていない。

  坑口【湯之奥金山博物館展示図録より】

 2.3 富士(麓)金山年表

   1551年(天文21年)   今川義元、太田掃部丞に”富士金山”へ荷物を通過させるよう
                 命じる。
   1571年(元亀 2年)   武田信玄、北条氏の深沢城攻撃に功のあった中山金山衆10人に
                 籾150俵を与える。
   1573年(元亀 4年)   武田信玄病没(53歳)
   1574年(天正 2年)   穴山信君、富士麓郷への棟別諸役を免除。
   1577年(天正 4年)   穴山信君、竹河(川)肥後守宛に、金山経営に関する安堵状発給
   1580年(天正 8年)   穴山信君家臣・有泉昌輔、麓金山の望月弥助に掘間安堵
   1582年(天正10年)   穴山信君、徳川方へ寝返る。
                 徳川家康、穴山信君に河内領(旧武田領地南西部)を安堵
                 穴山信君、本能寺の変で山城国・宇治田原で死没
   1583年(天正11年)   穴山勝千代、中山金山の金山衆の1人・河口某への棟別諸役を免除。

   1587年(天正15年)   穴山勝千代病没(16歳)・穴山家滅亡
                 徳川家康家臣・菅沼藤蔵定政、河内領主となる。
   1600年(慶長 2年)   徳川家康、甲斐国を支配

    このように、わずか50年の間に、富士(麓)金山の領有を巡って、今川・武田・穴山・徳川が
   激しく争った様子が窺えます。

     A:中山金山 B:富士(麓)金山
        今川領時代            武田領時代
     【a:穴山領 A今川領】       【a,b:穴山領】
              富士(麓)金山の領有争い

3.産状と採集方法

  富士(麓)金山の金鉱石は、中山金山と同じホルンフェルス化した頁岩や砂岩のなかの
 石英脈に胚胎している。
  選鉱場跡付近には、硫化鉱を挟んだ石英塊が落ちており、それらを叩いて探します。
  選鉱場跡

4.産出鉱物

(1)金鉱石【Gold Ore:    】
    黄鉄鉱(ほとんど褐鉄鉱化)、閃亜鉛鉱を含む石英の塊がありますが、標本数が少なく
   肉眼で見える自然金は認められなかった。

  金鉱石

5.おわりに

(1)帰りは、林道湯之奥猪之頭線を通って、下部町に戻りましたが、驚くほど近いことが判った
   昔は、「地蔵峠」を越え、歩いて金山衆が行き来したことも、頷けます。
(2)林道湯之奥猪之頭線トンネル近くから、初冬の富士山の秀麗な姿を望むことができました。

  峠からの富士山

6.参考文献

1)湯之奥金山博物館編:川尻金山遺跡現地見学会パンフ,同館,2003年
2)高岡 伸五:穴山氏と金山(中山・麓)との関わり,,
3)高岡 伸五:湯之奥中山金山の開始時期を巡って,,
4)湯之奥金山博物館編:展示図録,同館,1997年
5)原田 明:「武田氏の山金―金鉱石」の一考察,湯之奥金山博物館公開講座,2003年
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