愛媛県新居浜市「別子銅山記念館」の鉱物

愛媛県新居浜市「別子銅山記念館」の鉱物

1.初めに

 日本で、銅山といえば、東では足尾銅山、西では別子銅山でしょう。
別子銅山は、元禄3年(1690年)に、阿波(今の徳島県)生まれの鉱夫・切り上(あが)りの
長兵衛が銅山峰(1294m)の南側に露頭を発見したことに始まる。
 翌、元禄4年〔1691年)に開坑以来、昭和48年(1973年)に閉山するまで、283年間にわたり
銅を掘り続けた。
 ここの鉱床は、世界にも稀に見る大鉱床で、銅山峰山頂付近から1枚の板のように
平均厚さ2.5m、幅1,000mの鉱脈が地下に向かって伸びていた。
 採掘場所が地下深いところに移るに従って、「採鉱本部」も東延(とうえん)
東平(なるとう)そして端出場(はでば)へと山を下っていった。
 「別子銅山記念館」は、別子銅山の意義を永く後世に伝えるため、住友グループの協力で
建設された。
 館内には、別子銅山の歴史を辿る開坑以来の歴史資料やその間の主な出来事および
 生活風俗、技術等に関する資料を展示している。
 ・開館時間: 9:00〜16:00
 ・休館日 : 毎週月曜日、国民の祝日
 ・入館料 : 無料
   (2003年11月訪問)

2. 場所

 JR新居浜駅から国領川(上流は足谷川)に沿って南下すると、「山根公園」と「大山積神社」に
挟まれた場所にあり、外壁が傾斜し植木に覆われ、自然に溶け込むような外観の建物です。

   「別子銅山記念館」

3. 展示品のあらまし

  ロビー正面には「大ノ(おおはく)」と呼ばれる儀式用の銅鉱石、次いで泉屋、歴史
 地質・鉱床、生活・風俗そして技術の5つのコーナーには、古文書、絵図、図表、器物
 写真、模型などを展示し、屋外展示場には車両などを展示している。

(1)大ノ(おおはく)
    定められた寸法に整形された銅鉱石を、飾りワラで結んで、古式にのっとり、
   毎年元旦に、銅山守護の神を祀る大山積神社に奉納した。
    ここに展示されているものは、昭和48年に奉納された、別子銅山最後の採掘鉱石で
   重さは約300kgである。

   大ノ(おおはく)

(2)泉屋コーナー
    近世初期に、銅山師・銅商として台頭した泉屋(住友)の歴史を江戸時代の絵図
   古文書や明治時代の古文書、器物、記念品などで紹介している。
    文献の上でしか知らなかった棹銅などの現物を目近に見ることができます。
    江戸時代には、銅山で銅鉱石を溶かして得られた粗銅(荒銅)を大阪にある
   銅吹所(どうふきしょ・精錬所)にはこび、そこで精銅にした。
    数ある銅吹所のうち最大だったのが、長堀にあった泉屋(住友)の銅吹所であった。
    この過程で、いわゆる”南蛮吹き”と呼ばれる高度な技術で粗銅に含まれる銀を
   抜き取ることにより、利益を得ていた。

   吹分け

    しかも、泉屋は、この技術を全ての吹屋に公開し、利益を独占しなかったと
   伝えられている。
    精銅からは、長崎から中国、オランダの東印度会社、朝鮮に輸出するための棹(さお)銅と
   国内販売用の丁(てい)銅、丸(まる)銅を作った。

   丁銅・丸銅・棹銅

(3)歴史コーナー
    別子銅山は、元禄3年(1690年)に、阿波(今の徳島県)生まれの鉱夫である
   切り上(あが)りの長兵衛が銅山峰(1294m)の南側に露頭を発見したことに始まる。
    翌、元禄4年〔1691年)に開坑以来、昭和48年(1973年)に閉山するまで、283年間に
   わたり銅を掘り続けた。
    その略年譜を紐解いてみると、その道のりは必ずしも平坦でなかったことが分かる。

  天正18年(1590年) 住友の祖(蘇我理右衛門)京都にて銅製錬、銅細工開業
  慶長年間(1600年頃)南蛮吹(銀銅吹分け)を開業
  元禄 3年(1690年) 大露頭発見
  元禄 4年(1691年) 開坑許可(5.9)採鉱開始(9.22)製錬開始(12.1)
  元禄 7年(1694年) 大火災、施設大半焼失
  元禄 8年(1695年) 大風雨被害、立川銅山と境界紛争
            (1697年 幕府裁定により解決)
  元禄15年(1702年) 経営振興計画を幕府へ具申許可(永代稼行他)
  宝暦12年(1762年) 立川銅山を合併(1749年から手代名義で請負う)
  寛政 5年(1793年) 小足谷疎水坑開さく着手(1804年 工事難行一時中断)
  安政元年(1854年) 坑内大湧水、幕府操業資金融資
  安政 2年(1855年) 休業願出を幕府却下し、資金融資
  慶応 2年(1866年) 銅山買請米制度停止示達
           (1867年 陳情により復活したが価格上昇のため稼働人紛争3ケ月休山)
  明治元年(1868年) 官軍により一時封鎖、事業継続を新政府へ歎願許可
  明治 2年(1869年) 操業新体制発足、小足谷疎水坑掘さく再開(1886年完成)
            大阪精錬所立川へ移転開始(1876年 完了)
  明治 7年(1874年) フランス人技師ルイ・ラロック雇用、操業近代化に着手
  明治 9年(1876年) 東延斜坑聞さく着手(1895年 完成)
  明治10年(1877年) 新居浜御代島築港着手(1879年 完成)
  明治12年(1879年) 高橋鎔鉱炉完成
  明治13年(1880年) ダイナマイト使用実験成功
            (わが国鉱業に初めて採用。尚、黒色火薬使用開始は1870年)
            高橋排水処理工場建設。
            別子・新居浜間牛車道完成
  明治16年(1883年) 惣開に洋式製錬所建設着手(1888年 完成)
  明治19年(1886年) 第一通洞開通
  明治21年(1888年) 山根湿式製錬所建設
  明治24年(1891年) 初めてさく岩機使用
  明治26年(1893年) 専用鉄道開通
           (下部、端出場・惣開間、5月。上部、角石原・石ケ山丈問、12月)
            新居浜に煙害問題発生
  明治29年(1896年) 四阪島製錬所建設に着手
  明治32年(1899年) 大水害のため施設大破
  明治35年(1902年) 第三通洞開通。東平に選鉱所建設
  明治38年(1905年) 四阪島製錬所操業開始、煙害問題発生
  明治40年(1907年) 飯場制度改革に端を発し、全山暴動
  大正 4年(1915年) 大立抗、第四通洞開通。
  大正 5年(1916年) 採鉱本部を乗延から東平に移転
  大正 8年(1919年) 銅電解工場完成
  大正14年(1925年) 新居浜浮遊選鉱場完成
  昭和 4年(1929年) 四阪島にベテルゼン式硫酸工場新設
  昭和 5年(1930年) 採鉱本部を東平から端出場に移転
  昭和14年(1939年) 四阪島製錬所に中和工場完成、年来の煙害問題完全解決
  昭和21年(1946年) 別子復興運動始まる
  昭和22年(1947年) 別子労働組合長朋ストライキ。坑内大火災
  昭和23年(1948年) 復興起業(下部開発、東立坑間さく他)着手(1955年 完成)
  昭和31年(1956年) 上部・中部開発起業(上部立坑開さく化)完成
  昭和35年(1960年) 大斜坑開さく着手(1969年 完成)
  昭和40年(1965年) 地圧現象による山鳴り発生(下部東部地区地表下1.600m)
  昭和44年(1969年) 東予製錬所建設着手(1971年 完成)
  昭和46年(1971年) 本山下部坑道で大型シールド採鉱法を採用(切羽延長100m、200m)
  昭和47年(1972年) 本山坑終掘(地表下2,000m)山はね現象発生
  昭和48年(1973年) 筏津坑終掘(地表下1,200m)

(4)地質・鉱床コーナー
    別子銅山や周辺の地質・鉱床のあらまし、測量機材、鉱石標本などを展示している。
   別子銅山の鉱石は、含銅硫化鉄(いわゆるキースラガー)鉱床である。
    展示してあるジオラマや地質図をみると、海岸から一気に1,700m級の四国山地に
   立ち上がっている特異な地形である。

   別子銅山の地質

    本山鉱床、筏津・余慶鉱床からの総出鉱量約3,000万トン、その含銅量72万トンを
   産出した。(平均銅含有率 2.4%)
    展示してある鉱石標本には、黄銅鉱のほかに”鉱脈尖滅点”(鋭く尖り、鉱脈が
   切れている。鉱脈消滅の状態)を示す興味深いものがある。

   鉱石標本

(5)生活・風俗コーナー
    江戸末期から昭和にいたるまでの山内作業・風俗や坑内用諸道具類、諸行事、服装
   そして諸施設等を展示しています。

   銅山札

    山銀札(やまぎんふだ)
     金額を表示した別子銅山山内でのみ通用した紙製金券で、明治2年(1869年)から
    明治6年(1973年)まで使われた。
    歩役札(ぶやくふだ)
     紙幣に類似しているため廃止された山銀札に代わって、労働量を表示した木製金券で
    明治6年(1973年)から明治9年(1976年)まで使われた。

(6)技術コーナー
    採鉱法、支柱法、大竪坑の模型や明治〜昭和に至る照明器具、採鉱用小道具、鉄道用品
   鉱山救護隊用品そして削岩機などを展示している。

   照明器具

    螺灯(らとう)
     明治28年(1895年)頃まで、栄螺(さざえ)の殻に鯨油を入れ、灯芯に点火して
    坑内作業の明かりとした。
    鉄製種油灯・ブリキ製種油灯
     明治28年(1895年)から大正2年〔1913年)まで、鋳物やブリキ(鉄板)で作った
    容器に菜種油などを入れて灯芯に点火して坑内作業の明かりとした。

(7)屋外展示場
    記念館の前に、鉱山専用鉄道機関車や電車などが展示してある。
    「別子1号蒸気機関車」は、明治26年(1893年)に開通した鉱山専用鉄道用として
    ドイツ・クラウス会社から輸入したもので、当時は珍しかったので、その走行の
    様子を一目見ようと、大勢の見物人が押しかけた、と伝えられている。

   別子1号蒸気機関車

4. おわりに

(1)別子銅山は、単に1つの鉱山として栄えただけでなく、そこから多くの住友系列の
   企業が育ち、日本の産業発展に、大きな貢献をしている。
    このような例は、日本鉱業(現ジャパンエナジー)と日立製作所など、数多く
   見られ、鉱山は産業の裾野を広げる役割を20世紀まで果たしていたことを
   改めて認識する訪問でした。
(2)別子銅山の歴史を紐解いていると、開坑してわずか3年、元禄7年(1694年)の
   大火災に目がとまります。
    4月25日巳の刻(現在の午前10時)に挙がった火の手は、見る見るうちに別子山中の
   坑場を僅か4時間で焼き尽くした。
    開坑以来その経営にあたった元締・杉本助七を初め、掘子の妻子まで132人が亡くなる
   という大凶災でした。
    これらの貴い犠牲を乗り越えて、この年の別子出銅高は、前の年に比べ約10万斤余も
   増加するほど、復興は早かった。
    (私が以前勤めていた、H製作所も、創業10年目にして、当時の主力工場から出火
     事業廃業の瀬戸際に追い込まれたと、教えられたことがありました。)
(3)入場料は無料ですが、照明が暗くて、展示してある「鉱物」がよく見にくいのが難点です。
   (係りの人は、「坑道をイメージした」とか「省エネルギー」とか言ってました。)
(4)ここを案内していただいたNさんご夫妻によれば、別子銅山の鉱石は、見つけるのが
   思ったほど簡単ではないそうです。
    それでも、何とか褐鉄鉱に覆われた鉱石を採集し、お土産にすることができた。

   別子銅山鉱石

5.参考文献

1)別子銅山記念館編:別子銅山記念館案内パンフレット,同館,2003年
2)平塚 正俊編:別子開坑二百五十年史話,鰹Z友本社,昭和16年
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