案内いただいた、竹川氏と湯之奥金山博物館・谷口館長はじめ、職員の皆様に
御礼申し上げます。
(2003年10月採集)
2.2 富士(麓)金山の歴史
今川氏朱印状によれば、この金山は、天文年間(1550年ごろ)には既に操業
していたことが知られており、太田氏をはじめとする金山衆の存在も判明している。
永禄12年(1569年)、この地域一帯が武田家・穴山氏の支配下に入り、天正5年
(1577年)には、穴山信君から竹河(川)肥後守宛に、金山経営に関する安堵状が
発給されている。その内容は、富士金山の「川胡桃場」という場所の「掘間」
(ほりま=坑道)を、故藤左衛門の亡妻から竹川家へ相続することを許したもので
この当時、金掘りたちが坑道を個人所有していたことを示している。
武田氏滅亡後、かれらは徳川家の支配下に入り、隣り合わせの湯之奥・中山金山の
金山衆と掘間の稼業を巡って争いを起したこともあり、金掘りたちと掘間の系譜は
入り乱れている。
現在、尾根付近に坑道跡が点在し、山腹には作業場などに利用されたテラス群が
広がっている、と聞くがまだ見ていない。
2.3 富士(麓)金山年表
1551年(天文21年) 今川義元、太田掃部丞に”富士金山”へ荷物を通過させるよう
命じる。
1571年(元亀 2年) 武田信玄、北条氏の深沢城攻撃に功のあった中山金山衆10人に
籾150俵を与える。
1573年(元亀 4年) 武田信玄病没(53歳)
1574年(天正 2年) 穴山信君、富士麓郷への棟別諸役を免除。
1577年(天正 4年) 穴山信君、竹河(川)肥後守宛に、金山経営に関する安堵状発給
1580年(天正 8年) 穴山信君家臣・有泉昌輔、麓金山の望月弥助に掘間安堵
1582年(天正10年) 穴山信君、徳川方へ寝返る。
徳川家康、穴山信君に河内領(旧武田領地南西部)を安堵
穴山信君、本能寺の変で山城国・宇治田原で死没
1583年(天正11年) 穴山勝千代、中山金山の金山衆の1人・河口某への棟別諸役を免除。
1587年(天正15年) 穴山勝千代病没(16歳)・穴山家滅亡
徳川家康家臣・菅沼藤蔵定政、河内領主となる。
1600年(慶長 2年) 徳川家康、甲斐国を支配
このように、わずか50年の間に、富士(麓)金山の領有を巡って、今川・武田・穴山・徳川が
激しく争った様子が窺えます。