福井県美山町赤谷(あかだに)鉱山の”金米糖”(自然砒)

1. 初めに

   福井県福井市美山町にある赤谷(あかだに)鉱山は「金米糖状自然砒」の産地として
  鉱物コレクターの間で世界的に有名だ。

   ここを最初に訪れたのは、ミネラル・ウオッチングを始めて間もない1990年ごろで、S氏
  に案内していただき、小さい「金平糖」をいくつか採集できた。
   同じ頃、東京のF氏に、丸ケースに15mmほどの「金平糖」が5、6ケ入った標本を見せら
  れ、その後何回か産地に通ったが、これと同等以上のものは見つけられなかった。

   2003年には、3回ほど訪れ、”金米糖”のほかに”サイ形”など稀産とされる自然砒の結
  晶や金米糖のでき方を暗示する”卵型”(私の造語)などを採集できた。
   2004年は一度も訪れることなく、集中豪雨で、福井市内をはじめ足羽川(あすわがわ)
  流域が洪水で大きな被害受けたことをテレビで見て、その後の産地の状況が気になって
  いた。
   2005年5月、京都府の石友・Tさんにお会いしたとき、『赤谷の金米糖は1つも採れなか
  った』と漏らしていたのが気になり、産地の現況を確認するため訪れ、”金米糖”や”母岩
  付き”をいくつか採集することができた。
   2007年9月、Nさん一家や何人かの石友と訪れ、Yさんが素晴らしい標本を手にし、私も
  小さいながらいくつか採集でき、産地が健在である事を確認できた。

   2009年4月、石友・Nさん夫妻と北陸でのミネラル・ウオッチングを楽しんだ後、山梨に戻る
  途中、産地の様子を見るため立ち寄ったところ、今まで採集した中で一番大きな『31mmの
  金平糖』
を発見した。この日は山梨に戻るのを取りやめ、急遽1泊し、翌日も採集を続けた
  ところ、『10mm大の金平糖が2つ並んだ母岩付』を採集できた。
   これでこの産地も、ようやく卒業できそうだ。
  ( 2009年4月採集 )

2. 産地

   赤谷鉱山は、福井県美山町(福井市に編入された)赤谷(あかだに)にある。以前、産地
  への入口にあった「赤谷→」の標識はなくなり、分かりにくくなっている。
   以前は薄暗い産地だったが、赤谷川の護岸工事が済み、今では明るい産地に変貌して
  いる。

    赤谷川【護岸工事も新しい】

3. 産状と採集方法

 3.1 産状
   「日本鉱産誌」によれば、赤谷鉱山は、味見鉱山とも呼ばれ、明治末、大正初めに稼行
  した、とある。
   しかし、「日本鉱産物文献集」にある「地質学雑誌」の論文や「日本鉱物誌(第1版)」を読
  むと、明治中期の明治18年ごろには「輝安鉱」の採掘が行われ、それに伴って「金平糖」も
  採集されていた。さらに、「自然砒」は露頭が自然に崩落し、川に流れ出たものが地元の
  子どもたちによって拾われ、「金平糖」として知られていたようだ。

No著者タイトル 出 典
発行年
(和暦)
  内 容 梗 概 備    考 
1? ステルツ子ル
教授逝く
地質学雑誌
1895年
(明治28年)
 (教授が)ハムブルクより日本産出の
「アーセン(自然砒)」を得たりとて非常に
喜び、和田維四郎氏に書状を以て産地
問合せ候故、番地を調べ呉候様申居候
 小生は番地を先生に差出たれ共其後
果して日本に問合されたるや否やの所は
承知不致候

 「アーセン」結晶は、今日まで非常に稀
偶有之も非常に小なるに先生が日本産
なりとて小生に示されたるは小指の爪位
の大きさにて、先生之喜ばれたるも其筈
なりと今日相感申候

 ステルツネル教授

 ドイツ遊学中の
人よりの通信
(手紙)

 小指の爪大
 (10〜15mm?)

2篠本 二郎 特生砒鉱の発見地質学雑誌
1895年
(明治28年)
 ・・・余は以上の記事(No1)を読みて思い
当ることあり
 3、4年前の事と覚ゆ。図らず余が知人より
自然砒なりとて贈りたる鉱物は前記(No1)の
小指位の黝黒色円形の鉱物にして、其外部に
5厘(1.5mm)計りの四面体の群立簇立せるもの
なりし。
 而して産地は詳かならざれども越前面谷の
人より数個を得て之を大坂造幣局の人に託し
分析し貰ひしに100分中98余の砒素にして全く
自然砒なるとの事なりと附記したり
 故に余は直に産地を調べ呉るゝ様依頼せしと
雖、元来専門の人に非らざれば余の依頼を深く
意に留め呉れざりし

 而して其後間もなく獨乙ライン河州ボン府の
クランツ氏へ贈る鉱物ありて当時余は該鉱は
面白き研究材料なれども産地不明なる間は之を
所持するも益なしと思い然れども外人に贈るには
悉(くわ)しき産地分らざるも日本に産すると丈
にて充分ならんと単に日本産として他の鉱物と
共に送りしとあり
 此物恐らく教授の手に入りしものならん

 其後尚ほ該鉱を得んと欲して種々心を苦しめ
るも終に近来まで其産地さへ知るを得ざりしに
本年(明治28年)7、8月の交(ころ)、学術研究に
北越を巡回し其途中越前大野郡大野町に赴き
しが余は同郡内の地理不案内なれば先ず小学
校に立寄り郡内の地理を尋ねしに校長は余に
嘗て採集せる鉱物標本に名を命じ呉れよと数十
個の越前産鉱物を示されたり。
 ・・・・之に名を命ぜる際、恰も先年入手せる
自然砒に毫も異ならざるもの1個を撰り出せり
 余が喜は実に無量なりし而して其産地を記せ
る附箋を検するに面谷産含砒素鉱と記しありたり
 次に其産量等を聞合せしに該校卒業生の先年
寄附せしものなれば一向に其産量等を答へ難き
由なれども余は己に産地を知りたれば別に問ふも
無益なりと其途次面谷に回り同山事務員其他
坑夫に就き小学校より得たる見本を示して産地を
問合わせしに1人として之を知るものなく再び大に
力を失へり
 夫に仙翁鉱山に回り前と均しく問合せしに曾て
産地を知るものなし。此時最早術盡き再び小学校
に返り同卒業生某に就き尋ね見んと思考しつゝも
同山滞在中逢う者毎に見本を示して問い試みしに
幸い同郡内の坑夫にして篤く産地を知れる者1人に
逢い再び余が愁眉を聞く(開く)を得たり。
 而して該坑夫の話に自然砒は尚今廃山なる
大野郡赤谷村赤谷鉱山より出て方言之を金平糖と
云うと。実に其形及び大さも金平糖に酷似し其菓子
の俗に角に当る所は即ち該鉱の四面体の完全なる
結晶に相当し全体均しく同質のものより成れり
 赤谷村は大野郡中今立郡に接する1寒村にして
交通の便頗る悪きのみならず数年間廃山にして一朝
多量の標本を得るに便ならず
 亦其産地の状態も廃山の為勿論之を詳かにするとを
得ざれども同山には数条の粘土ひありて彼の金平糖
は盛んに同山を稼行せる当時多く産出せりと云う。
 余は村人に多く之を採集することを託して途を他山
に移せり

 小指位の
→小指の爪大(?)

 これで、産地が
赤谷鉱山と判明

 明治28年には
既に廃山になって
数年が経っていた

3比企 忠 自然砒産地
赤谷鉱山
現時の景況
地質学雑誌
1900年
(明治33年)
 越前大野郡赤谷鉱山は彼の結晶自然砒の
産出を以て宇内に知られた産地に於て1の
金平糖として小児の玩弄物も今は稀品として
欧米各国鉱物陳列場には其ラベルを見出さ
ざる事なきと云うを
 以て本年(明治33年)夏季休業中同山訪問を
思ひ立ち1、2日の採集を試みたれば其概況を
報ず

 赤谷村は大野、足羽、今立3郡の境界線に近く
して大野郡に属し北越鉄道線鯖江駅より東方
凡4里(16km)の所にあり
 仝鉱山は折立村と赤谷村の中間にありて
赤谷村地籍に属し昔より金平糖の名は土人の
間に唱道され自然に崩壊せる岩石中より河中に
流れ出たる者を取りて玩弄せりと云う。
 今を去る凡15年前、1の硫安質母尼鉱
(アンチモニー鉱:輝安鉱)の発見あり、続て
之が採掘に従事するものありたるも採掘の
困難と鉱石の少量直ちに廃業の悲運に陥りたり。
 此時自然砒も多量に掘出し仝鉱の所在も明と
なれり
 其後凡10年程前か殊に金平糖採集にのみ
此業を再行せるものありたるも又暫時にして閉じ
爾来坑道は放棄されたり
 故に今般同山訪問も実に坑口1間許りにして
坑道崩壊し水満ち到底鉱脈の如何に成立もの
なりやを探求すること能はざりしは遺憾なりし
 然れども其近傍に露出する岩石より察するに
侏羅(ジュラ)系砂岩中に石英粗面岩の併出あり
其時此鉱脈の成立せしものに非ずやと考ふるなり
 2鉱共に砂岩の少しく変質せるものゝ内に染鉱し
自然砒は結晶となりて斑点をなして夾雑し安質母
尼鉱は同様結晶質の放射線をなす

 自然砒採集は前述の如きが故に旧捨石中より
得るに止るのみならず砂岩は腐食し粘土の如く
なる者ありて鋤等の輔けを以て漸く1日2、30粒を

 加ふるに結晶は其稜角溶解し去り不完全を
免れず
 要するに向後砒鉱の多量を得んと欲せば
旧坑を再稼するの外手段なしと云うべし
 赤谷村近辺尚ほ金平糖を発見する渓谷
ありと云へば其方面に於ても仝鉱脈の露出する
所あらん。

 輝安鉱を採掘したのが
明治18年ごろだった。

 明治23年ごろ金平糖を
目的に採掘した

 いずれも、短期間で
終わったようだ。

3和田 維四郎自然砒 日本鉱物誌
(第1版)

1904年
(明治37年)

 赤谷産は結晶群生し恰も金平糖の如き状を
なすものなり、其形像を熟視する時は斜方
六面体の或中心より射放的に群生するもの
にして其外面には結晶一部分の稜角を突出し
此奇観を呈するものなり。
 其存在の状況を見るに多くは粘土中に混する
と雖も是れ母岩の崩壊より生せしものなり。
其母岩は石英粗面岩にして自然砒の粒は
その空隙に附着するものなり。且之と同時に
輝?鉱(輝安鉱)の繊維状なるもの及少量の
鶏冠石を共産す。
 自然砒の斯の如き結晶は他国に産出すること
なきものにして専門家の注目する所なり。

 明治25、6年の交、独逸フライベルク鉱山
大学の地質学教授故ステルツネル氏、此鉱を
日本産として得、其精細なる産地及び産出の
状態を知らんことを著者(和田)に照会したる
ことあり。
 当時著者未だ之を知らず。百方捜索して始めて
赤谷産なることを知り得たり。
 蓋し該品は篠本氏が他の鉱物と共に独逸の
鉱物商クランツへ輸送したる中に在りたるもの
なりし。

 No1にあるように、
ステルツネル氏から
和田に、「金平糖」の
産地、産状の問合せ
があったが、和田自身
産地、産状を知らな
かった。

   今回、母岩付がいくつか採集できたことで、その産状がいくつかあることが明らかになっ
  た。

   (1) 石英粗面岩の中に成長したもの
       石英粗面岩の中に、”斑点状”に、自然砒が点在する。私が”卵型”と名付けた、
      石英粗面岩の内部を自然砒が充填した球顆状のものもある。卵の殻に相当する
      石英粗面岩は1mm程度の厚さしかなく、部分的に自然砒が顔をだしていることがある。
       ( 自然砒が見えるから採集した。ただ、パンニングしていると、異常に重たくて
        最後までパンニング皿の底に残るので気付くはずだ )

           
              母岩付                球顆
                    石英粗面岩に伴う

   (2) 石英粗面岩の割れ目を充填する流紋岩(?)の中に成長したもの。自然砒に接す
      る流紋岩は粘土に近い状態になっている。

        流紋岩に伴う

       これらが、母岩から抜け落ちて分離単晶となったものが、「金平糖」と呼ばれてい
      る。

 3.2 採集方法
     上の文献No3にもあるように、今から110年近く前の明治33年(1900年)ごろですら
    『 自然砒採集は前述の如きが故に旧捨石中より得るに止る 』、とあるように、ズリ
    の土砂の中から探すことになる。

     採集方法として、次の2つの方法がある。

    (1) ふるい掛け
    (2) パンニング

        採集風景【2003年】

     私は、ここ数年、パンニングを愛用している。その理由は、自然砒の比重が5.78と
    土砂(石英)の2倍以上も大きく、パンニングでトパズが採集できる程度のテクニックが
    あれば小さな結晶まで見逃すことがない。
     また、産地に多い”杉の実”を「金平糖」と見誤って、初めは”ぬか喜び”、最後は
    ”ガッカリ”することもない。

        ”金平糖”風(もどき)・・・騙し(だまし)?

4.産出鉱物

 (1) 自然砒【ARSENIC:As】
     自然砒は、産状のところで照会したように母岩付きと分離結晶とが採集できる。
     分離結晶では、今回、長径31mmで「ズシリ」と手応えのある巨晶を筆頭に、大小
    約40ケ採集できた。
     写真のものは、2つの金平糖が融合したようで、ピーナッツに見えるので双子の
    歌手に因み『ザ・ピーナッツ』、と命名した。

     「福井縣鑛物誌」によれば、『斜方6面体Rの主軸の仝心放射状集合は
    金米糖状の球を造る。径10乃至15ミリあり。』
とあるので、30mmを超えるものは
    少ないのではないだろうか。
     大半は、表面の酸化が進み真っ黒だが、中には、採集したては新鮮で表面が白銀
    〜黄銅(真鍮)色の金属光沢を示すものもあり、砒素は金属であることが解る。

     10mm大の金平糖が2つ並んだ母岩付きは、産状を良く示している。このような壊れ
    やすい形状の標本が現在もズリで採集できたことは、奇跡と言っても過言でないだろ
    う。
     2つの金平糖が星に見えるところから『Twin Star (ツイン・スター:双子星)』、と命名
    した。

         
               巨晶【31mm】                  母岩付き
             【銘:ザ・ピーナッツ】           【銘:ツイン・スター:双子星
                              自然砒

     この産地では、『球形をした”金平糖”』だけが注目されがちだが、むしろ稀産とされる
    『四角い”サイ(賽)形”』や『球状の一部だけからなる”樹枝状”』なども探すとおもしろ
    いと思うのだが。

Noタイプ        採     集     標     本備    考 
    写     真     結    晶    図
1球状をした”金平糖”  結晶図は
「福井縣鉱物誌」
から引用

 同誌によれば、
『 斜方6面体の結晶軸が
 互いに平行に重なり合うときは
 ”サイ形”に近き平行連晶を
 形づくる。径5乃至10ミリあり 』

2四角い”サイ(賽)形”
3球状の一部からなる
”樹枝状”
  

 (2) 重晶石【BARITE:BaSO4
     透明、角が取れた四角厚板状結晶で、玉髄質石英の晶洞の中に輝安鉱と共に族生
     する。
      なお、赤谷鉱山からの「重晶石」産出の報告は初めてではないだろうか。
      重晶石

 (3) 輝安鉱【STIBNITE:Sb2S3
     母岩には、輝安鉱脈が走り、その劈開面が針状〜柱状にみえ、空洞には時として
    小さな頭付き単晶もみられる。
      輝安鉱

 (4) 鶏冠石【REALGAR:As4S4
    2000年ごろ、”赤い鉱物”を採集し、「紅安鉱?」ではないか、はたまた”辰砂”かと
   考えたが、一部黄色(石黄【ORPIMENT:As2S3】)になりつつある部分もあり
   鶏冠石に落ち着いた。
      鶏冠石【2000年ごろ採集】

 (5) 黄鉄鉱【PYRITE:FeS2
     表面が金色にピカピカ輝く直方体黄鉄鉱の集合がある。
      黄鉄鉱【2003年ごろ採集】

     このほか、小さな「水晶」や「玉髄」などが採集できる。

5.おわりに

 (1) ”絶産”?
      ズリに取り付いて小一時間、自然砒らしきものが全くパンニング皿に残らなかった。
     Nさん夫妻と別れる前、これから赤谷鉱山に立ち寄ると話すと、奥さんが「前回(2007
     年9月)、全く採れなかった」と話していた。

      『藁(わら)束の山から針を探し出す』 奥さんが全く採れなかったとなると、”絶産”
     2文字が頭をよぎった。何個所か場所を変え、ようやく”ポイント”を見つけることが
     でき、今までで一番の成果があった。
      『採れなかった』、という報告を目にするが、産地が今でも”健在”なことを確認でき
     ”ホッ”としている。

 (2) 「金平糖」か「コンペイトウ石」か
      インターネットで「自然砒」を検索すると、「金平糖」と「コンペイトウ石」が出てくる。
     「コンペイトウ石」は初めて見聞する呼び方だ。明治32年(1899年)、神保小虎が「地
     質学雑誌」に『鉱物の日本名』という論文を発表している。
      この中で”石の方言”について触れ、「自然砒」の方言名を紹介しているので引用
     する。

      『 ・・・・石の方言を我国に求むる時は其数決して少なからずして、其用ひ方も大抵
       範囲明瞭なり。
       ・・・・・左(下)に余が知る所の例を挙げん。

        (1) ジャコツ(そーだ沸石)
        (2) チガイイシ(中性長石)
         ・
         ・
        (15) コンペイトー(球状の自然砒)
         ・
         ・

         ・・・(15)は越前、・・・・・(18)より(20)は諸国にて言う所の名称なり。     』

       現在、地元でどのように呼ばれているのか調べていないが、明治時代には「石」を
      付けず、単に「金平糖(コンペイトー)」と呼んでいたようだ。

 (3) 続・毎日が『ミネラル・ウオッチング デー』
      Nさん夫妻と別れて福井ICで下り、産地に着いたのは13:30ごろだった。雨は止まず
     時折、強く叩きつける様に降る。川は増水し、白波が立っている。長靴では無理な
     深さなので胴長を履き、川底をまさぐるように一歩一歩慎重に進む。両手にパンニン
     グ皿などの採集道具を持っているのでバランスが悪く、何度か流されそうになったが
     何とか渡りきった。渡ったは良いが、更に増水し、戻れなくなったらどうしよう、と採集
     中、何度も川面を気にしていた。

      採集を始めて3時間ほど経ったとき、『31mmの金平糖』が採れ、一気にテンションが
     上がった。雨は一向に止む気配はなく、周りが薄暗くなって気がつくと、18時だった。
      この続きをやってみたくなり、毎日が『ミネラル・ウオッチング デー』の気安さなので、
     大野市内で夕食、入浴を済ませ、車中泊することにした。

      翌朝、6:30のラジオ体操と共に、ズリに立っていた。前日の続きを攻める。雨が止み
     晴れ間が見えたかと思うと薄暗くなり、バラバラと雹(ひょう)が降り出した。
      採集を始めて4時間も経ったころ、『10mm大の金平糖が2つ並んだ母岩付』が採れ
     ますます元気が出てきた。
      少しお腹が空いた、と思って時計を見ると13:30だった。何と、7時間余り、呑み食い
     どころか、休憩もせずに採集していたことになる。石友・小Yさんに『キ印』、と言われ
     そうだ。

6.参考文献

 1) 和田 維四郎:日本鉱物誌(第1版),東京築地活版製造所,明治37年
 2) 市川 新松:福井縣鑛物誌,同,昭和8年
 3) 日本鉱産誌編纂委員会:日本鉱産誌(BT-a) 金・銀その他,東京地学協会
                    昭和30年
 4) 原田 準平監修:日本産鉱物文献集(1872〜1956),日本産鉱物文献集編集委員会
               1959年
 5) 飯山 敏道:鉱床学概論,東京大学出版会,1994年
 6) 松原 聰、宮脇 律郎:日本産鉱物型録,東海大学出版会,2006年
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