異聞・奇譚 「黒曜石」 − 天狗の涙( Apache Tears ) −









             異聞・奇譚 「黒曜石」 
        − 「天狗の涙」( Apache Tears ) −

1. はじめに

    2013年8月、「満ばん柘榴石」で有名な「和田峠」に近い長野県小県(ちいさがた)郡長和
   町の「黒耀石体験ミュージアム」を訪れた。

    ・ 長野県長和町 「黒耀石体験ミュージアム」
     ( Obsidian Museum of Archaeology , Nagawa Town ,Nagano Pref. )

    展示コーナーの一角に、「世界の黒曜石原産地マップ」があり、環太平洋火山地帯を中心
   に、世界各地に黒曜石産地があり、黒曜石文化が息づいていることを知った。
    鉱物(Mineral)ではなく岩石(Rock)の「黒曜石」だが、親しみを感じ、帰宅して1ケ月後に、
   念願の石器作りにも挑戦し、『 黒曜石は石器になるために生まれてきた 』 、ことを実感
   できた。

    ・ 石器作りに挑戦
      ( Challenge Making Stone Implement , Yamanashi Pref. )

    2013年9月末、はじめて某県の骨董市を妻と訪れた。出店の1つで、” ARIZONA  LAND
   OF HISTORY AND ADVENTURE ” 、と題して、アメリカ・アリゾナ州で産出する鉱物や
   岩石標本21種類を地図の産地の位置に貼り付けたものを売っていた。
    標本を見ると、アリゾナを代表する「珪化木(PETRIFIED WOOD)」や「珪孔雀石(CHRYSO
   -COLLA)」などに混じって、州都フェニックス(PHOENIX)の東の位置に”APACHE TEAR(ア
   パッチの涙”があった。
    「アパッチの涙」をよく見ると、ガラス質、黒色に赤い縞模様が入っているので、黒曜石に間
   違いなく、北海道の白滝あたりで産出するものに似ている。

    なぜアリゾナ産の黒曜石が「アパッチの涙」、と呼ばれるのかネットで調べてみると、悲しい
   伝説があることを知った。
    アリゾナには若いころの思い出がある。生れて初めて海外に行ったのがアメリカ・アリゾナ
   州のフェニックスで、今から35年前の1978年2月だった。その当時は、鉱物には今ほど興味
   もなく、今だったら間違いなく産地を訪れていただろう。
    ( 2013年9月入手 10月編集 )

2. ” ARIZONA LAND OF HISTORY AND ADVENTURE ”

    骨董市で入手した” ARIZONA LAND OF HISTORY AND ADVENTURE ”、と題する
   鉱物、岩石標本は、横23.5×縦27.7cmの厚紙にアリゾナ州の地図が印刷してあり、産地の
   位置に標本を接着したものだ。標本は全部で21種類あり、それぞれの標本の下には、鉱物
   名、岩石名、鉱石名あるいは”俗称”などが印刷されている。

     
         ” ARIZONA LAND OF HISTORY AND ADVENTURE ”
                      【鉱物岩石標本 21種】

3. 「アパッチの涙」( APACHE TEAR )

    ” APACHE TEAR ”、と表記のある標本は写真のように横23×縦14mmの小さなものだ。
   産地は、アリゾナ州の州都・フェニックスの東になっている。

     
             ” APACHE TEAR ”
               「アパッチの涙」

    ガラスのような質感と光沢があり、黒色の中に赤い縞模様がいく筋か平行に入り、溶けた
   ものが層をなして冷え固まったことが推測でき、火山の噴出物である火山ガラス・「黒曜石
   (オブシディアン)」だと瞬時に判断した。

 (1) 「アパッチの涙」
      ネットで” APACHE TEAR ”を検索すると、” APACHE TEARS ” がでてくる。” TEAR ”
     は、複数形(pl)で、「涙」、という意味に使われるので、” S ”がついているのだ。
      以下、"Wikipedia" から引用させてもらう。

      Apache tears are rounded nodules of obsidian (volcanic black glass) with diameter
      from about 0.5 to 5 cm.An Apache tear looks opaque by reflected light, but
      translucent when held up to light.
      Apache tears are usually black, but can range from black to red to brown. They are
      often found embedded in a greyish-white perlite matrix.

     
               Apache tears
           【"Wikipedia" から引用】

      ” APACHE TEAR ”は、「黒曜石」のことだ。ただ、写真からも判るように、その形状は
     『直径0.5〜5cmの丸いノジュール(小塊)』、となっている。厳密にいえば、入手した標本は、
     『アパッチの涙のカケラ(破片)』、とすべきなのだろう。
      色は、通常黒だが赤〜褐色まで幅があり、標本のような赤い縞模様もありのようだ。
     産状は、真珠岩(Pearl:真珠+lite:石)の母岩に埋もれて産出するようだ。真珠岩とは、
     『ガラス質の流紋岩』のことだ。

 (2) 「アパッチの涙」の由来
      これも、"Wikipedia" から引用させてもらう。

      The name "Apache tear" comes from a legend of the Apache tribe:
      about 75 Apaches and the US Cavalry fought on a mountain overlooking what is now
      Superior, Arizona in the 1870s.
      Facing defeat, the outnumbered Apache warriors rode their horses off the mountain
      to their deaths rather than be killed.
      The wives and families of the warriors cried when they heard of the tragedy;
      their tears turned into stone upon hitting the ground.

      「アパッチの涙」はアパッチ族の伝説に由来する。1870年代、アリゾナ州Superiorを見お
     ろす山で75人のアパッチ族とアメリカ騎兵隊の戦闘があった。数に押され、敗色濃厚にな
     ったアパッチの戦士たちは、殺されるよりも自らの死を選んだ。
      この悲しい知らせを聞いた戦士たちの妻や家族は嘆き悲しみ、その涙が大地に落ちて
     たちまち石になった。

      アパッチ族の酋長・ジェロニモが騎兵隊に降伏し組織的な戦闘が終わったのは1868年
     (慶応4年=明治元年)だった。それから10年近く経ってこのような戦いがあったのは、
     アパッチ族が”好戦的”、とされるだけでなく、劣悪な環境の”居留地”に押し込められた
     不満が爆発したのではないだろうか。
     ( 1941年、日米開戦にともなって、日系市民が住まいから遠く離れた荒涼とした土地の
      収容所に押し込められたのと似ている。 )

4. 日本にも「アパッチの涙」はあるのか

    ” Mineral Hunters ”、として最大の関心は、日本にも「アパッチの涙」はあるのだろうか、
   という鉱物学(地学?)的な興味だ。

    結論から言えば、「ある」だ。黒曜石を目的に産地を訪れて採集したことはないが、満ばん
   ざくろ石を求めて、長野県和田峠をいく度となく訪れ、そのたびに面白い形、色、模様そして
   インクルージョンのある黒曜石があれば持ち帰っている。

    あるとき、小さな塊で、角が丸みを帯びた黒曜石があるエリアにまとまって産出した。近くに
   川や沢などはなく、いわゆる”川流れ”で磨滅して丸くなったものとは違うことが一目でわかっ
   た。

     
            和田峠産「アパッチの涙」
               【最大径 3.2cm】

    和田峠の黒曜石もアリゾナのものと同じように、流紋岩の中に産出するので、同じような産
   状の黒曜石があっても不思議ではないだろう。

5. おわりに

 (1) アリゾナの想い出
      生れて初めて海外に行ったのがアメリカ・アリゾナ州のフェニックスで、今から35年前の
     1978年2月だった。
      私が開発・設計した装置を据え付けるために、携帯電話で有名なM社のフェニックス工
     場に2週間の予定で出張したのだ。その当時の想い出を記しておく気になった。

      そのときのパスポートを見ると、当時はアメリカに行くには”ビザ”が必要だったなど、隔
     世の感がある。また、アメリカでは車なしの生活は考えられない、と聞いていたので、国
     際運転免許証を持参した。(結局、このときは車を運転する事はなかった)

         
              アメリカ入国ビザ                    国際免許証
                         1970年代の海外出張必需品

      2月18日(土曜日)の夕刻に羽田を発った。この当時の海外出張の例にもれず、妻、1歳
     半の長男、そして義妹までが見送りに来た。ロスでアメリカ入国したのは出発した時刻よ
     りも過去の18日の朝で、日付変更線のマジックに”タイム・マシン”に乗った不思議さだっ
     た。
      ロスのホテル(たしか、ホリディ・イン)に入り、荷物を部屋まで運んでくれたポーターに
     1ドルのチップを渡した。午後はロス市内の観光に出かけた。
      翌19日、国内線でロスからフェニックスに向かった。フェニックス空港の内装は青色に
     染められていたのが印象的だった。
      ( アリゾナ州に多い銅山から産出する「トルコ石」の”ターコイズブルー”なのか、「クリソ
       コアラ(珪孔雀石)」や「アズライト(藍銅鉱)」の青だったのか、今となっては記憶が定か
       ではない。1990年ごろ、空港は改修されたらしいので、今はどうなっているか・・・・ )

      仕事は順調に進んでいたが、最初の週の土曜日は出勤して念を入れた。この日、M社
     側の担当者のBudとGoegeが付き会ってくれ、夕方、Budにお土産のサントリー・オールド
     を渡した。

      工場の中には、いろいろな表示があったが、その中で記憶に残っているのは、次の2つ
     だ。

      " Guests are always Boss here "

        「お客様は神様です」、とでもいうのだろうが、今でこそ日本でも当たり前になってい
       るが、M社の企業理念の一端を垣間見た思いがした。

      " Suggestive is Rewarded "

        ”提案する人は報われる”、というM社には、『改善提案』制度があって、壁新聞だっ
       たか社内報の"Road Runner"だったかに、何人かの顔写真を添えて提案内容と褒賞
       金が掲載してあった。数百ドル(2万円)から高いものでは1,000ドル(25万円)もの
       褒賞金を貰っているのに正直ビックリした。
        帰国して何年か経って、正規の業務の傍ら、従業員が3,000余名の工場の「小集団
       活動」の企画委員を担当させてもらったが、活動の柱は、この『改善提案制度』と
       『レクリエーション』だった。

      「時差の関係で、金曜日が日本では土曜日になっているので木曜日を最終日にしたい」
     と伝え、第2週目の空き時間はお土産探しだった。
      M社のカフェテリアには、売店があり、1ドルやハーフ・ダラー銀貨を何枚か交換してもら
     ったり、両方の父親に革ベルトを確か1本5ドル(当時1ドル≒250円)で買った。
      妻や両方の母親そして餞別をもらった叔母などへのお土産は帰途、サンフランシスコで
     買うことに決めていた。

      当時の私は、鉱物よりもアマチュア無線に凝っていて、トランシーバーや送・受信機を自
     分で組み立てている、と話していたので、Budが別れの日に " THE RADIO AMATEUR'S
     HANDBOOK " を贈ってくれ、帰国後もしばらくの間、私の座右の書にな っていた。

      
         " THE RADIO AMATEUR'S HANDBOOK "

      金曜日にフェニックスを発ち、サンフランシスコに向かったが悪天候で機体は揺れたが
     乗員、乗客は慣れたものだった。隣に座った母娘が、トランプでゲームをしていたので、
     何と言うゲームか尋ねると、”ナンバー・アイト”、と教えてくれた。”アイト”、って何だろう
     と訝しがっていると、”数字の8”だと教えてくれた。母娘はオーストラリア人で、8の eight
     (エイト)の発音が”アイト”になるのだ。これを聞いてある小話を思い出した。

      オーストラリアの入国審査にて
      審査官  " Why do you come to die ? " ( 死にに来たのか? )
      外国人  " No !! to live " ( とんでもない、死ぬなんて! )

      オーストラリア人は、"today (今日)" を " to die " 、と発音するところからこんな小話が
     生まれた、と読んだことがあった。

      SFのホテルは空港から遠く、30分くらいタクシーに乗り、料金27ドルにチップを乗せ30ド
     ル払った。
      翌日、街に出て、ケーブルカーに乗ったり、ゴールデンブリッジ(金門橋)などの観光名所
     を駆け足で回り、午後の便に搭乗し、日曜の午後羽田に着いたところ、妻が一人で出迎
     えていた。

      
                  出入国記録

      この年の5月に新東京国際空港(成田空港)が開港し、羽田からアメリカへの出入国の
     終末期にあたっていたことになる。

      妻の実家に行くと、2週間会わなかった長男が”他所のオジサン”が来たかと妻の後ろに
     隠れてしまったことを懐かしく思い出している。
      ( その長男が不惑に近い歳になっているのだから、私が老いるのも当然だ )

 (2) 日本版「アパッチの涙」
      和田峠で採集した”小さな団球状黒曜石”の名前にアメリカの伝説から取った「アパッチ
     の涙」は相応しくないと思い、日本らしい名前を、と考え、すぐに思いついたのが「天狗の涙」
     だ。

      アパッチ族が降伏したと同じころ、日本は幕末だ。水戸・天狗勢が筑波山で挙兵し、
     京都を目指した時、和田峠で地元の高島藩と松本藩の連合軍と戦い、勝利したものの
     天狗勢側でも小野瀬清吉以下7名が戦死し、手負い(負傷者)は多数だった。
      このときの戦死者は、和田峠のふもとに「水戸浪士の墓」として葬られ、今でも地元の
     人たちに手入れされている。天狗勢の決起から終焉までの経緯(いきさつ)を次のページ
     で紹介したことがあり、「天狗の涙」を思いついた次第だ。
      ( 「水戸浪士の涙」、では”ムサ”いし・・・・・ )

      ・長野県の母岩付き「満バン柘榴石」 - Part2 -
       ( SPESSARTINE with Dacite - Part2 - , Nagano Pref. )

      2013年9月、久しぶりに岐阜県苗木地方を訪れ、帰りに中津川市鉱物博物館に立ち寄
     った。中津川市博物館だより『恵那山』を読むと「中津川宿に残された鎧の片袖」という
     タイトルで、水戸・天狗勢と中津川のかかわりを紹介しているので引用させてもらう。

      下の写真は、鎧の片袖だ。これは、水戸・天狗勢の大将・田丸稲之衛門が中津川宿の
     市岡殷正(しげまさ)と間秀矩(はざま ひでのり)に贈ったものだ。
      大将級の武士が、命と同じくらい大切にしている鎧の一部を贈るということは、これ以上
     ないほどの感謝を表すことだった。

       田丸稲之衛門の鎧の片袖

      元治元年(1864年)3月27日、筑波山で挙兵した天狗勢は、和田峠での戦闘の後、下
     諏訪から伊那街道で飯田に出て、妻籠、馬篭、落合を経て中津川の宿に入ったのは11月
     27日だった。幕府から賊軍(反乱軍)とみなされていた天狗勢はどこの土地でも恐れられ、
     通り沿いに住む人々は昼間でも雨戸を閉め、かれらが通り過ぎるまで息を殺してジッとし
     ているか、どこかに避難しているというありさまだった。
      しかし、中津川宿で天狗勢を待っていたのは、宿場の人々の温かいもてなしだった。しか
     も、心憎いことに中津川名物の「五平餅」を『護兵餅』(あなたたち天狗勢を守る餅)、
     「きしめん」を『義士めん』(正しいことを行う人にたべてもらうめん)と書いた幟(のぼり)を
     掲げ天狗勢を招き入れた。
      故郷を遠く離れ、賊軍の汚名をきせられ、戦いに疲れ果てていた天狗勢にとって、中津
     川宿の人々の歓待や食べ物は、どれほど体と心に沁(し)みたことだろう。

      それだけでなく、天狗勢のひとり横田藤四郎祈綱(のりつな)という武士は、和田峠の
     戦いで戦死した息子・元綱の首を布に包んで持ち歩いていた。埋めた場所がわかれば、
     賊軍の兵士の首として酷い仕打ちを受けるからだ。中津川宿の市岡殷正と間秀矩は、
     その首を預かり、自分たちゆかりの墓地に手厚く葬った。戦死した賊軍の者を葬ることは
     幕府からみれば重大な罪で、自分たちだけでなく、家族や親類にまで命が危うくなる行
     為だった。

      自分たちを頼ってきた主義主張を同じくする天狗勢に対して、市岡、間はじめ中津川宿
     の人々は、心を尽くしてもてなした。
      中津川宿の人々の命をかけたもてなしに感激した田丸稲之衛門は、自分の分身ともい
     える鎧の片袖を中津川宿に残したのだった。

 (3) 秋のミネラル・ウオッチング
      暑かった夏もようやく終わりを告げた。10月19日には、例年より2週間以上遅いが富士
     山の初雪も自宅から観察できた。今年の夏は最高気温が40.7℃と山梨県の記録を塗り
     替えるほどの猛暑だったが、『夏暑かった年は、秋が短く、冬の寒さが厳しい 』、という
     データがある通り、2、3日前からコタツが出番を迎えた。

      2013年6月、「月遅れGWミネラル・ウオッチング」に参加した奈良・Yさんに、「眉刷毛
     万年青(まゆはけおもと:学名 Haemanthus albiflos【ハエマンサス アルビフロス】)の
     株を頂いた。
      水をやり過ぎるとダメ、というYさんの指導を守って妻が手入れしたせいか、暑かった夏を
     無事に乗り切り、朝夕肌寒くなったころ、3株が花芽をつけ、富士山の初雪のたよりととも
     に真っ白な花を咲かせた。
      眉を描く刷毛(はけ)を思わせる姿で、実がなって色付くまで楽しめるらしい。贈って下さ
     ったYさんに感謝している。

         
                  富士山の初雪                   「眉刷毛万年青」
                【2013年10月19日】

      間もなく恒例の「秋のミネラル・ウオッチング」だ。大勢の石友と長野県川上村の湯沼
     鉱泉でお会いできるのを楽しみにしている。
      社長、お姐さん、”モコモコ”の川上犬の子犬4匹、そして飛びっきりの大自然が待って
     いる。

         
                  川上犬の母子                   紅葉
                  【at 湯沼鉱泉】

6. 参考文献

 1) 地団研 地学事典編集委員会編:地学事典,平凡社,昭和45年
 2) 堤 隆:黒曜石 3万年の旅,ニッポン放送出版協会,2004年
 3) 木村 英明:北の黒曜石の道 白滝遺跡群,新泉社,2004年
 4) 大竹 幸恵:黒曜石の原産地を探る 鷹山遺跡群,新泉社,2010年
 5) 松原 聰、宮脇 律郎:日本産鉱物型録,東海大学出版会,2006年
 6) 黒曜石体験ミュージアム:案内パンフレット,同館,2013年
 7) 中津川市鉱物博物館編:中津川市博物館だより 恵那山 Vol.14 No3,同館,2013年
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