2009年6月、「月遅れGWミネラル・ウオッチング」に参加した、日本産新鉱物の発見者の
1人、Oさんに、「長野県川上村原(詳しくは、寒い澤(さぶいさわ))の普通輝石産地を教え
て欲しい」、と乞われ、教えて差し上げた。2009年7月、長野のMさんを甲武信鉱山の帰り
に頼まれて同じ場所を案内した。
川上村に産する普通輝石や普通角閃石は八ヶ岳火山の噴火活動に伴って生まれたと
考えられている。八ヶ岳の一部は山梨県になっていて、山梨県でも普通輝石や普通角閃
石が採集できるのではないか、と思うようになった。
古書店をのぞくと、益富先生が昭和17年に編輯・発行した「地殻の科学」の創刊号と
第1巻第3号があったので購入した。ページをめくると、『山梨県安都那村産:角閃石』の
記事が無名会編「本邦鉱物資料 (その6)」の中にあり、私の予想通りだった。
梅雨の合間を狙って、産地を訪れ、あちこちで聞き込み何とか「普通輝石」標本を採集
したが、サンプル数が少なく「普通角閃石」は見出せなかった。
この本で引用している明治時代の文献には、この近くで『長さ1寸5、6分、幅1寸に
達するものありといふ 是れは輝石と共生する角閃石ならんか 』、とあり産地を探索し
たが、100年以上が経過し、その痕跡すら見出せなかた。
この近くに「小倉焼(おごえやき)」の窯跡があったことを思い出し、帰り道に立ち寄って
いくつかの陶片を採集してきた。
50mm近い角閃石は魅力で、何として産地を探したいと思っている。
( 2009年7月 採集・探索 )
もしかしたら今でも同じ局があるかも知れない
と思い調べてみると、八ヶ岳の南麓・北杜市
高根町にあることが判った。
明治7年、箕輪新町、村山東割村、箕輪村が
合併して、安都那村が生まれ、昭和29年に
さらに合併し高根村になるまであったようだ。
2.2 産地は?
「山梨県安都那村産:角閃石」の記事の冒頭に、次のような記述がある。
『 山梨県北巨摩郡安都那(アツナ)村大林の角閃石は、八ヶ嶽火山の溶岩をなす
橄欖輝石安山岩の斑晶をなして産するもので、オウツボと称する地域では・・・』
改めて道路地図帳を見ると、「大林」の西隣に「大坪」の集落があることが判り、この
周辺を探査することにした。
何人かに聞いてたどり着いた大坪の集落は、起伏が大きく、畑と田んぼの田園風景
が広がるだけで川上村の産地のような土取り場跡の崖など全く見あたらない。
崖がダメなら、川でフルイ掛け、と思ったが川は護岸工事されていて、土砂がない!
農作業をしていた男性に「輝石という、黒くて小さい石が採れる場所を知りませんか?」
と尋ねたが反応がいまひとつだ。
それでも、「南に行ったところに崖がある」、と教えてくれたのでとりあえずそこに行く
ことにした。
この時期、どこもかしこも緑のベールに覆われ、「崖」が見あたらない。空き地に車を
停め、崖らしい場所に近づくと、茶褐色の崖が木の葉の間から見え、とりあえず行って
みた。
「大坪」集落附近は、
田んぼと畑と里山が
広がって、緑一色
この近くで「普通角閃石」が
採集できたので産地といえば
産地なのだが・・・・・
崖の断面には、火砕流で運ばれたと
思われる「輝石安山岩」の大きな塊から
小石などが堆積している。
その下には、これらが風化して
抜け落ちた「普通輝石」が散らばって
いるのを拾って採集する。
No |
鉱物種名 俗名 【英名:組成】 | 標 本 写 真 | 備 考 | 1 | 普通輝石 【AUGITE: (Ca,Mg, Fe)2Si2O6 ((Ca2Si2O6)45-20[(Mg,Fe)2Si2O6]55-80】) |
分離品
|
『 ・・輝石は美しい結晶が多量に産するので古来人口に膾炙(じんこうにかいしゃ)
しており、・・・・・・・・
角閃石はその産量、輝石の1%にも充たないもので・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・
長さ5mm、径2mm位を普通とし、大なるは長さ10mm、径3mmに達する・・・ 』
”美しい結晶が多量に”は採れなかったから別な産地のような気もするが、大きさ
は記述通りだ。
この本で引用している明治時代の文献1)には、この近くで『長さ1寸5、6分、幅1寸に
達するものありといふ 是れは輝石と共生する角閃石ならんか 』、とあり産地を
探索したが、100年以上の時が経過し、その痕跡すら見出せなかた。
(2) 「小倉焼(おごえやき)」
「5cmの角閃石産地」は、清里から私の家へのショートカットにあり、清里周辺が渋
滞する行楽シーズンに何度か通ったことがある場所だった。
ここから自宅へ向う途中に「小倉焼(おごえやき)」の窯跡があるのを思い出し、
立寄ってみた。
「小倉焼」、と言っても知らない人がほとんどだと思うので、窯跡に須玉町が建てた
説明板の内容をそのまま引用する。( 塗装がヒビ割れ、解読に苦労した )
『 奥田信斉と養子信蔵が小倉のこの場所で作陶をしたので「小倉焼」と呼ばれて
いる。明治27年(1894年)頃この地に移住し窯を築き水甕、水さし、壷などを焼い
た。信斉の経歴には立浪文左衛門という名の相撲取りの時代があった。作風は
素朴剛直さを持つ独特の持ち味がある。信斉は81歳でこの地で亡くなり墓所は
見本寺にある。信蔵は大正の初期妻子と共にこの地をさり小倉焼も途絶えた。』
現在は、梅林になっている窯跡には、陶片が散乱し、いくつか採集してきた。その
1つは庶民の生活に密着した「すり鉢」で、力強さが伝わってくる。
(3) 「地殻の科學」
古書店をのぞくと、益富先生が昭和17年に編輯・発行した「地殻の科学」の創刊号
と第1巻第3号があったので購入した。
ページをめくると、無名会編「本邦鉱物資料 (その6)」の中に、『山梨県安都那村
産:角閃石』の記事があり、これを読んでこの産地を訪れる気になった。
益富先生がかかわった会誌の
主なものは次の通りだろう。
・「我等の礦物」 :昭和 7年4月-16年12月
・「地殻の科学」 :昭和17年4月-19年4月
・「研究報告」 :昭和19年9月-20年9月
・「礦物と地質(後称地学研究)」 :昭和21年11月-26年9月
・「趣味の地学(後称地学研究)」:昭和26年9月-27年7月
・「地学研究」 :昭和27年11月-
「地殻の科学」の存在は、ごく最近知った。2年間に、発行されたのは4号までだろう。
創刊号 昭和17年5月
2号 昭和17年9月
3号 昭和18年8月
?号 昭和19年4月
太平洋戦争の開戦(昭和16年12月)と同時に廃刊になった「我等の礦物」がどの
ような考えで「地殻の科学」に生まれ変わったのかが知りたくて、少し高かったが
「創刊号」を購入した次第だ。