「ロー石山」、というからには「葉蝋石(パイロフィライト)」を採掘した鉱山跡だろうと想像し
たが、いつの時代のものか全く予備知識がなかった。
産地に立つ説明板によれば、ここは、武田信玄が金を採掘した鉱山跡と伝えられ、18世
紀末から19世紀初頭には、印材として文人墨客に珍重されたようだ。
その後、高島藩によって採掘は禁止されたが、明治になって採掘が許可されると、石板に
字を書くための石筆(せきひつ)として使われた。
産地のアチコチに、表面が”ツルツル”し、爪を立てると簡単にキズがつき、『モース硬度1』
の見本のような「ロー石」が点々と落ちていて、それを拾うだけのお手軽採集だった。
現在でも石筆は、一部の建設業関係者は使っている、とも聞くが、私が子どもの頃、ロー
石で道路に線や絵を描いて、遊んだ記憶がある。
関東の骨董市で、「ロー石」を売っていたので購入した。他にも買っている人を見かけたの
で、懐かしさを感じる人もいるようだ。
「蝋石」のなかまは、長野県各地で採掘された事があるようだが、いまひとつ人気がない
ようだ。物好きな方は、金鶏鉱山へのついでに立ち寄ってみるのも良いだろう。
( 2010年5月 採集)
「ロー石山」の歴史を記した、金沢歴史同好会が建てた案内板の内容を引用させていた
だく。
『 発見された時代は明らかではないが、伝承では武田信玄が金鶏鉱山(当時は青柳金
平成11年 5月吉日 金沢財産区 金沢歴史同好会
山)で採掘中に発見されたのでは、とも言われている。
文人書家の間で珍重されはじめたのは、寛政(1789〜1801年)のころと言われ、その
発見者は、茅野の本陣・五味文嘯(ぶんしょう)である。文嘯は、ロー石を天竜道人はじ
め多くの文人墨客に贈った。当時82歳の道人が文嘯にあてた享和2年(1802年)の手紙
によってそのことを知ることができる。
文嘯は高島藩の許可を得て採掘し、藩主・忠粛へ献上した。忠粛は、天竜道人に命じ
て印材・肉地・筆筒などに加工させた。その後、採掘を禁じた、とある。
明治になって採掘が許可されると、大正〜昭和初期にかけて、金沢小学校はじめ近
隣学校の遠足の目的地として賑わい、また教材( ・石筆)としても使用された。
金沢区 』
蝋石は、葉蝋石を主体とし、ダイアスポア、鋼玉(サファイア)、カオリナイト、明礬石など
の鉱物からなっていることが多いようだ。広島県勝光山では、これらが産出するとある。
勝光山でも、最初は地元民によって、「石筆」用に採掘され、1910年(明治末期)から
耐火物の原料として利用されるようになった、と「日本の鉱物」にある。
(2) 武石(褐鉄鉱)/ゲーテ鉱【Limonite/GOETHITE:FeOOH】
黄鉄鉱が酸化し、ゲーテ鉱になった「武石」が小さな水晶を伴う石英脈の中に見られる。
金鶏鉱山(青柳金山)の自然金は、電気石を伴って産出する、と聞いたことがあるが、も
しかして、武石の中にあるのではないかと持ち帰ってみた。
2009年夏、「信濃境の角閃石」を採集した後、「金鶏の湯」に入ると、温泉の説明の中
に「金鶏金山」があり、訪れねばと思いつつ時間が経ち、訪れたのは年が明けた、2010年
1月になってからだった。
2010年の冬は例年より寒さが厳しく、金鶏鉱山入口にあたる麓の集落では、ほとんど
積雪が見られなかったが、「ロー石山」入り口付近の吹き溜まりには30cm以上の積雪が
あり、4WD、スタッドレスでも危険を感じ、途中から引き返してきた。
2010年5月、「月遅れGWミネラル・ウオッチング」の下見でようやく産地に到着すること
ができた。まさに、『3度目の正直』だった。
(2) 『 幻のフローレンス石 』
さて、産地にたどりついたのは良いのだが、お目当ての「フローレンス石」が一向に姿
を見せてくれないのだ。
ミネラル・マーケットで会った、KN氏は、「人が採れるモンは、ワシゃ採れる」、と言って
いた。そこまで言い切る自信はないが、採れるはずだと信じている。
しかし、「山の神」は、一向に微笑んでくれないのだ。
そんな訳で、ミネラル・マーケットで「フローレンス石」を買う羽目になってしまった。