私が掘っていたあたりで集中的に出たので、1週間後に妻と2人で再訪した。先ず、
試掘坑内の土砂を「フルイ掛け」する作戦に出た。これは、労多かっただけに実りも
大きく「母岩付き」と「4cmの半完形品」が採集できた。
次に、妻は試掘坑前のズリ、私は前回掘ったズリを掘ることにした。私の場所からは
”ボチボチ”電気石が姿を現わしてくれ、「5cmの半完形品」を筆頭に、7ケ採集できた。
昼を摂ってから引き上げようと妻のところまで登ってくると、妻が 『 これでしょう? 』
と差し出したのは、「6cmの完形品」だった!!
報告のため「湯沼鉱泉」に立ち寄ると、社長が『 まだまだ、あるんだナ 』、と感慨深げ
だった。社長に聞くと、『 完形品を持っているのは、日本(世界)で10人チョットだろう』
との事で、貴重な品を妻は自力採集したことになる。
まさに、” 殊勲 甲 ( 内助の功 ) ” である。
千葉の石友・Mさんから、『 なぜ”Mineralhunters”と複数形なのかが解った』とメールを
いただいたことがある。( ここまでになるのに、7年ほどかかった )
お姐さんが電話してくれ、やがて、石友・小Yさんも来てくれ、五無斎が泊まった宿の
「坂本屋」の場所や扁平電気石が集落のすぐ近くの土木工事で発見された、など興味
深い話をたくさん聞くことができた。
HPにも書いたが、「穴沢の扁平電気石」の外観は、軽石のようで、まるで電気石らしく
ない。ミネラルウオッチングのとき、どのような”顔”をしているのか、知らないのが、
採集に苦戦した1つの理由のようだ。
妻は、東京の石友・Mさんが「7cmの完形品」を採ったときに同行し、採集したものを
現場で手に持たせてもらい、”外観(色と形)”、手に持った”ザラザラの手触り”、そして
”重さ(見掛けの比重)”、などを頭にインプットしておいたのが良かったようだ。
産地には、午後になっても霜柱が見られ、ズリも凍てつき、来春まで採集者を寄せ
付けない冬の眠りに就こうとしていた。
( 2007年11月採集 )
この本に記載された写真と現在の状況は、同じ場所とは全く思えないほどに変貌
している。
この産地は、社長や地元の小Yさんによれば、正しくは「御所平(ごしょだいら)」ある
いは「御所平穴沢(あなざわ)」と呼ぶので、このHPも「穴沢」 としてある。
産地だけでなく、「扁平電気石」の外観もわかりにくく、湯沼鉱泉に宿泊し、「天然
水晶洞」で、産状と標本を良く見た上で、社長に産地を聞いて訪れることをお勧め
する。
10年以上前、湯沼鉱泉社長が再発見した時には、坑内から母岩付電気石が採集
できたそうだが、今ではもっぱらズリでの表面採集かズリを掘ってみることになる。
今回は、ペットボトルに水と歯ブラシを持参し、ブラシで擦って水洗いして確認する
作戦をとったが、役に立ったのは歯ブラシだけだった。
Tさん 「 この炭のような黒いのが電気石でしょうか? 」
私 「 これは炭のような、ではなく、炭そのものです 」
@ 母岩付き
今回、母岩付きを初めて採集でき、「扁平電気石」の産状が良く理解できた。
グライゼンの晶洞(ガマ)の中に成長した自形結晶で、表面に小さな球状白雲
母や石英粒などの衣を被(かぶ)っている。
A 分離結晶(「完形品」)
B 分離結晶(「半完形品」)
「完形品」が割れて、結晶の形が約半分以上残っているものを「半完形品」と
呼ぶことにする。これでも、結晶の形が十分類推でき、”鉱物学的には価値が
ある”、と考えている。
( もちろん、これより小さな、”カケラ”でも、今どきは貴重なことは間違いない )
破面の色は真っ黒で「鉄電気石【SCHORL:NaFe3Al6(BO3)3Si6O18(OH)4】と
同じだが、結晶の空隙に見られることがある細柱状〜針状の結晶は、透明〜灰
白色〜黄褐色で、「苦土電気石」らしさを示している。
もっとも、マグネシウム(Mg)と鉄(Fe)は、置換しあって、あらゆる比率のものが
あるので、肉眼での鑑定は難しい。
(2) このほか、松茸水晶/石英【scepter quartz/QUARTZ:SiO2】はじめ各種の
異形水晶が石英脈そしてグライゼン中の石英塊の空隙に産する。透明度が高く、
シャープな結晶で美しい。母岩付も採集できる。
「鋭錐石」「板チタン石」などのチタン鉱物、「緑柱石」などのベリリウム鉱物、さらに
「燐灰石」も産する、との報告があるようだが、私は今まで確認できていない。
(2) 穴沢の扁平電気石が世の中に知られたきっかけをつくったのは、”五無斎”こと
保科 百助であった。
このミネラルウオッチングに参加した、長野県の高校教師・Tさんは、”五無斎”が
訪れた産地に立てただけで感激し、その上小さいながら3ケの標本を自力採集でき
感慨ひとしおだった、と後でメールをいただいた。
この電気石をめぐるミニ歴史をもう一度掲載しておきたい。
年 (西暦) | 人 物 | 出 典 | 内 容 | 備 考 | 明治31年夏 (1898年) | 五無斎 | 下記 |
川上村御所平、川端下を訪れ 穴沢の電気石を採集 | 来訪した神保小虎に 渡した(?) |
明治31年 (1898年) | 神保 小虎 | 地質学雑誌 |
本年(明治31年)夏 保科百助氏が得たる品に (第一) 同村御所平の電氣石あり Rのみ大いに發育して∞P殆 (ほとんど)見へぬ結晶を為し 最大の直徑凡(およそ) 貮(2)寸(6cm)にて、表面 雲母の如き者に分解せり、 (第二)・・・・・・・・・・ | 扁平電気石の存在が 初めて公になった |
明治40年 (1907年) | 和田 維四郎 | 本邦鉱物標本 |
黒色にして大なる釘頭状をなせる 周囲完全なる結晶(結晶面はR)を なす径凡60mmあり 柱面の発達極めて僅かにして R面の発達頗る大なり(2個) |
1900年のパリ万博に380種の 鉱物標本を出品した。 出品した鉱物は、和田標本を 除き、パリ地質調査所に 寄贈された。
持ち帰った和田標本は
|
明治42年 (1909年) | 五無斎 | 長野県地学標本 採集旅行記 |
5月12日 馬場署長、林巡査同道で この地の由井久平氏を案内に 穴沢山なる電気石産地に至る。 此地の電気石は工学士 高壮吉君の誤鑑によりて 俗に十勝石と称えきたれるもの なり。 偖此電気石は平たき斜方六面体と 六角柱の聚形を為し外面雲母に 変ずるもあり。 叉全然雲母となりたるものあり その全然雲母となりたるものは 電気石の仮晶を為せる雲母と いうも差支えなし。其太くて短きは 此鉱物を著名ならしめた所以にして 5円、10円(今の2、4万円)を投じ ても是非共採集を為さんと欲したれば 久平氏に托して更に多数の人夫を 上らすことの約束を為し・・・・』
5月15日 |
穴沢の電気石には未練が あったと見え、帰りにもう一度 立ち寄った 今から100年近く前の明治42年で さえも、穴沢の電気石は稀産と なっていた
今でも、一人で数個は採集 |
大正5年 (1916年) | 福地 信世 | 日本鉱物誌 第2版 |
黒色にして花崗岩中の 石英脈中に出づ。e及び 之に相当する下部の面を 主面とせる扁平の晶相にして a柱面頗る短く現る又mの小なる 柱面を有す |
結晶図を掲載
|
大正12年 (1923年) | 八木 貞助 | 信濃鉱物誌 |
古生層中に迸入せる ペグマタイト脈中に出づ e及び之に相当する下部の面を 主面とせる扁平の晶相を示し a柱面頗る短く現る 又mの小なる柱面を有す 最大の直径凡そ7センチに達す 黒色にして外面は分解の結果? 褐色燐片状をなす | 昭和15年 (1940年) | 小出 五郎 | 我等の鉱物 |
御所平に宿泊
『 旅館主人の言によれば | 現金採集(?) | 昭和44年 (1969年) | 地元の石友 Yさん |
小学校の遠足で訪れ ズリで電気石を30個以上採集 | 採集品は 担任に渡してしまった |
平成7年ごろ (1995年ごろ) | 湯沼鉱泉社長 |
試掘坑跡を再発見 電気石を母岩付で採集 | 「水晶洞」に展示 |
(3) 湯沼鉱泉社長の話では、『 完形品を持っているのは、社長以外に無名会のT氏
東京の堀先生、H氏、Mさん、愛知のKNさん、H氏、長野の小Yさん、そして私たち
夫婦。湯沼に寄らない人で採集した人もいるだろが、それにしても日本(=世界)で
10人チョットだろう』、との事で、貴重な品を妻は自力採集したことになる。
ミネラル・ウオッチングは採った標本を売る金儲けではなく、”趣味”なので、その
スタイルは万人万様であって良いと思う。
ただ、”良い扁平電気石を採りたい”と思ったら、「湯沼鉱泉」に泊まって、天然
水晶洞」で実物をジックリ見て、社長に頼んで手に持たせてもらい、産地を良く聞い
てから行くことをお勧めする。できれば、産地を良く知った人に案内してもらうのが
一番だろう。
「天然水晶洞」に飾ってあった、「向山鉱山の水晶・巨晶」が2週間ほど前に盗まれ
社長がガッカリしていた。( 前にも、「川端下の双晶・美晶」が盗まれた )
盗まれた標本もさることながら、石好きな人(?)が盗んだことの方が、よりショック
だったようだ。
(3) 産地には、午後になっても霜柱が見られ、ズリも凍てつき、来春まで採集者を寄せ
付けない冬の眠りに就こうとしていた。