2015年 ミネラル・ウオッチング納め 『明延鉱山の鉱物』











         2015年 ミネラル・ウオッチング納め
              『明延鉱山の鉱物』

1. はじめに

    いよいよこの日のメインの目的地である明延鉱山に向かう。県道6号線に戻って北上し、「富士野
   トンネル」を抜けると明延だ。

    明延鉱山の採掘場は鳥取県との県境に近い養父(やぶ)市大屋町の山深いところにあったので、
   鉱山事務所や選鉱場は一山越えた朝来市佐嚢の神子畑(みこばた)にあった。この間をつないで
   鉱石だけでなく人や鉱山で必要な物資を運んでいたのが有名な『一円電車』だった。
    明延鉱山遺産は、明延から神子畑、そして生野までを結ぶ『鉱石の道』沿いに点在している。

    
                             明延鉱山地図

    実は、新井鉱山を後にしてから、ここに来るまでに、明延鉱山の貴重な鉱山遺産のいくつかを既に
   案内していただいていた。歴史に興味のあるわれわれ夫婦にとっては、ミネラル・ウオッチングに勝るとも
   劣らない貴重な体験だった。

    @ 神子畑の鉱山関連遺産
      ・ 神子畑鋳鉄橋
      ・ 神子畑選鉱場跡
      ・ ムーセ旧居

    A 明延の鉱山関連遺産
      ・ 一円電車

    B ミネラル・ウオッチング in 明延
      ・ 大仙粗砕場跡
      ・ キャンプ場

    ( 2015年12月 訪問 )

2. 神子畑の鉱山関連遺産

 2.1 神子畑鋳鉄橋
      紫水晶で有名な佐嚢(さのう)を過ぎ、神子畑川沿いに走るとすぐにアーチ型の橋が見えてくる。
     これが神子畑鋳鉄橋で、ここで産業遺産見学だ。

         
                   神子畑鋳鉄橋                       記念写真

      明治11年、神子畑鉱山が再発見され、明治14年本格開坑以後、鉱石運搬のために道路が
     必要になり、神子畑―生野間 16.2 kmに幅員 3.6 m(案内板にkmとあるのは間違い)の
     馬車道(鉱山道路)が建設され、多くの橋が架けられた。この馬車道が神子畑川を横切る所に
     架けられたのが神子畑鋳鉄橋だった。
      この工事は明治16年4月に着工、2年の歳月と4万円(現在の約2億円余)をかけて明治18年
     3月に完成した。工事には外国人の指導を受けながら日本人があたった。

      ・ 構造     鋳鉄製アーチ橋
      ・ 橋長     16.0 m
      ・ アーチ半径 60.0m
      ・ 幅員     3.7m

      日本で現存する鉄橋としては、大阪・心斎橋(明治6年 錬鉄製)、東京・弾正橋(明治11年
     錬鋳混用)、についで3番目に古い。鋳鉄製としては国内で一番古い。

      明治24年になって、大島道太郎技師の意見で、運搬コストを下げるため神子畑と生野間に
     レールが敷設され、以後昭和32年(1957年)鉱山道路が廃止されるまで、神子畑鉱山、ついで
     明延鉱山の鉱石運搬に活躍した。

     
                 鉄道馬車

 2.2 神子畑選鉱場
      神子選鉱場があった神子畑は、もともとは鉱山としてスタートした。その歴史は古く800年ごろか
     ら銀と銅を産出する鉱山で、徳川時代には生野鉱山の支山として幕府の管理下におかれた時期
     もあった。明治14年、生野鉱山加盛山として本格開坑され、翌15年には金香瀬山などと並んで
     生野鉱山の四山の一つに数えられるまでになった。
      明治29年、三菱に払い下げられた後、明治41年には鉱石が枯渇し採鉱・探鉱部門が縮小さ
     れ大正6年に閉山した。

      この窮地の救世主となったのが明延鉱山だった。明延鉱山では明治40年に錫鉱石が発見され
     それを選鉱処理する場所として神子畑が選ばれ、大正8年大規模な選鉱場として生まれ変わった。
      山の斜面を利用した選鉱場は、規模も産出量も『東洋一』と謳われ、夜中も操業している姿は
     『不夜城』とも呼ばれた。

      
           『不夜城』と呼ばれた時代の神子畑選鉱場

      しかし、昭和62年、円高の急激な進行で競争力を失った明延鉱山が閉山し、それに伴って神
     子畑選鉱場も操業を終了し閉鎖された。その後、選鉱場の建物や機材は撤去され、現在では
     その基礎部分のみが残っている。
      選鉱場の構成などの詳細は、後で「ムーセ旧宅」でジックリ模型で見学することができた。

            
                   取り壊し寸前                        訪問時
                    【2004年】                      【2015年12月】
                                  神子畑選鉱場

      ここには、「インクライン」が残されている。京都などにもある「インクライン」は日本語では「傾斜
     軌道」のことだ初めて知った。そのくらい英語名のほうが一般的になっている。たぶん、”inclined
     plane railroad(railway)” などの "incline" からきたのだろう。
       斜面の上まで人や物資の運搬を行うためのもので、台車が2台設置されていて、頂上の操作
     室で巻き上げ機を動かせて昇降させていた。レールは単線構造だが、軌道の中ほどは複線になっ
     ていて、台車がすれ違えるようになっていた。
      われわれに身近なものとして、観光地などで稼働している「ケーブルカー」と思えばよいだろう。

      
            インクライン

      明延から神子畑まで鉱石や人を運搬した『一円電車』は、選鉱場のある斜面の上を通っていた。
     斜面の上に着いた鉱石を砕いて、粉にして水と混ぜて最も経済的なエネルギーである”重力”を
     利用して下に送りながら選鉱し、一番下にあった巨大な円形の「シックナー」で、選鉱の最終工程
     の脱水・濃縮が行われた。

      
                       神子畑選鉱場 全景

 2.3 ムーセ旧居
      この建物は、明治5年に生野鉱山に外国人宿舎3棟が建てられ、その一棟にフランス人地質学
     者ムーセが住んだといわれ、「ムーセ旧宅」と呼ばれている。
      生野にあった建物がなぜここにあるかといえば、明治21年に神子畑鉱山の開発と共にこの地に
     移設され、事務所・診療所として使われた。ムーセが明治13年に契約満了で解雇された後の
     出来事だった。

         
                   全景                              屋根
                                  ムーセ旧宅

      ムーセは、1845年フランスに生まれ、サン・テチェンヌにある国立鉱山学校(エコール・ド・ミーヌ:
     Ecole des Mines)を1865年に卒業した。コアニエの10年後輩にあたる。
      鉱山学校が設立されたのは18世紀で、フランスを支える石炭と鉄鋼業技術者を育成しようと、
     ルイ16世が設立した。

      現在でも鉱山学校卒業者にはフランスのみならず世界の優良企業の経営者が少なくない。われ
     われになじみのある一人が日産自動車のカルロス・ゴーン社長兼CEOだ。

      明治4年(1871年)12月26日、鉱山技師・ムーセは夫婦で生野にやってきた。月給が洋銀600
     枚(600円)だった。当時、維新直後で政府要人の月給が200円くらいだったから、26歳の鉱山
     技師は破格の給与を受け取っていた。
      生野では、金蔵寺に落ち着き、鉱石の分析を担当しながら、鉱山機械所の再建に取り組んだ。
     まもなく、外国人官舎が完成し、その2号館にムーセ夫妻は住み、5人のこどもの何人かは生野で
     生まれたと思われる。
      ムーセは、生野鉱山の製鉱所建設だけでなく、明治8年三池炭鉱の疎水坑(水抜き坑道)を
     計画したり、明治11年日本各地を巡り鉱業計画を立案した。日本の鉱業への貢献度がいかに
     大きかったかは、明治13年退職時に銀貨1,500円の賞与を贈られていることからも知ることができる。

      ムーセ旧宅は、「コロニアル・スタイル(植民地様式)」と呼ばれる特徴をもち、正方形の断面の
     建物を取り巻くようにベランダをめぐらし、外壁の四隅には石を積み上げたように見せるコーナー・
     ストーンの技法が使われている。
      設計したのは、明治政府が招聘した(フランス人の)レスカスだったという記録が残っていて、仏領
     インドシナ(現ベトナム)の植民地時代の建物を彷彿とさせる。建物内部は、四等分されていて、
     いくつかの部屋には暖炉が据え付けられていて、寒さが厳しい生野に適応した造りになっている。

      建物の中に入ると、日本家屋に比べ出入り口(ドア)が高いのに気付く。日本人としては大柄な
     方のNさんが手を伸ばして届くくらいだから2mはありそうだ。「京都迎賓館」も高さ2mなので、これが
     西欧の標準なのだろう。

      
      出入り口の高さに”びっくり ポン”

      4つの部屋には、明延鉱山の鉱石、神子畑選鉱場の模型、ムーセ宅の菊花紋の入った軒瓦な
    どが展示してある。私の興味の中心は、やはり鉱石だ。

      
              自然銅              錫・黄銅鉱など
                     明延鉱山の鉱石

      ここでは地元ガイドの方々から鉱山が稼行していて、『一円電車』が運行していた頃の神子畑や
     明延の様子を聞くことができる。
      ガイドさんから「竹田城のついでに回ってこられたんですか」と聞かれた。この地域で観光の目玉は
     ”日本のマチュピチュ”とか”天空の城”と呼ばれ人気沸騰中竹田城だ。
      前日に宿泊したモンテ・ローザでも「明日の朝早く竹田城に行かれますか」と聞かれたくらいだった。

      
                 天空の城「竹田城」

      われわれが、「ここが見たくて山梨県から来たんです」と答えると、えらく感激してくれた。ここでは
     お土産用にオリジナルのTシャツと手ぬぐい、そして書籍や絵葉書などを売っているので本と絵葉書を
     購入した。

3. 明延の鉱山関連遺産

    神子畑を見学した後、大身谷鉱山を訪れ、明延に着いたらお昼だった。明延には、「探検坑道」
   や冬季を除き月に1回運行する「一円電車」などの鉱山遺産がある。この日は運航日でなかったので
   停車している「一円電車」を見学した。
    第一印象は、「小さい!!」だ。まるで遊園地にある電車のようだ。

         
                  機関車                              客車
                                  「一円電車」

    この電車は、明延から一山越えた神子畑まで約6キロを30分で結んでいた。時速5キロで歩く速さは
   時速4キロとされるから、歩くよりも少し早いくらいだった。最も歩いたら山を越えるか、大きく迂回するしか
   ないから、最短距離で結ぶこの電車は住民にとってありがたい存在だったろう。

      
                  「一円電車」運行図

    神子畑からバスに乗ると、播但線の新井に行け、姫路や大阪に行くのに便利なルートだった。何よ
   りも播但線を蒸気機関車が走っていた時代に山奥の明延や神子畑に電車が走っていたのだ。

    なぜ、「一円電車」というと運行を開始した昭和20年から廃線になる昭和60年まで、電車賃が1円
   と日本一安かったからだ。もっとも、外から来た人の運賃は10円だった。
    なぜ1円だったかといえば、もともと鉱石を運ぶための鉄道だったが、この電車を使うことで通勤・通学
   買い物が便利になるため従業員や家族が乗れるようになった。お客さんの人数確認を容易にするため、
   電車賃を1円にした。
    「今日は売り上げが30円やから、30人乗ったんやなぁ」という具合だった。

    この電車がいかに小さいか、電車のレールの間隔を比較してみよう。

     ・ 新幹線  1,435ミリ
     ・ JR     1,067ミリ
     ・ 一円電車  762ミリ

    JRのレール感覚の70%くらいしかない狭さだ。これは客車の狭さにもつながり、向かい合わせに座ると
   膝が向かいの人の股の間に入ってしまうほどだった。

    鉱物採集でここを訪れた人の体験談に、「車内には女学生の集団と私だけだった。トンネルに入る
   と車内は真っ暗で・・・・」、とある。
    「行ってみたかった」なんて言っても遅いですよ。Yさん。

    【後日談】
    ムーセ旧宅では「一円電車」の切符を展示していて、”復刻版”の切符も売っているようだった。ぜひ
   本物の切符を入手したいと思っていたら、オークションに出品されたので入札し、競る相手もなく落札
   した。
    入手してみて、「一円電車」の正式の名称は「明神電車」だと知った。延と子畑を結ぶところか
   らつけられた名前なんだろう。

      
              「一円電車」乗車券

4. ミネラル・ウオッチング in 明延

    N夫妻に明延でのミネラル・ウオッチングに、「大仙粗砕場跡」と「キャンプ場」の2か所を案内していた
   だいた。

         
                「大仙粗砕場跡」                            「キャンプ場」
                                ミネラル・ウオッチング風景

4.1 採集鉱物
     ここではこれぞという標本は採集できず、結局N夫妻に恵与していただいた標本を持ち帰る結果に
    なった。

  (1) 鉄重石【FERBERITE:FeWO4
       黒色、板状で石英中に産する。明延鉱山の代表的な鉱石で「日本の鉱物」にも掲載されて
      いる。鉄とマンガンの比が、Fe:Mn=4:1〜1:4の範囲が鉄マンガン重石で、これより鉄が多いのが
      鉄重石だ。

       
                     鉄重石

  (2) 蛍石【FLUORITE:CaF2
       石英の晶洞の中に小さな水晶を伴って六面体結晶で産出する。紫外線を照射してみたが、
      蛍光は示さなかった。

       
                     蛍石

5. おわりに

 (1) 産地を横目に
      明延に別れを告げ、Nさん宅を目指す。大屋町夏梅に差し掛かると「紅砒ニッケル鉱」で有名な
     「夏梅鉱山」のあたりが車窓から見える。
      2003年に案内していただいた場所だが、機会があればもう一度訪れてみたいが、今回は横目で
     眺めて通り過ぎるだけだ。

      
                 「夏梅鉱山」遠望

 (2) 道の駅「但馬のまほろば」
      養父ICから北近畿豊岡自動車道に入る。ここは無料の(高速)道路のようだ。(高速)道路上に
     ある道の駅「但馬のまほろば」に立ち寄ってくれた。
      ここには、朝来市埋蔵文化財センターの「古代あさご館」があり、考古学に携わる妻のためのN夫
     妻の心遣いだ。
      朝来市にある遺跡から出土した遺物を展示・公開している。ここに来る直前に、高速道路上から
     復元された巨大な「茶すり山古墳」を見てきたばかりだった。
      私の興味の中心は、「石器」だ。石鏃(矢じり)が展示してあるが、使っている石材と石器の形が
     関東甲信越とは明らかに違う。

         
                  「古代あさご館」                      石鏃(矢じり)

 (3) 三田温泉「熊野の郷(くまののさと)」
      この日の夕食は、Nさん宅から数分のところにある三田温泉「熊野の郷」だ。車を降りて、出迎え
     の電動自走車に乗るとエントランスが見える。

      
                「熊野の郷」の電動自走車

      ここの元湯100%の天然温泉で採集の汚れを落とし、バイキング形式の夕食をいただく。すっかり
     満腹し、Nさん宅に着いた。

 (4) Nさん宅にて
      玄関には、「竜王第二鉱山」の大きな「カテドラル(スプラッシュ)水晶の群晶とミネラル・ウオッチン
     グのオークションで落札した「大深山鉱山」の双晶の群晶がガラスケースに入って展示されている。
      採集した標本は産地別に整理されていて、我が家の標本とは大違いだ。見せていただいた標本
     の中からいくつかを厚かましくも頂戴した。

      翌日は、大阪府長谷の長石産地と多田銀山跡を案内していただく予定だった。産地の地図を
     見ると、シベリア抑留者の多くが帰国時に上陸した舞鶴が意外と近いのに気づいた。
      2015年は戦後70年の区切りの年で、「シベリア抑留」にも関心を持ち、舞鶴を一度訪れてみたい
     と思っていたのだ。

      ・ 俘虜郵便の研究 シベリアからの葉書
      ( Study of Prisoner of War Post , Postcard from Siberia , Yamanashi Pref. )

      そんなわけで、翌日は長谷を案内していただいた後お別れし、われわれは舞鶴を経由して山梨
     に帰らせていただくことにした。
      お風呂を浴び身体もだらけ、いただいたワインの酔いもあって床に入らせていただいた。

6. 参考文献

 1) 益富地学会館監修:日本の鉱物,成美堂出版,1995年
 2) 朝来町監修:ムーセ旧居・旧神子畑鉱山事務舎,同町,平成16年
 3) あけのべ自然学校:一円電車物語,明延区,2014年








inserted by FC2 system