鉱山札の研究 「文久山鉄山札」









          鉱山札の研究 「文久山鉄山札」

1. 初めに

    江戸時代以来、鉱山経営者は手持ち必要現金(銀)量を減らすため「鉱山札」と呼ばれ
   る、紙幣の役割をする『私札』を発行し、鉱山内だけで流通させた。このシステムは、
   「炭鉱札」などに引き継がれ、第2次世界大戦終結(1945年)頃まで残っていた。

    もう1年も前、某オークションを見ていると、幕末に発行された「文久山日払所」の札
   が出品されていた。「文久山」については、陸中國(現在の岩手県)にあった「銅鉱場」だ
   と出品者の説明があったが、それ以上のことは分からなかったが、入札・落札した。結局、
   文久山については分からず仕舞いで、札もファイルしたままだった。

    2010年8月、古書店をのぞくと、「仙台藩洋式高炉のはじめ 文久山」、という本があ
   り、「文久山」について詳しく記載してあるので、早速購入した。
    この本を読むと、文久山は、この付近一帯で採掘できる「餅鉄」や砂鉄を原料にして
   豊富な木炭を用いて鉄鋼を製錬する溶鉱炉があった場所だと知った。「鉄山札」以外に
   も、鉱山内部で通用する『文久貨泉』、という貨幣も鋳造していたことも知り、これも東京
   の骨董市で入手できた。
    さらに、大正9年(1919年)まで稼働していた「文久山」系列の「栗木鉄山」の山神祭を
   描く絵葉書を入手したところ、「高炉」が写っている。高炉があるところを「鉄山」と書き、
   呼び慣わしていたようなので、タイトルを「文久山鉄山札」とすることに決めた。

    このように、全国各地の「金銀銅鉄山」や「炭鉱」で、鉱山札が発行されていた。
   そのすべてを収集するには、時間と先立つものがないのが何とも口惜しいが、できる
   だけ入手して、後世に伝えたいものだと思っている。
   ( 2010年8月調査 )

2. 「文久山鉄山札」の概要

    入手した「文久山鉄山札」は、縦152mm(5寸)、横45mm(1寸5分)で、厚さ約0.4
   mmの和紙の両面に墨書きと版を押し、朱印や黒墨印がいくつも押してある。

     

 表面には、次のように
墨で手書きしてある。

 代弐百文

 右相渡者也

        文久山日払所
十一月十日


    額面は、400文、300文、200文、100文そして50文の5種類あった中の200文札だ。

     

 裏面には、次のように
墨で手書きし、一部に墨で
印が押してある。

 遠

  百八十壹
         金代到着次第
         此手形ニ引替相渡
         可申候事


    「遠 百八十壹」 は、紙幣や宝くじなどにある「組・番号」で、組には、遠(お)、
   多(た)、年(ね)、登(と)、天(て)があったらしい。

3. 文久山とは

    オークション出品者の情報では、「陸中國文久山銅鉱場」、とあったが、岩手県にあ
   った銅鉱山の「鉱山札」には、いろいろ調べても手掛かりがなかった。そのような訳
   で、入手してみたものの、文久山がどこにあったかすら判らなかった。

    2010年8月、行きつけの古書店をのぞくと、そのものズバリ「文久山」というタイトル
   で、「仙台藩洋式高炉のはじめ」というサブタイトルがついた本が目についた。
    パラパラとページをめくると、「日払所札」の写真もあり、早速購入した。

 3.1 文久山はどこにあったか
      「文久山」によれば、文久山があったのは、現在の岩手県東磐井郡(現一関市)
     大東町鳥海字市之通(かよう)3-5にあった。地図を見直してみると、「沖田(興田)
     のコランダム」産地の近くだ。
      江戸時代、この地域は陸中國でありながら、南部藩でなく仙台藩の領地だった。

      

      「文久山」が出版された昭和63年(1988年)当時、文久山の跡地は煙草(たばこ)
     を栽培する畑になっていて、ここに溶鉱炉の一種「高炉」があった事を示す構造物は
     何も残っていないようだ。

 3.2 「高炉」
      「高炉」は、鉱石を溶かして金属を製錬する「溶鉱炉」の一種で、鉄を製錬するものを
     「高炉」と呼ぶようだ。
      吉永小百合主演の「キューポラのある街」、という映画がある。この舞台になったの
     が鋳物の町・埼玉県川口市で、鉄を溶かすキューポラ炉を大きくしたものが「高炉」と
     思ってもらえばよい。( 分かるかな〜、分かんネ〜だろうな )

      以前にも紹介した、日立製作所編「技術史の旅」に製鉄関係の記事が2件掲載され
     ている。
      ・出雲の鉄師
        中国地方に豊富な砂鉄と炭を原料にした日本古来の「たたら製鉄」
      ・東田高炉
        鉄の街福岡県八幡(北九州市)の東田地区に、明治30年(1897年)から西洋式の
       官製製鉄所の建設工事が始まり、明治34年【1901年)、第一高炉に火が入った。

      この2つの記事が取り上げられた理由は、次の図から読み取ることができる。

      
               明治期の鉄類生産量推移

      文明開化の明治維新後も日本の鉄鋼は、中国地方の砂鉄を用いた「たたら製鉄」で
     その大部分をまかなっていた。この状態は、明治27年(1894年)、岩手県釜石製鉄所
     の「高炉」でつくった鉄が「たたら」でつくった鉄の量を追い抜くまで続いた。そして、
     東田高炉が本格稼働し始めると、鉄の生産量は飛躍的に伸びた。
      ここに至るまでの幕末〜明治初期の製鉄の歴史をレビューすると、「文久山高炉」の
     姿もおぼろげながら見えてくるはずだ。

 3.3 維新前後の製鉄の歴史
      幕末、ペリーの来航、ロシア船の蝦夷地出没などから、海からの外敵を防ぐ海防の
     機運が高まり、静岡県韮山や茨城県ひたちなか市など日本各地に銑鉄(炭素量の多
     い鋳物用のもろい鉄)から鋼(炭素量の少ない強靭な鉄)を作る「反射炉」が設けられ
     た。しかし、従来の砂鉄を原料にした、「たたら」製鉄法では、質量両面で、「反射炉」の
     原料に適した銑鉄が得られなかった。

      南部藩士・大島高任(たかとう)は、文政9年(1826年)、藩医・周意の長男として生
     まれた。天保13年【1834年)、江戸、長崎に留学し、長崎では採鉱術を学ぶ。嘉永6年
     (1853年)、水戸藩から招かれ、那珂湊に反射炉を築き、大砲を鋳造するが、試射で
     砲身に亀裂が入るなど、性能は高くなかった。この原因は、古来の砂鉄を原料にした
     銑鉄にあることから、西洋と同じように、鉄鉱石を用いた高品質の鉄鋼生産の必要性
     を痛感したはずだ。

      良質な鉄鉱石(磁鉄鉱)が産出する、南部藩の大橋(釜石)に西洋式高炉を建設し、
     安政4年(1857年)12月1日、日本で初めて鉄鉱石を製錬し、連続して銑鉄を造り出す
     ことに成功した。
      (「たたら」製鉄では、毎回炉を新しく造って、銑鉄を取り出す時壊していた。)

      

 100年後の1957年(昭和32年)
「製鉄百年記念」切手が発行され
た。

 新旧2つの「高炉」が描かれて
いる。
 右下の、「大橋高炉」は、石を
組んで高い塔を造り、その中に
鉄鉱石や燃料となる炭を投入し
水車で勢いよく風を送って高温
にして鉄を溶かしていた。



 3.4 「文久山高炉」
  (1) 建設の動機
       岩手県盛岡市の土産品に、「南部鉄瓶」に代表される鉄器があるくいらい、岩手県
      は鉄の生産が盛んな地域の1つだった。
       もともとは、『伯州流』と呼ばれる中国地方のたたらを使った製鉄法だったが、安政
      (1854年〜)になって、鉄の需要が増え、生産性の高い高炉による製鉄法に切り替え
      るようになってきた。安政4年(1857年)の大橋高炉の成功は、その動きを加速した。
       さらに、仙台藩は財政立て直しを図るため、鉄銭鋳造を幕府に願い出て、安政6年
      (1859年)許可が下り、東山鉄山下代(げだい)・芦 文十郎に1年に鉄銭を10万貫文
      の鋳銭を命じた。1貫文=1,000文であり、 4文銭にして年間2,500万枚という膨大な
      銭を造る前に、素材の鉄を用意しなければならない。
       困惑した芦 文十郎は、砂鉄による製鉄も検討したが、砂鉄採取によって河川が
      汚濁し、稲作にとって鉱害となるので、稲作期の砂鉄採掘は禁止されていた。
       文十郎がいろいろ調査したところ、江刺郡人首村の畑の中から、『餅鉄(もちてつ、
      べいてつ)』を発見し、これを「橡沢山[火同](どう)屋」のたたらで製鉄し、好結果を
      得た。
       これを原料にすれば、砂鉄採掘の必要がなくなり、農閑期に農民に畑の中から拾
      わせれば、土地改良と手間賃収入が得られることを説き、万延元年(1860年)7月に
      「文久山開設願」を提出した。
       「文久山」によれば、その主旨は、次のとおりである。

       『 江刺郡人首村の根鍔、小哥葉(こがよう)山から岩鉄餅鉄という良い鉄鉱石が
        出るので、御山下代仮役の芦 文十郎が人首村に出張し、その鉱石の出る模様
        などを調査し、その鉱石を持参し、大原村の橡沢山[火同]屋で製鉄を行った結果
        その荒鉄、延鉄の性質が砂鉄製鉄よりも優れているので、岩鉄御[火同]屋の建
        設地として、鳥海村百姓養助の居久根山を選定した。(居久根山は、木炭用の
        成木も多く、敷地も広く、土性も良い )                         』

       願いは、2ケ月後の9月に認可された。そして、文久2年(1862年)2月、三浦陶蔵
      (乾也)からも、開設願いが出されている。この中に、『・・・・右溶鉱炉の儀は、先年
      公儀御用にて長崎表に罷り越し、オランダ人より直伝相受け置き候間、右仕法は
      門人の内足軽源七に伝達仕り候て、相違なく出来仕り候見詰の御座候間、当時南
      部表ニて二、三ケ所御取立、莫大の出鉄ニ御座候処、・・・・・・・・・・』
、とあり、三浦
      (=芦 文十郎)が計画している溶鉱炉は、『洋式』であることがわかる。

       話は前後するが、嘉永6年(1853年)、幕府は大船の製造禁止令を解き、海防の
      ため、2本マスト、3本マストの造船を許した。水戸藩、薩摩藩に続いて軍艦製造に
      踏み切ったのは仙台藩だった。軍艦製造の総棟梁として選ばれたのが、江戸浅草
      に住んでいた三浦乾也(けんや)だった。
       乾也は、安政元年(1854年)、幕府から造船練習方の命を受け、士分に取り立て
      られ、勝海舟と共に長崎に留学し、オランダ人から造船を学んだ。長崎での1年間に
      ガラス、反射炉そして大砲の製造技術を習得した。しかし、勝と不仲になり、江戸に
      戻った。安政2年(1855年)、江戸に戻った乾也は、幕府に長崎留学の結果を復命し、
      造船の希望を上申したが受け入れられず、鬱々とした日を過ごしていた頃だった。
       建造は安政3年(1856年)8月に始まり、翌4年7月に完成した。長さ33m、幅7.5m
      2本マストに砲6門を備えた洋式軍艦「開成丸」だ。

       幕末の海防意識の高まりは、全国に及び、播州(兵庫県)姫路藩の儒学者・菅野
      白華(すがのはっか)は熱心な「尊王攘夷」思想の持ち主で、水戸藩主・徳川斉昭の
      寵(ちょう)を得ていた。
       白華は、安政3年(1856年)4月に江戸を発つ直前、乾也と会い、相前後して奥州
      を目指したのだろう。白華は、仙台で文十郎に会った後、約1年間蝦夷地沿岸を視
      察して翌4年閏5月13日から約3週間文十郎の生家に逗留した。

       白華が海防の重要性とそのために製鉄が必要な事を文十郎に説き、その気になっ
      た文十郎に乾也を(安政4年秋から5年春の間に)引き合わせたのだろう、と「文久
      山」の著者・芦 文八郎氏は推測しているが間違いではないだろう。

  (2) 「文久山高炉」の建設と稼働
       「文久山高炉」の建設開始、完成そして稼働期間についての諸説がありハッキリ
      していない。
       三浦乾也による建設願書の提出が文久2年であるから、文久2年に建設を開始し
      文久3年4月初出銑(稼働)とみるのが妥当だろう。

 (3) 「文久山高炉」の構造と規模
       文久山高炉絵図が「文久山」に掲載されているので引用させていただく。構造は
      製鉄百年記念切手に描かれた「大橋高炉」とほとんど同じである。それもそのはず
      どちらもオランダ人・ヒューニゲン著「大砲鋳造法」を元にしているからだ。
       残されている別な図面によれば、高炉の大きさは、幅約4.5m、高さ約7mだった。

      
                     文久山高炉絵図
                    【「文久山」より引用】

       文久山の規模は、明治4年(1871年)に調査した「陸中國磐井郡鳥海村文久山溶
      鉱炉鉄方調」に詳しく掲載されている。

        @ 荒鉄生産量:月産 12,000貫目(45トン)
                   (月30日の稼働なので、日産 1.5トン)
        A 山銘     :文久山
        B 文久山より
           気仙沼海岸迄:10里程
(約40km)
           田茂村北上川迄:5里程(約20km)
           同所より石巻迄:大凡(おおよそ)26里(約100km)
        C 製鉄仕方   :溶鉱炉
                     吹子(ふいご)2合(台)、水車機械ニテ荒鉄吹方仕候
        D 岩鉄(鉄鉱石):江刺郡人首村小歌葉山并(ならびに)根鉄山ニテ掘出シ
        E 岩鉄石     :20,000貫目、此金100両
        F 木炭      :40,000貫目、此金400両
        G 吹方職人并炭盛下働等:18人(給金 25両永113文)
                          但棟梁1人、炭盛2人、下働15人
                          大工            :1人 (給金 2両永500文)
           手代5人其所働2人:  (給金 10両永833文)
           岩鉄石焼砕方人足   :10人 (薪木共ニ 給金 20両也)
                       H 玄米 56石1斗6升    :468両
        I 味噌 224貫640目    :40両永928文
        J 瓦大小1,020枚并土50俵:54両750文
(瓦とは、耐火煉瓦のようだ)
        K 簀子縄莚油蝋燭筆紙墨
           并狢皮等諸雑費     :45両永500文

          惣計 金1,171両永624文

          明治4年末ノ2月     右山所行人     禎輔

       この記録から、いくつかの事が明らかになる。

       (1) 明治4年の段階では、日産1.5トンであった。稼働当初の文久3年には出銑量
          は少ないが、それでも日産1トン前後はあった別な記録もあり、当初の目的の
          ”鉄銭を年に2,500万枚を鋳造する”のに十二分な量の鉄が生産できた。
           ( 鉄銭1枚の重さを3gとすれば、75トン+αの鉄が必要になり、3ケ月で十
            分生産できた。)
       (2) 鋳造した鉄銑や余った鉄は、近在の鍬師、鍛冶屋、田茂山(現奥州市)の鋳
          物師そして慶応年間以降は宮城県石巻にあった鋳銭場向けが多かった。
           その運搬ルートは、仙台まで馬で運んだ、という口伝も残っているが、田茂
           山の船着き場まで牛馬で運び、北上川を船で下ったらしい。
       (3) 文久山の経営には 約1,200両と、莫大な費用が必要だった。鉄を売った代
          金を回収するまでの資金が不足し、『 金代到着次第此手形ニ引替相渡可申
          候事』、と印刷した「日払所札」を発行せざるを得なかった。
           ただ、文久山はじめいくつかの高炉の経営収支は黒字だった、とする別な記
          録もあり、「日払所札」がただの”紙クズ”になることなかったようだ。

 3.5 「文久山高炉」の終末
      文久山高炉は、芦文十郎に始まり、武十郎、禎輔の3代にわたり20年以上経営され
     た、と考えられるがいつ稼働を停止したのかは明らかではない。明治18年文十郎の
     死で、文久山の経営は縁者に譲渡された。文久山事務所を取り壊したときの建材を
     使って、明治23年に渋民小学校が作られた、との記録もある。
      これらから、明治20年ころ終末を迎えたものと思われる。文久山の系列には「京津
     畑(文久新山)」、「子飼沢」、「栗木」などいくつかの高炉があった。栗木高炉は、大正
     9年(1920年)まで操業していたのは、ある意味で驚異である。

      「栗木鉄山」の山神祭を描く絵葉書を入手した。仕切り線が下から1/3のところにあり、
     明治40年〜大正7年に印刷されたものだ。これをよく見ると、煙を吐く「高炉」が写って
     いる。祭りに興じる人々の背丈の10倍(約15m)以上ある巨大なものだった。右隅に
     にあるアーケード(?)に、『山鉄木栗』と書いてあり、高炉があるところを「鉄山」と書き、
     呼び慣わしていたようだ。

       栗木鉄山

       官製でなく、民間で経営した明治〜大正期の「高炉」を写した写真を目にするのは
      初めてで、貴重な記録だと思う。
       スケールこそ違うが、「文久山鉄山」の稼働時の様子を知ることができる。

4. 「文久貨泉」

    「文久山鉄山札」を調べ始めると、鉄山で通用したのは『札』だけでなく『山内銭(さんな
   いせん)』・「文久貨泉」が通用していた、とされる。

    「文久山」によれば、現存数が少なく、母銭(原型)と鉄銭数枚が芦東山先生記念館に
   残されているだけらしく、実際には余り使われなかったのではないか、とある。

    東京の骨董市で、「文久貨泉」の絵銭(模造品)を入手した。本物は鉄でできているが
   下の写真のものは、真鍮(銅と亜鉛の合金)で造られている。
    「當百」(100文)銭と「當半」(50文)銭の2種類があった。

       
                 表                       裏
                      文久貨泉・當百【絵銭】

    當百は、直径が57mm、厚さが4mm、重さは20グラム以上あり、ズシリと重く、これを財
   布に入れて持ち歩いていたとは考えにくい。

5. おわりに

 (1) 「文久山鉄山」にゆかりの人々・前島 密
       「文久山鉄山」を経営した芦文十郎を安政4年(1858年)に逗留した菅野白華は、
      次のように評している。

       『 蘆東山四世孫 邑之巨族也。 為人温厚愛文事 』

       文十郎は、白華をはじめ、諸藩の志ある人々を、好んで長逗留させていたようだ。
      郵便制度をつくった前島 密もその一人だった。安政5年(1859年)、密が北海道へ
      の途中、仙台で旅費を紛失し困窮していた時、文十郎宅に寄宿し、文十郎に旅費を
      もらったことが密の日記・「鴻爪痕(こうそうこん)」にあるらしい。
       この中に、「・・・この家に寓せる某氏は日本流の鉱鉄精錬を善くする人にて・・・」と
      記されており、製鉄技術者が滞在していたようだ。

       
              前島 密

 (2) 2010年夏の終わり
      2010年の夏は、記録的な猛暑で、ミネラル・ウオッチングは涼しい高地か水辺での
     パンニングが主体で、その回数も例年より少なかった。

      そんな訳で、今回は、骨董市や古書店などで入手した品々をネタにHPを綴ってみた。

      9月に入り、朝夕は秋の気配が少し感じられるようになってきた。そろそろ、フィール
     ドでの本格的なミネラル・ウオッチングに出たいと思っている。

6. 参考文献

 1) 飯塚 一雄著:技術史の旅,日立製作所,昭和60年
 2) 芦 文八郎(ぶんぱちろう)編著:仙台藩洋式高炉のはじめ 文久山,芦東山先生記念館
                         昭和60年
 3) 日本貨幣商協同組合編:日本貨幣カタログ 2006年版 ,同組合,2006年
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