北海道・雨宮砂金採取団

北海道・雨宮砂金採取団

1.初めに

 北海道での砂金採集の歴史には、必ずといってよいほど「雨宮砂金採取団」が
登場します。これは、山梨県塩山市出身の実業家・雨宮敬次郎が募集し、北海道での
砂金採掘に従事した一団で、山形県西村山郡三泉村(現西川町)出身の「小泉衆」と
呼ばれた人々であった。
 明治23年(1890年)から明治27年(1894年)ごろまで続いたとされ、ここで
働いた人々が明治31年(1898年)から始まる、「枝幸のゴールドラッシュ」や
その後の北海道における砂金採集の中核を担ったようです。
 その足取りは、脇 とよ著「砂金掘り物語」をはじめ、北海道の砂金採集に
関する多くの書籍に記されています。

     脇 とよ著「砂金掘り物語」表紙

 雨宮敬次郎が私が住む山梨県出身であることから、「雨宮砂金採取団」について
調べてみましたので、報告いたします。
(2004年2月調査)

2. 雨宮敬次郎の人となり

   「郷土史にかがやく人々」による略歴は、次の通りである。

   『弘化3年(1846年)9月5日、山梨県山梨郡牛奥村(現在の塩山市)に生まれた。
  7歳のときから13歳まで学問修行、14歳になったとき、商人になることを志して
  行商生活に入り、やがて、かれの足は江戸や開港後の横浜にも向けられるように
  なった。明治5年(1872年)、横浜で活動を始めた。翌年結婚したが、そのころ
  から、彼の最も波乱に富んだ浮き沈みの激しい時代となった。彼の商業には
  投機性が強く、後に「投機界の魔王」と呼ばれたのは、前半生におけるこのころの
  活動に根ざしていたと考えられる。明治9年(1876年)から翌年にかけて欧米に
  遊び、帰国後、文明開化的事業に着手したが、製粉・織機・開墾から、鉄道・製鉄
  水力発電など多方面にわたった。彼の事業の背景となったのは、維新後の日本の
  富国強兵・殖産興業の国是であり、鉄道の発達と製鉄事業の興起をしきりに力説
  彼自身の経営もそれらに重点が置かれた。晩年、彼は東京商品取引所のほか12の
  会社の社長・重役として活動し、その豪快な気性と起業家としての手腕は
  大隈重信をして「天下の雨敬」といわしめた。明治44年(1911年)1月20日没した。』

3.「雨宮砂金採取団」
    雨宮敬次郎が「砂金採取団」を結成するに至った経緯は、記録としては残されて
   いない模様ですが、その蔭には、榎本武揚(えのもとたけあき)の影響があったと
   推定されています。
    榎本武揚は、新選組・土方歳三らとともに、最後まで官軍に抵抗し、明治5年(1872年)
   特赦をもって放免され、「開拓使4等出仕」となり、「北海道鉱山検査巡回」を
   命ぜられた。
    翌明治6年(1873年)、空知・石狩での石炭山調査に続き、大樹町歴舟川の河口
   付近で、かなりの日数を費やして砂金の調査を行った。砂礫層を掘り下げ、岩盤上の
   含金砂礫層、含金粘土層の存在も確めている。その結果を、「北海道巡回日記」に
   次のように記している。

    『幌泉領住民300戸ニシテ春ヨリ5月迄坐食セリ故ニ此暇ヲ以テ此地ノ砂金ヲ
      洗ワシムル』

    明治7年(1874年)、榎本は特命全権公使としてロシアに赴き、千島・樺太交換
   条約の締結に全力をあげる。明治12年(1879年)、任務を終えた榎本はシベリア経由で
   帰国する途上、シベリアで砂金採集現場を視察し、入念な調査を行っている。
    帰国後、榎本は様々な役職を歴任する。

    一方、雨宮敬次郎は、明治13年(1880年)、東京深川に日本初の小麦粉製粉工場を
   建設し、巨利を得た。その小麦粉をロシア・ウラジオストックに輸出した関係で
   貿易事務官・寺見機一、アムール・コンパニーの川住正得らからシベリアの豊富な砂金の
   話を聞き、日本の北辺・北海道での砂金探検を思い立った。
    明治19年(1886年)ごろ、雨宮はこの構想を榎本に持ち込み、その伝で、北海道鉱業
   開発の功労者・山内提雲に働きかけ、渡島・函館付近・石狩地方の砂金採集許可を得る
   のに成功した。
    問題は、いかに腕の良い採取人を集めるかであった。ここに、図らずも、雨宮と山形県
   西村山郡三泉村出身の「小泉衆」と呼ばれた人々のコラボレーションが実現した。
    三泉村は、元泉・中泉・小泉の3村が合併してできた村で、最上川の上流寒河江川に
   沿った集落である。寒河江川、肘折温泉の烏川、清川郷の立谷沢川などは、古い砂金場
   として知られていた。

    『元和9年(1623年)頃 寒河江領より納高小物成り
     1.永200文 寒河江川ニ而金穿役』

    また、

    『羽州(現在の山形県)村山郡本道寺村外宮内村迄14ケ村地内寒河江川通江流出候
     砂金去子年より年々春雪解之時節取揚為吹立御買上之・・・・・・・・
     寛政5年(1793年)5月』

    とあるように、江戸時代から、砂金の採取が行われていた。
     永い間に、砂金は採集し尽くされ、明治時代には微細なものしか残されていなかった。
    これが幸いしてか、これらの微細な砂金を逃さずに採集できるほどに砂金採集技術の
    レベルは向上していたと思われる。
     西尾_次郎の著になる、「枝幸砂金論」には、

    『山形県最も多シ。而シテ彼等ハ同県最上川ノ砂金ニ付テ経験アルモノニシテ
     流掘ハ其特長タリ。故ニ枝幸地方ニ於テ最モ成功シタル採取夫ハ同県人ニ多シト云フ』

     雨宮と「小泉衆」を取り持ったのが、当時山形市で古物商を営んでいた、佐藤清吉で
    あった。佐藤は、砂金の買い付けも手がけ、その伝で「小泉衆」の菊池定助と知り合った。
     一方、金融業も兼ねた佐藤は、東京・九段の雨宮家にも出入りしていた。
     雨宮家で、北海道の砂金の話が出たときに、「砂金堀の定助と言うものが、北海道に
    渡りたがっているが、金がない」というと、雨宮は「資金は持つから、親方(リーダー)の
    選任をよろしく」となった。これが、明治23年(1890年)のこと。(一説には、明治19年)
     採取員募集要項は、次の様に、破格の好条件であった。

     @往復の旅費、食費、その他一切雨宮が負担
     A1ケ月15円か20円の報酬
     B帰国の際、服装、持ち物の検査を文句を言わないこと。
     C3ケ月分給料前払い。

      当時、地主に雇われて1ケ年に受け取る給金が10円であり、桁違いの報酬の魅力に
     希望者が殺到した。
      彼等は、仙台の塩釜から海路函館に向い、砂金採集地に入った。
     第1回(明治23年)   不明
     第2回(明治24年)  「利別(としべつ)川」
     第3回(明治25年)  「利別川」
     第4回(明治26年)  「夕張川?」「空知川?」
     第5回(明治27年)  「日高地方?」

     こうして数年間続いた「雨宮砂金採取団」の活動も、「今後は、佐藤氏から直接指導を
     受けるように」との雨宮の通告で、終わりを迎えた。

4.おわりに

(1)雨宮敬次郎の「砂金採取団」は、”投機の魔王”といわれた彼一流の投機に過ぎなかった
   のであろうが、この活動を通して、育成された砂金採取人が、明治31年(1898年)から
   始まる「枝幸のゴールド・ラッシュ」で活躍することになるとは、雨宮自身も夢想だに
   していなかったであろう。
(2)「みちのくの金」によれば、「小泉衆」の出身地・山形県西村山郡西川町の月山神社には
   「砂金取り絵馬」が奉納されている、とある。
    この絵馬は、「雨宮砂金採取団」が出発前に奉納したものか、帰ってきてから奉納されたか
   不明とされているが、絵馬には、往時の砂金採集の様子がリアルに描かれている。

    「砂金取り絵馬」

    また、この絵馬には、次のような歌が詠まれている。

    『としべつの 川に流るる砂金をば
      あめのちからで 手どる嬉しき 』

     ”としべつ”は、砂金を採取した「利別川」を指していることに異論はない。
     この本では、”あめ”を「神と水」の意味と解釈しているが、雨宮敬次郎と
     「小泉衆」の関係を考えると、”あめは雨宮の雨”と考えるのが素直な
     気がします。
      これは、山梨県に住む私の勝手な身贔屓でしょうか?

5.参考文献

1)脇 とよ:新編 砂金掘り物語,みやま書房,昭和57年
2)矢野 牧夫:黄金郷への旅,北海道新聞社,1988年
3)日塔 聡:北辺のゴールドラッシュ,北海道出版企画センター,昭和57年
4)田口 勇・尾崎 保博編:みちのくの金,アグネ技術センター,1995年
inserted by FC2 system