2002年8月骨董市での鉱物資料探し

1.初めに

テレビの「何でも鑑定団」などが引き金になって一時ほどではないが
骨董品が人気になっています。
極端に暑かったり、雪が降ったりする時期は、フィールドでの採集が難しいので
各地の骨董市や骨董店を回って、鉱物や郵趣関係の資料を探しています。
また、採集に行くときも骨董市の開かれる曜日に合わせてその周辺の産地に行く
ように計画しています。
夏休みに妻の実家に行ったものの、暑くて鉱物採集に行く気にもならず、比較的近い
群馬県で骨董市があることを思い出し訪れた。
ここで、鉱物教科書「金石学教案」の明治17年の写本と明治40年に越後国(新潟県)の
石油採掘現場から事務所宛てに毎日生産状況を報告したハガキなどを入手した。
(2002年8月入手)

2.骨董市

ほとんど毎週土曜、日曜に関東、甲信越の各都市で、骨董市が開かれています。
毎月、曜日を決め、骨董市を回って、鉱物や郵趣関係の掘り出し物を探しています。
骨董市のにぎわい

3.「金石学教案」写本

この本の表紙には、「中□□(ホ武?)中□□□(ホ利助?)博物記」とありその中の
漢字カタカナ混じりの「金石学教案」の部分を和紙に毛筆で写して和綴にしたものです。
表紙
裏表紙には、「明治17年3月1日、内野学校 中等二期(2年生?)の時、藍野八蔵云々」
とあり、当時の中等学校(現在の高校)で使われた教科書の一部と思われます。
原著者と思われる「中ホ」という人がどのような人か分かりませんが、この本は明治17年以前に
著わされたことは間違いありません。
日本人による最初の鉱物書は、明治9年末に和田維四郎によって著わされた「金石学」であり
それから数年で書かれたこの本は、日本の鉱物学の教科書としては古いものの部類に
入ると思われます。
ちなみに、「石英・水晶」の記述は次のようになっています。【現代語訳】

石英
     その形状多しと言えども、六方柱にして両端
     六稜の結晶を現わすを常とす。
     而してその品類甚だ多し。その質
     もっとも純粋にして無色透明に結
     晶せるものを水晶と言い混和物あり
紫水晶 て紫色なるものを紫水晶と言い
黒水晶 黒色なる者を黒水晶と言い、緑色の
     繊維を含有するものを草入水
     晶と言い、内部に石綿を含有し琢
猫睛石 磨すれば閃光を放ち猫睛の活動す
     るが如き・・・・・・・。

「石英」の記述
これを読むと、「草入水晶」という呼び名は、既に明治初年にあったこと分かります。
しかし、「繊維」と呼んでいるものが何かについての記述は無く、当時の分析技術では
これが限界だったのでしょう。

4.産油日報ハガキ

石油を鉱物に含めるか否かについては議論のあるところかも知れませんが
「和田鉱物標本」にも多数の石脳油(石油)が記載してありますので、ここでは
鉱物として取り扱います。
このハガキは、越後国(新潟県)中頚城郡鉢崎村にあった茂木鉱業部という石油
採掘現場から柏崎駅前にあった鉱業事務所宛てに、明治40年12月8日から
12月11日まで毎日生産状況を報告したものです。
使われているハガキは、明治39年から発行した「枠無菊ハガキ」で額面が1銭5厘の
ものです。
この当時は、普通郵便物でも発信局と到着局の両方で消印を押しており、当日書いたと
思われるハガキは翌日朝一番の”イ便”で鉢崎局を発信し、同日の”ロ便”で柏崎局に
到着しています。
鉢崎局と柏崎局消印
鉢崎がどこにあったか分かりませんが、柏崎から程遠くなかったと考えられます。

【12月8日の日報】
・採油は三井共無候(?)也
・本日定期にて汲取り休業
・本朝6時より始業、臨時6名
 を雇い直ちに新1号のロッド引
 揚げに着手仕り・・・・・・
 中壜を15、6本引揚げ・・・・
   坑員2名、臨時共8名に候也
12月8日の日報
これを読むと、ここには3本(2号、6号、新1号)の井戸があり、この日はロッド引揚げや
中壜引揚げなどの定期メンテナンスで採油がなかった。
このメンテ作業のため、臨時に6名雇い入れているが、常時は2名の坑員で運営していた。
朝6時から始業と終業時間はわかりませんが、厳しい就業条件(当時としては普通?)で
あった。
ことなどが分かります。

【12月9日の日報】
この日も採油は無く、臨時員5名と坑員2名でメンテ作業を継続しています。
12月9日の日報

【12月10日の日報】
・採油
・第2号井     4斗
・第6号井     3斗
  日計      7斗
  (月)累計  2石5斗(25斗)
本日は異状此無汲取り候え共
第6号井採油減少なれば・・・・・
12月10日の日報
この日は、合計7斗(126リットル)の採油があった。
12月の累計が、25斗であり、1日平均2.5斗(45リットル)の産出があったことに
なります。
10日の産油量が多いのは、12月8日〜9日は採油を休業していたため、3日分溜まった
ものを汲み上げたためでしょう。
第6号井の汲取り量が減少してきているようです。

【12月11日の日報】
・採油
・第6号井     1斗
・第2号井     ナシ
・・・・・例の如く6号井
 は採油減少の模様に候也
・・・・・・汲取坑員2名
12月11日の日報
メンテ作業が一段落し臨時雇いなしの、坑員2名の稼動に戻った。
第6号井の汲取り量が引き続き減少してきており、このハガキを書いた坑員は
今までの経験から井戸の寿命が尽きるのが近いことを予感しており、新1号井を
掘削した背景がここにあるようです。

5.おわりに

(1)古い文献を一通りあたってみましたが、「金石学教案」と著者と思われる
「中□□(ホ武?)」の情報は得られませんでした。
引き続き、調査してみたいと考えています。
(2)このハガキが書かれて7年後の大正3年に編纂された「本邦重要鉱山要覧」の
「石油山」の部には「茂木鉱業」の名は見当たりません。
この本に掲載してある主な石油山の日産量は、500斗を超え、茂木鉱業の2.5斗は
極めて小さな規模であったと考えられます。
当時、石油10斗(1石)あたりの価格が4円(現在の約6万円)前後ですので
茂木鉱業の月の売上は、現在の200万円くらいで小企業だったようです。
現在、ガソリンは、10斗(1石)あたり2万円弱ですので、昔に比べると廉くなっている
ことになります。

6.参考文献

1)農商務省鉱山局編纂:本邦重要鉱山要覧,東京製本,大正3年
2)田賀井篤平編:和田鉱物標本,東京大学出版会,2001年
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